バナナフィッシュにうってつけの日
テオが祐未について考えてること。
「こんな青い空の日は、バナナフィツシュにうってつけだぜ」
浅黒い肌の男が、空を見上げて笑い声をあげた。今まで銃の手入れをしていた裕未は、彼の言葉を聞いてゆるゆると顔をあげる。
「なんだよ、バナナフィツシュって」
某国の対ゲリラ戦に駆り出された裕未は、現在海岸添いにある隠れ家に仕事仲間の男と二人で潜伏していた。明日になれば応援がくる手筈になっている。
「お前、知らねぇの? このあたりにもいるんだぜ」
「どんな魚だよ」
裕未が尋ねると男はニッと白い歯を見せて笑い、窓の外から見える青い海を指差した。
「あのな、バナナがどっさり入った穴の中に泳いで入ってくんだよ。穴に入ったとたん豚みてぇに行儀が悪くなって、際限なくバナナを食うのさ。バナナの食い過ぎで太っちまうから、穴から出られなくなってバナナ熱にかかる。んで、そのまま死んじまうんだ」
「なんだそりゃ」
裕未が呆れた声を出すと男は声を上げて笑う。
「なかには27本もバナナたいらげたやつがいるらしいからな」
「死んじまうなら、バナナなんか食わなきゃいいじゃねぇか」
裕未が言うと、男は笑いながらゆっくりと首を横に振った。
「しょうがねぇ。それがやつらの本能なのさ」
「ふぅーん」
男の言葉に気のない返事をして、裕未は銃の手入れを再開した。
「あっ! お前、もしかしたら、自分がバナナフィツシュ見たことねぇと思ってる?」
「思ってるもなにも、見たことねぇよ。仕事以外で、海になんか近寄らねぇからな」
それどころか、仕事以外での外出が禁じられているので、裕未は鳥も魚も犬も猫も、裕未と同じ境遇の生き物以外はあまり見たことがなかった。
「なんだ、若いくせにさみしい奴だな。なんなら今からでも見に行けるぜ?」
「あとででいいよ」
裕未が呟くと、男はつまらなそうに口を尖らせた。
「ノリの悪ぃ奴だな」
そして、視線を窓――正確には海――に移すと、今度は楽しげににっこりと笑った。
「それとな、バナナフィツシュが住んでるのは海だけじゃないんだぜ」
男の声を聞いて、裕未は顔をあげる。けれどすぐに視線を銃に戻した。
「川にもいんの?」
「いや、世界中!」
男の言っている意味が裕未にはよくわからない。
「お前も絶対見たことあるぜ。生きててあいつらに会わないなんてこと、ありえないからな。会わないとしたら、それは孤独だ」
――イカれたかな……
と、自分の銃を眺めながら裕未は思う。実際、戦闘の極限状態で狂う人間を裕未は何人も見てきたから、目の前の男が狂っていても今さら別段驚きもしないし仕事ができるなら狂っていようが正常だろうがどちらでも構わない。
大切なのは生き残ることだから、それ以外は些末ごとなのだ。
「……あたしは、見たことねぇよ」
裕未が軽く首を振って男の言葉を否定すると、男はケラケラと声をあげて笑った。
「いや、お前はバナナフィツシュを見たことがある。空にも海にも川にも陸にもバナナフィツシュはいるからな!」
「建物のなかにも?」
裕未が冗談半分で尋ねてみると、男は笑ったまま
「もちろん」
と答えた。
裕未のため息を無視して彼はいう。
「俺は色んなバナナフィツシュに会ってきたけど、お前みたいに綺麗なバナナフィツシュに会ったのは、初めてだぜ」
「……は?」
言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
試しにあたりを見回しても、生き物の影は見当たらない。
「……あたしに言ってんのか?」
裕未がおそるおそる尋ねると、男は笑ったまま
「お前の他に、誰がいんだよ」
と、首を傾げるではないか。
裕未は一瞬、バナナフィツシュと呼ばれたことと生まれて初めて綺麗だと言われたこと、どちらに驚くべきかと考えた。しかし男がバナナフィツシュの説明をした時に『豚のように行儀が悪くなる』と言っていたのを思い出し、考えるのをやめる。
「あたしは魚じゃねぇぞ」
吐き捨てながら、裕未はとうとう目の前の男が本当に狂ったのだと確信した。突然騒がないだけマシな狂い方だ。
