ラブコメは起こらないと言ったな、あれは嘘だ
――百代曜子視点――
「こんにちはー」
あたしは阿山君の部屋のドアを開けると、いつもと同じように明るい感じの声を出した。たぶん、出せていると思う。
「はいいらっしゃい」
阿山君はあまり歓迎してなさそうな、ローテンションなあいさつ。
いつものことだから気にしないけど。
短い廊下を通って部屋の中に入る。
ベッドやテーブルの配置は定規で測ったみたいにぴちっとしてて、床に物が散らかっていることもない。引き出しが半開きだったり、脱ぎっぱなしの服がベッドに放り投げられてたり、カーテンが紐で止まっていない――ということもない。
とても片付いているけど、それもいつものこと。
あたしが来るからといって、無理に掃除をしているような感じが全くないのだ。
「最初に言っとくけど、今日みたいなのはこれっきりにしてよ」
阿山君がネチネチとした説教っぽい口調で言う。
「わかってるよぉ、だって一枚しかもらってないし」
あたしは〝お食事券〟を差し出すと、阿山君はそれを破れても構わないくらいの勢いでひったくった。
それはクリスマスのプレゼント交換で、阿山君からもらったものだ。
小さな子供が両親に送るような「肩たたき券」的なものだけど、そういうのは子供がピュアな心でやるからいいのであって、阿山君のようなひねた感じの高校生がやると、手抜き以外の理由が見つからない。
使ったら使ったで、ロコツに迷惑そうな反応をされちゃうし。
ま、確かにあたしも、ちょっと使いどころが意地悪かも、とは思うけど。
「最初で最後だからって?」
「そーそー」
「食券乱用だよこれは」
「あー、それぜったい用意してたネタでしょ」
あたしの突っ込みに、若干ドヤ顔だった阿山君はそっと目を逸らした。
これはちょっと、幸先いいかも。
あたしは甘いものを食べたときみたいに頬がゆるむのを感じながら、台所にスーパーの袋を置いた。
今日は2月13日。
バレンタインデーの前日である。
◆◇◆◇◆◇◆◇
二月に入ってしばらくすると、あたしは表面上だけではなく、心の中も割と穏やかに、過ごせるようになっていた。
進藤君と別れてすぐの頃は、それを知ったクラスメイトに表面的な慰めを受けたり、ざまあみろ的な陰口を叩かれたりして、別れたこと以上に、周りの雰囲気のせいでキツい日が続いていたから。
みんなは別にあたしを攻撃しようとしているわけじゃない。
あたしだって、クラスメイトの誰それが別れたという話があれば、いろいろ噂しちゃうと思うし。
だけど、それが自分に向かってくるとなると、そういうものだと割り切ることは難しかった。しばらくの間、あたしは放課後になるとすぐに家へ帰っていた。授業が終わってからも教室でダラダラしたり、友達と一緒に寄り道したり、そういうことができなかった。
だけど、そろそろ。
もうそろそろ、次のイベントがあるし、動き出さなきゃと思ったんだ。
「阿山君」
放課後になって1-1クラスから出てきた阿山君に声をかける。
「ん、ああ百代。どうしたの」
阿山君は眠そうな声で言う。
呼び捨てになっているのは、あたしがお願いしたからだ。
だって、いつの間にかヒメのこと、「繭墨」って呼び捨てにするようになってたから。
ちょっとずるいなと思って、あたしも同じように呼ぶようにお願いしたのだ。
あたしは財布から紙のお金と同じサイズの紙切れを取り出して、阿山君に突きつけた。
「何これ」
「忘れちゃったの? そっちがプレゼントしてくれたやつじゃん」
阿山君は紙切れをまじまじと見つめ、ああ、と軽くうなずく。
クリスマスのプレゼント交換で、阿山君が用意したプレゼントだ。
阿山君の家で使えるお食事券。ちなみにこれ、1000円札とぴったり同じサイズに揃えられている。
「いらないから返すってこと?」
「違いますー、明日、使いたいんですけど」
「明日って、休みなんだけど」
「いいでしょ?」
「よくないよ。僕にも予定ってものが」
「ないでしょ?」
追及すると、阿山君はそっと目をそらす。
「まあ、うん、ないけど……」
「じゃあいいじゃん」
