ラブコメは起こらない
冷蔵庫であのケーキもどきを寝かしている間、僕たちは後片付けに取り掛かった。
やはりお菓子作りで厄介なのは、調理ではなく準備と片づけである。
専用の道具が必要だしそのサイズも大きくなりがちだ。材料も多種多様、しかもいちどで使い切ることができないので、冷蔵庫の中も雑多になってしまう。
台所にはクリームやらスポンジのカスやらがあちこちに飛び散っている。昨日、気合を入れて台所周りの油汚れを除去した苦労が水の泡だ。
道具や食器類をまとめて流しに突っ込み、水洗いに入る。
流しっぱなしの水音と、ガチャガチャという食器の当たる音。
「ん」
「はい」
食器の受け渡しをする短いやり取り。
熱湯で食器の油汚れを軽く流してから、洗剤をつけたスポンジでこすり洗いをしていく。
百代は泡のついた食器の泡を洗い流すとタオルで拭いて、食器受けに立てていく。
僕が洗ったものを、百代が水で流してタオルで拭くという共同作業。
台所で男子と女子が横並びっていうシチュエーションは、なんかこう……、
ねえ?
気を紛らわすために、僕は百代に声をかける。
「大丈夫なの、この状況。彼氏がいるのに他の男の部屋に来てるとか。誤解されるんじゃないの?」
「今さらそんなこと言われても……」
百代は首をかしげ、にかっ、と笑う。
「別に大丈夫でしょ。仮に誤解されたとしても、間違いが起こることはないんだし」
「断言されたか」
間違いが起こることはない。つまり、僕が百代に手を出すことはない、という。
草食系の自覚はあったが、百代の目にも、僕は草しか食わないやつと映っているのか。
「あ、別に阿山君がビビリのヘタレだからとか、そんな風に思ってるわけじゃないからね?」
「そう?」
「うん、ちょっとだけだから」
「気を遣わなくてもいいんだよ」
「断言しちゃえるのはね、他にも理由があるの」
「僕の人間性への信用?」
「阿山君ってヒメのこと好きでしょ」
洗っていた計量カップがすべって落ちた。
「おっと」
「動揺してますなぁ」
「僕が繭墨さんのことを好きだから、百代さんには手を出さないと、そう言いたいわけ?」
「そゆこと」
「男っていうのは、別に好きじゃない相手にも手を出せてしまうものなんだよ」
「阿山君が男について語っちゃうんだ」
百代はケラケラと笑う。
脅かしてやろうという試みは不発に終わった。まったく動じてないし……。
やっぱり草食でビビリだと思われているらしい。
ここは一発逆転を狙うべきだろうか。
イケメン俳優がやるような、息がかかるくらいの距離まで近づいて、低い声で決め台詞を放つという技法を使えば、多少は反撃が出来るのだろうか。
いや、アレはダメだ。僕はコンマ1秒で否定する。自己を否定する。
「一応、言っとくけど、僕は別に繭墨さんのことは好きじゃないから」
「えー、ウソぉ。むちゃくちゃ意識してるじゃないヒメのこと」
繭墨のことを意識している、なんて言われてもこちらには自覚がない。
異性として意識してる度合いなら、繭墨よりもむしろ百代の方が高いくらいだと、自分では思っていたんだけれど。
「そうかな。よくわからないけど」
「だって、ろくに目を合わそうとしないし、話をするだけでもいちいち緊張してるし、基本的に警戒してる。いい格好しようとしてるんじゃないの?」
「……僕が?」
「自覚なかったんだ」
格好をつけているという自覚はなかった。
だが、緊張や警戒は、確かにしていたと思う。
それらは繭墨に対する基本姿勢だ。
「それに比べてあたし相手だと、今日みたいに2人きりっていう状況でも、完全に友達感覚でしょ。女子として見てない感じ」
「え……、そう?」
その指摘は的外れだ。心外だとさえ思う。
百代のことは、僕ははっきり女の子として見ている。
僕の交友関係の中ではトップクラスの女子らしさを持つ、女子の中の女子という扱いだ。
ただ、それで恋愛対象になるかというと、また別の問題だが。
「だから阿山君はあたしに手を出したりしないの」
「信用されてる、ってことにしておくよ」
百代の表情や仕草、立ち姿などを横目で見てみる。
彼女の方こそまったくの自然体、僕のことを男子として見ていない。
挑発されているわけではないらしい。……ないよね?
