スイート・バニラ・ガール
テオと祐未とバニラの話。
――追え、逃がすな。
体中が訴える声に従って裕未は勢い良く大地を蹴った。人通りの多い石畳の商店街を、弾丸のように素早く駆け抜ける。
裕未が横を走り抜ける時に間違えて蹴ってしまったカフェテラスのパラソルがバタバタとはためき、その下に置いてあった真っ白な椅子がバタンと大きな音を立てて倒れた。買い物袋を持った女性が物音に気付いて悲鳴をあげる。
裕未の鼻先を、潮の匂いが掠めていった。海岸を見渡せる丘の上にこの商店街はあるのだ。ブティックも喫茶店も図ったように赤煉瓦でつくられた町はこの国でも有数の避暑地であり、利益の大半を観光客に頼っている。赤煉瓦で統一された商店街は中世の面影を強く残し、時代に取り残されたような趣があった。時間がゆっくりと流れる町は訪れた者の心を和ませ、故郷に帰ってきたような気持ちにさせてくれる。故に赤煉瓦の道を走る男はその場に酷く場違いで、その男を追い掛けて全力疾走する裕未もまた、男と同じくらいに場違いだった。
ゆったりとした足取りで店のウインドウを見て歩く観光客の間を縫うようにして、男が走っていく。彼の尋常ならざる雰囲気を察知した人々が、時々悲鳴をあげて立ち止まった。そんな彼らの間をくぐりぬけながら裕未が走る。驚きに硬直した人々の間を走り抜けるのは思った以上に骨が折れた。
――このままじゃ、逃げられる。
悲鳴をあげたカップルの頭上を飛び越えたところでそう悟った裕未は、店の軒先に突き出た屋根に足をかけて、建物の上を走りはじめた。障害物がない分このほうが楽だ。屋根から屋根へ飛び移りながら、1人で障害物レースをしている男との距離をつめていく。丁度走る男の頭上に来た時、裕未は叫んだ。
「ゲームセットォオォ!」
彼女の怒号に気付いた男が勢い良く顔をあげ、飛び掛かってきた裕未を見て目を見開く。しかし予期せぬ攻撃に対して咄嗟に反応できるわけもなく、彼は降ってきた裕未に踏み付けられて
「ぎゃっ」
という、間抜けな声を出した。しかしそれでも諦めきれないらしく、不様に寝転んだまま男が激しく暴れまわる。
「おとなしくしやがれっ」
手足をばたつかせる男の腹へロデオよろしく馬乗りになって、裕未は怒号を飛ばした。地面に縫い付けられたまま裕未が銃を取り出す姿を見た男が、形容しがたい悲鳴をあげる。もともとクスリを使い続けて思考力が低下している所に長時間逃げ回ったものだから、すっかりパニックを起こしているらしい。裕未が脅してもおとなしくなるどころか余計に暴れ始めた男は、とうとう自分の上にのっていた裕未をはねのけ、彼女の腹部を勢い良く蹴り飛ばした。
「ぐぅっ……!」
思わず苦悶の声をもらした裕未の体が後方に飛ばされ、すぐ近くにあった街頭販売用のワゴンに叩きつけられてしまった。
「きゃああぁっ!」
店員の悲鳴が聞こえる。どうやら観光客にソフトクリームを販売していたらしく、ぶつかった勢いで銀色のサーバーを倒してしまった裕未は頭からバニラソフトクリームの原液をかぶる羽目になった。彼女が視界を奪う白くドロドロした液体を手で拭った頃には既に男は転がるようにして逃走を再開しており、裕未は思わずため息をついて握り締めていた銃を構える。周りにいた群衆が悲鳴を挙げ逃げ惑うのを気にせず、彼女は狙いを定めて引き金を引いた。
パァン、と空気の破裂する音が響き、走っていた男が不様に崩れ落ちる。デザートイーグルの弾丸を右足で受けとめた男は、悲鳴とも泣き声ともつかない声をあげながら痛みにのたうち回っていたが――しばらくして、甘ったるい液に塗れた少女に連行されていく。
そして赤煉瓦の町は、再び静かで穏やかな時間を取り戻した――
◇
「……なんだ、その甘ったるい匂いは」
仕事が終わり、疲れた体で報告のためにわざわざ顔を出した裕未に対して、嫌味な上司は開口一番そう吐き捨てた。色素を忘れた白銀の髪に炎の様にギラギラ光る赤い目を持った男――テオの顔をまっすぐ睨み付けて、裕未は口を尖らせてみせる。
「仕事中、ソフトクリーム屋にぶつかってバニラの原液かぶった」
裕未の答えが可笑しかったのか、テオが声を出して笑う。裕未も自分が間抜けな自覚はあったから、口を尖らせたまま静かに眉をひそめた。
「バカか」
わるかったな。と彼女がぼやけば、テオはまた笑い声をあげる。裕未は口をへの字に曲げたまま彼の元に歩み寄り、放置された椅子にどっかと腰をおろした。
「とにかく、ヤク中野郎はとっつかまえたぜ。あのクスリ使って生きてるの、あいつだけなんだろ?」
「ああ」
バニラの匂いを振りまく裕未がよほど面白いのか、ニヤニヤと笑ったままテオが言う。なにもそんなに笑うことはないだろうと思ったが、からかえる要素があればとことんからかうのがテオという男だ。
「……甘ったるい匂いがするな」
案の定、テオはニヤニヤしながら本日二度目のセリフを吐いた。
「もう聞いたよ」
裕未が呆れたように吐き捨てると、テオはニヤニヤ笑ったまま彼女を手招く。
「なんだよ?」
裕未が腰掛けた椅子を引きずり彼の元へよると、自然に首を突き出すような形になった。テオが呆れたようにため息をつき、言う。
「行儀が悪いぞ」
「うるせぇ」
裕未が反論すると、テオはまたため息を吐く。その後、自身も身を乗り出す様にして彼女に顔を寄せた。裕未は思わず驚いて身を退いたがその時にはもう手遅れで、裕未の唇から少しずれた、頬のあたりを生暖かく湿ったものが撫でる。
「はっ?」
裏返った声が出るのは仕方ないだろう。裕未が慌てて頬を擦ると、テオの口から
「失礼な」
という声がもれた。失礼なのはどっちだ。いきなり人の顔を舐めやがって。裕未は怒鳴りたい気持ちをなんとか堪えて、飄々としている上司を睨み付けるだけにとどめる。しかし男は裕未の視線などまったく気にしていないらしく、何事もなかったかのような顔で
「……甘くはないな」
と、つぶやいた。彼の意図が読めず、裕未は眉をひそめて声を荒げる。
「はぁっ!?」
「あまりにも甘ったるい匂いをさせるものだから、本当に甘いのかと思った」
椅子を引きずり後退した裕未に、テオはなんでもないことのように言う。
「思いの外似合ってるぞ、その匂い」
なにをバカな事をと、今度こそ裕未は声を荒げた。
「ばっ、バカかてめぇ!」
怒鳴り散らした裕未に対して、テオはからかうような笑いを浮かべてみせる。彼の表情を見て頭に血が上った裕未は、椅子から勢い良く立ち上がって乱暴な足取りで扉へ向かう。
「今度、バニラのかおりがする香水でも買ってやろうか?」
背後から聞こえてきた声には答えず、勢い良く扉を閉める。すると、部屋の中なから弾かれたような大きな笑い声が聞こえてきて、裕未は赤い顔をますます赤くしてしまった。