いやでもなぁ、と阿山君ははっきりしない。
「僕としては、学校帰りに小腹を満たすような、ファストフード的な用途を想定してたわけで、休日の豪華ディナーとかはちょっと……」
「大丈夫、そんな無茶振りじゃないから」
「ホントに?」
「お昼から夕方くらいの間だけだから」
「まあ、それくらいなら……」
しぶしぶ、といった感じで阿山君はやっとうなずいてくれた。
一度でも下がってくれたらあとはこっちのものよ。
『チョコレートを手作りしたいから台所を貸してほしいの』
『お食事券を使えば台所を使うでしょ』
『だったらあたしが使ってもいいじゃない』
『作るのが料理じゃなくてお菓子になるけど、それくらい大した違いじゃないよね』
『阿山君の手を煩わせなくて済むから、むしろ楽になるんじゃない?』
あたしはそんな屁理屈を並べ立てて、強引に約束を取り付けたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
――阿山鏡一朗視点――
百代が赤と白のチェック柄のエプロンを着用して台所に立っている。
僕は正直、困惑していた。
あのブッシュドノエルからまだ2ヵ月と経っていないのに、今度はバレンタインの手作りチョコときた。
女子力が低いくせに、高いレベルが要求される戦場にばかり突っ込んでいく姿勢はどうなのだろう。当人は楽しんでいるのかもしれないが、巻き込まれるこっちはたまったものじゃない。
1度目――ブッシュドノエルのときは強引さに負けた。
2度目は屁理屈と、あと自分の蒔いた種に負けた。
3度目はないと思いたい。
まあ、これが最後という認識は共通している。
それに、これは新たなる門出でもあるのだ。
つい先日恋に破れた百代が、再起をかけて新たなる弾丸を仕込んでいる。
黒くて甘い弾丸で男子のハートを打ち抜くつもりなのだ。万全の状態で戦いに臨めるように手伝ってやろうじゃないか。
そこで僕はふと考える。
百代はもう次なる狙いを定めたのだろうか。
直道と付き合っていたときの百代は、特にほかの男子に色目を使ったり、興味を引かれているようなそぶりはなかった。あえて言うなら生徒会長と話していたとき、ちょっと猫なで声だった気がするが……、あれ以来、接点はないはず。
百代は順調に作業を進めていた。現在は、コンロに鍋をかけ、その上にボウルを置いているところ。鍋にはお湯が、ボウルには粉みじんに刻んだチョコが入っている。湯煎してチョコを溶かしているのだ。
事前に聞いたところでは、型に入れて冷ますだけのシンプルなものから、中にウエハースやフレークを混ぜ込んだもの、さらにちょっとレベル高そうな生チョコなど、いくつかのレシピに挑戦するつもりらしい。
「一応調べたけど、チョコはかなりデリケートな食材だから、乱暴に扱わないようにね。この前の生クリームみたいに雑に混ぜると、泡が入って食感が妙なことになるらしいから」
声をかけると余裕の返事が返ってくる。
「大丈夫、あたしも勉強してきてるんだから。ゆっくりじっくり丁寧に、レシピどおりにやりますよー」
「温度計は?」
「持ってきてますよー」
百代は調理用のスティック温度計を自慢げに見せびらかす。
「おお、本気みたいだね」
「あたしだって、いつも行き当たりばったりなわけじゃないですから」
一度と溶かしたチョコが冷えて固まると、表面が白っぽくなったり、まだら模様ができてしまい、あまり見た目がよろしくない。そうなるのを防ぐためにテンパリングという作業が存在する。
ところが、そのためには1℃刻みでの温度調整が必要であり、大ざっぱに片づけることができない繊細な作業なのだ。
僕なら絶対にやりたくない。百代もそのクチだと思っていたが、わざわざ温度計を購入してまで調理に臨んでいるあたり、かなり気合が入っている。
湯煎も弱火で徐々に加熱して、溶けてきたチョコはゆっくりとヘラでかき混ぜている。手慣れた風ではないが、丁寧な作業であった。
「ところで、誰に渡すのそれ」
「残念ながら本命がいなくなっちゃったし、今年はちょっとコンセントを変えてみようと思ってるの」
接触不良かな?