「バナナフィツシュは、魚じゃないのさ。もちろん魚だけど、鳥だし獣だし人なんだ。それから、草で木で花だ」
「……はあ?」
裕未が裏返った声を出すと、男は心底楽しそうにクスクスと笑った。
「この世界に生きるものはみんなバナナフィツシュなのさ」
笑いながら、男が傍に置いてあったマシンガンを手にとる。裕未はなにごとかと一瞬目を見開いたが、すぐに男の意図を察して自分も銃を手にとった。
この男は、もしかしたらまだ狂っていないのかもしれない。
「あいつらももちろんバナナフィツシュだけど、あいつらはダメだ。行儀が悪すぎる」
「……確かに。だけど豚ってよりは、犬みたいだ。鼻が利きやがる」
裕未が軽口を叩くと、男はまた声をあげて笑う。
「お前、知らねぇの?」
「なにを?」
顔にまで泥と草の繊維を塗りたくった武装集団が、木々の間から銃を撃ってくる。
――大丈夫だ、この数ならいける。
「豚って、土のなかのキノコ見つけられるくらい、鼻が利くんだぜ」
「初めて知った」
建物の影に隠れて銃を撃ち、這って物陰を移動するとすぐ頭上を弾丸が通り過ぎた。激しく飛んでくる銃弾の雨が和らいだ隙に、手榴弾を相手側に投げ込んでやる。
「むこうはこっちの数を知らないからな。しばらくすれば引き上げるさ」
歌うように、男が言う。
「カンタンに言ってくれるぜ!」
裕未が怒鳴りながらマシンガンを打ち鳴らすと、男の銃も呼応するように火を吹いた。
「あんな豚みたいな奴らに負けるはずないさ」
男のその自信はどこからくるのだろう。
「なにが来たってあたしは負けねぇよ」
けれど裕未もやはり負ける気はないから、男と顔を見合わせて笑う。
「さあ、隻手の声を聞きに行くぜ!」
男が大声で叫んだ言葉の意味は、裕未には理解できなかった。
――そして、彼はその戦闘中に、銃で撃たれて死んでしまった。
◇
「なあテオ、バナナフィツシュってなんだ?」
裕未が尋ねると、目の前の男がピタリと動きをとめた。炎のようにギラギラした紅い目が裕未を捉える。
「なんだ、突然」
椅子に座ったまま向き直る男の肌は白く、髪は色素を忘れた白銀だ。壁も天井も白いこの部屋に溶け込んでしまいそうな、現実離れした白。
バナナフィツシュの話をしてくれた男とは似ても似つかぬテオの容姿を見つめながら、裕未は言う。
「今回仕事してた男がいってたんだ。説明してくれたんだけど、あたしにはよくわかんなかった」
テオは裕未の話を聞きながらも、彼女の服の袖をめくる。そして、青く浮き出た血管に注射の針を突き刺した。裕未の仕事が終わる度に身体検査をするのはテオの趣味だ。本人は仕事だと言っているが、裕未は趣味だと確信している。
赤黒い血を抜き取りながら、テオが口を開く。
「ああ、お前はバカだからな」
「わるかったな」
裕未が口を尖らせると、テオは可笑しそうにクスクスと笑い、血の入った注射器を銀色の容器に入れた。
「バナナフィツシュは、サリンジャーのバナナフィツシュにうってつけの日という短篇に出てくる架空の魚だ。帰還兵の男が、海岸で少女に語った寓話に登場する。男性器の比喩だの世界の縮図だの戦争を表しているだの色々な説があるが、サリンジャーは明確な答えを出していないから、結局謎のままだ」
「……ほんとにいる魚じゃねぇの……?」
テオに説明されても、やはり裕未にはよく解らなかった。首をかしげて尋ねると、テオが呆れたようにため息を吐く。失礼な男だ。
「どんな説明をされたかしらんが……どこの世界にバナナ穴やらバナナ熱なんてものが存在すると思うんだお前は」
「あたしに聞くなよ」
裕未だってちょっとおかしいとは思ったのだ。けれど世界中にいるというからいるのだろうと思った。陸にも建物のなかにもいるというのは、さすがになにかの例えだろうとは思ったけれど。
裕未がその場でふてくされていると、やがてテオがクスクスと笑いはじめた。
「なるほど、シビルより純粋な生き物ね。これなら、シーモアは死なずにすんだのかもしれん。いや、しかし案外……さらに死に急いだかもな……」
裕未には、その言葉の意味が解らない。