「たとえば、あたしが生クリームをひっくり返して、服がベタベタなるとするでしょ」
百代が自分の胸元に手を当てながら、そんなことを言い出した。
――ドジっ娘にまで手を染めるつもりか?
僕の戦慄をよそに、百代は続ける。
「そしたらシャワーを借りるじゃない」
――お色気シーンまで。
「でも着替えがないから阿山君の服を借りて、サイズが合わなくてぶかぶかだったりして」
――フェティシズム……、だと……!
「そんなことになっても、間違いなんて起きないと思ってるから」
「つまりラブコメは起こらないと」
「だってラブがないでしょ」
これはもしかして……。
僕は改めて、百代の本心を想像する。
これは、誘惑でも挑発でも信用でもなくて、……もしかしてけん制だろうか。
信じているから、おかしな真似はしないで――という。
……会話が途切れる。
とっくに洗い物は終わっていた。
「そうだ、ケーキ」
沈黙から逃れるように、僕は冷蔵庫からケーキを取り出した。
ホットケーキくらいの厚みしかなく、表面のチョコクリームものっぺりとしていて、あまり食欲をそそられる見た目ではない。
「マズくはなさそうね」
百代が安堵の声をこぼす。
……そうかな? という疑問は口に出さない。
ローテーブルまで持って行き、僕と百代はケーキを間に挟んで向かい合って座った。
一口サイズに切り分けて取り皿に乗せて、緊張しつつ顔を見合わせる。
試食タイムである。
「それじゃあ……」
僕と百代は恐る恐るの手つきで、チョコケーキを口に運ぶ。
口に入れたとたんに広がったのは、甘みではなく苦みだった。
百代が顔をしかめる。
「にっがぁ……」
「ある程度、想像はしてたけど……」
百代の失策だ。
直路がチョコはビターが好みだということで、チョコクリームを作るときに溶かすチョコに、カカオ95%を謳った濃厚なものを使ったのだ。おかげで材料費が高騰していた。
そしてスポンジ生地だが……、こちらはふわふわ感がなくパッサパサであった。
口の中の水分を容赦なく奪っていく、砂漠のごとき食感。
「生地の方も深刻だね……、焦がしたところだけじゃなくて、全体的にパサパサって……」
理由を考え、すぐに行き当たったのは、
「百代さん、これ、オーブンから出した後、冷やすときちゃんとラップした?」
尋ねると、百代はきょとんとしてから、
「あっ……、そういえば、わ、忘れてたYO!」
百代はフレミング左手の法則をそのこぶしに宿しながら、腕を前に突き出した。
「理由がわかったんだから明日は気をつけよう」
「真顔で流すとかあんまりじゃないの?」
百代は顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏した。
僕は一応、自分のぶんは我慢して食べ終えた。無理やり口に押し込んでから、ジュースで流し込んだ。
苦くてパサパサで、ほめるべきところがまったくないビタースイーツ。
ブッシュ・ド・ノエル(クリスマスの薪)ではなく、
アッシュ・ド・ノーウェル(不出来な灰)とでも名付た方がいいのではないか。
聖なる夜に嘆きの晩餐を、みたいな。
まあ、失敗は成功の元と言うし。
失敗した原因ははっきりしているので、きっと同じミスはしないだろう。
そういう意味では百代もいい経験になったはず。明日は大丈夫だ。
「このケーキらしき物体は持って帰ってよ」
タッパーを差し出すと、百代はガバッと顔を上げた。
こちらを恨みがましくねめつけながら、切り分けたケーキをタッパーに入れていく。
「残さず食べきるわよ、弟が」
「食べ物は大切にしないとね」
百代はタッパーをつかんで立ち上がると、
「それじゃ、今日はありがと」
「明日はまともなケーキができるといいね」
「ふんだ、阿山君のチョイS、内弁慶! また明日ね」
などと、奇妙な捨て台詞を残して去っていった。