「ほう、その心は?」
「ホワイトデーは3倍返しって言うじゃない」
「言うだけなら無料だよね」
「渡したときは男子も調子いい返事をするんだけどねぇ」
百代はため息をつく。
「3倍になって返ってきた実例はないみたいだね」
「でもみんな高校生になって格好つけたい年頃でしょうし、少なくとも1倍ってことはないと思うの」
「多少は色を付けようと思うかもね」
「だからぁ、手作りという付加価値をつけて大量にばらまいたら、いっぱいリターンがあるじゃないかなって」
「計算高い女を目指すんだね」
「ビタースウィート曜子と呼んで」
百代は下手くそなウィンクをする。
胡散くさい恋愛アドバイザーのようなネーミングだ。
「あとは……、フツーに友チョコとか?」
「渡すか渡さないかで、女子の間で、友達とそうでない人のラインが決まってしまうのか。割と恐ろしいね、バレンタインデーって」
「面倒くさがって最初から渡さないって子もいるみたいだけど。ヒメとか」
「あー、いかにも」
「でしょ?」
同意すると、百代が苦笑いを浮かべた。
それから少し、こちらをうかがうような視線を向けてくる。
「だからこそっていうか、ヒメが渡すチョコは絶対本命だ、なんて陰でコソコソ騒いでる男子もいるけど」
それは繭墨にも聞こえていて、うんざりした顔をしているのだろうな、というところまで想像できた。ありとあらゆるイベントごとを忌み嫌っている繭墨にとって、この時期のクラスの浮ついた雰囲気は、不快でしかないのかもしれない。
「僕はちょっと、もらいたくないかなぁ」
「え、なんで?」
「3倍返しどころじゃ済みそうにないから」
「っふ、あはは、それ言えてる」
百代は声を出して笑うが、鍋の中のボウルが揺れると慌てて姿勢を正した。
真剣な横顔。
それを見て、僕の中にいらぬ心配が生まれた。
前々からあった気がかりが、はっきりとした言葉になる。
「あと……、ちょっと余計なことかもしれないけど……」
僕は大いにためらって、そして口にする。
「リターンを期待してチョコをばらまくのはいいけど、手作りでそれをするのは、控えるべきだ。やるなら既製品でやった方がいいと思うよ」
「……どうして?」
「気合入れすぎ、がっついてるみたいで周りが引くから」
「うっ」
「それに、気持ちも分散する」
「え?」
「手作りチョコをもらったって喜んだ男子も、それが実はクラス全員同じものをもらってたって知ったら、きっとテンション下がるよ。仮に1人か2人かに向けて、もっと別の、グレードの高いものを用意してたとしても、その価値まで下がってしまう。少なくとも僕だったらそう感じるから」
百代はじっとチョコに視線を落としている。
反応がないが、僕は続けた。
「せっかく頑張って作ってるんだから、手作りは一人だけ――とまでは言わないけど、身近な人だけに限っておいた方がいいんじゃないかな。……と、思います」
僕がしゃべり終えても、百代の視線はチョコに向いたままだ。
黒い水面でぽこりと気泡が立った気がした。
沸騰してるんじゃないか? 大丈夫だろうかと心配になってきたところで、
「ねっ、それって――」
百代が勢いよく振り向いた。
彼女の手か、持っていたヘラか何かが、鍋の取っ手に当たった。
鍋が大きく傾き、ボウルも傾き、そろってコンロから外れる。
段差でボウルが跳ねて、ひっくり返って百代の足元に落下した。
「ぎゃあっ!?」
大声を上げる百代。
ボウルは大きく跳ね、中身の液状チョコが百代の服やズボンにかかる。
「わっ、あ、ああ……」
落胆の声はすぐにまた悲鳴に代わる。
「……って熱っ、チョコ熱っ! 水どこ!?」
液体が服にかかっての火傷は、液体の量にもよるが対処を誤ると重症化しやすい。
僕は百代の手を取って浴室へ向かった。
「あ、床、汚れちゃう……」
「そんなのいいから!」
浴室に入るとシャワー口を持って水を出す。
「座って」
「う、うん……」
「冷たいけど我慢して」
言いながら、ズボンの上に水をかけていく。
右足のひざ下、脛のあたりはかなりチョコに染まっていた。流れる水が茶色くなる。
見たところ、そこと靴下に少しかかったくらいだろうか。
「ほかに熱いところはない?」
「うん、大丈夫だと思う……」
それきり、お互い黙り込む。
腰かけた百代。
ひざまずく僕。
目の前には百代の足。ズボンははいているが、水に濡れてどこか艶めかしい。
シャワーの水音だけが響いている。
密室での沈黙に耐え切れなくなって、僕は百代にシャワーを手渡した。
「熱いところに水をかけ続けて。服の上から」
「う、うん……」
「火傷のところは絶対に脱がないで、皮膚が服に張り付いてることもあるから」
「えっ! ……うん」
「じゃ、ちょっと片づけてくるから」
怯えた顔でうなずく百代を残して、僕は浴室から出た。
濡れてしまっていた靴下を履き替え、コンロ周辺の様子を確認。
それから汚れの拭き取りを行っていく。
その間、ずっと浴室からシャワーの音がし続けていて。
いつも口数の多い百代は、一言もしゃべらなかった。
拭き掃除をしながら、僕はいつかのやり取りを思い出してしまう。
『つまりラブコメは起こらないと』
『だってラブがないでしょ』
あのときの百代があまりにもあっさりしていたから、僕も変に意識しないようにと務めていた。
だが、さすがに、今日のこれは。
僕のような奥手な男子は、ラブがあろうとなかろうと、こういう状況で落ち着いてはいられないのだ。
――ラブコメは起こらないと言ったな、あれは嘘だ。
頭の奥で、渋いおっさんの声が聞こえた。
シャワーの水音は続いている。