「シビルって誰だよ」
眉をひそめて呟くと、テオは笑いながら
「バナナフィツシュの寓話を聞いた子供の名前だ」
と答える。バカにされているようで裕未はおもしろくなかった。口をへの字に曲げている裕未を見て、テオが笑い声を大きくする。裕未がますます気分を害して顔を歪めると、それに気付いたのかテオがうすら笑いのまま裕未に言う。
「……で、お前はなんでそんな事を聞いてきたんだ」
「だから、説明されたけどわかんなかったんだよ」
この男は人の話を聞いていなかったのだろうか。裕未が答えると、テオは相変わらず口の端をあげたまま楽しそうに目を細める。
「それだけではないんだろう? お前は、説明されても解らなければそのまま放っておく女だ」
どうやら彼は、なぜ裕未がバナナフィツシュに興味を持ったのかが知りたいらしい。裕未は別に話してもいいのだが、理由を知ったテオにまたバカにされるかもしれないと考えるとすこし憂うつだ。
「……この世界に生きてるものは、みんなバナナフィツシュなんだって、いわれた。だから、ほんとはどんな魚だろうって思って」
「……ほう?」
だがバカにされると思った裕未の予想に反して、テオは彼女の言葉に興味を抱いたようだ。男が口元に浮かんでいた笑みをさらに強めて身を乗り出すさまを、裕未は不思議な気持ちで見ていた。
「バナナフィツシュの寓話は、欲望の制限がきかない人間を比喩的に表したのだという解釈もある。当然、生き物はすべて欲望の制限がきかない『バナナフィッシュ』であるという解釈もでてくるだろう。お前にバナナフィツシュの話をした男、どんな奴かは知らないが、俺と話があいそうだ。一度あってみたいな」
「……死んだよ、そいつ」
笑いながら呟くテオに裕未が言うと、彼は浮かんだ笑みを隠す様子もなく
「そうか、残念だ」
と、まったく残念だと思っていないような様子で呟いた。ヒトデナシ、と裕未が吐き捨てるけれど、テオには綺麗に無視されてしまう。彼女の呟きに答える変わり、テオはことさら大きな声でクスクスと笑った。
「やけにその男にご執心だな。まさか寝たことがあるわけでもあるまい?」
皮肉めいた言葉に、裕未は思わず眉をひそめる。
「そんなんじゃねぇよ」
吐き捨てると、テオはまた笑い声をあげた。この男の性格の悪さは、折り紙付きだ。
「だろうな」
裕未の言葉を聞いたテオはどこか嬉しそうで、裕未はそれがまた癇に障る。この男は裕未に自分で選んだパートナーとの性交渉などできないと思っていて、実際裕未はそういう感情や方法がよくわからない。テオはそんな裕未を知っていてなおかつ、裕未が自分の知らないあいだに変わる事を酷く嫌っていた。子供がおもちゃを取られたくないのと同じ原理だ。おもちゃ認定された人間には堪ったものではない。
「自分勝手だよな、お前って」
裕未の言葉を聞いて、テオがまたクスクスと笑う。
「人間だからな」
言葉を吐き出す唇は半月型の弧を描いていて、とても嬉しそうだった。笑う銀髪の男を見つめながら、裕未はゆっくり先ほど説明された内容を咀嚼していく。
「……人間が……バナナフィッシュなのかな……」
「人間も、バナナフィッシュなんだ」
裕未の言葉には、すぐさま目の前から訂正がなされた。テオが相変わらず嬉しそうな顔をしたまま、口を開く。
「生き物はそれが己にとって危険でない限り、己の欲望や本能を自制したりなどしない。共存とはあくまで生き延びるための手段であり、弱肉強食とそれに伴うサイクルは必然の結果であって、生き物が意図してやっているわけではない。一定の種が他の種を圧倒する力を持った時は、いかなるサイクルであろうと共存関係であろうと、力を持った種によって力の及ぶ範囲で破壊される。それは生き物全体が、自らの欲望や本能を自制し得ないという確固たる証拠だ」
テオの言っている意味がわからず、裕未は思わず首をかしげた。裕未が理解していない事を悟ったのか、テオは口の端を歪めたまま裕未のほうに手をのばしてくる。
「バナナを食わずにいられるバナナフィッシュが存在しないように、欲望や本能を自制できる生き物なんて存在しないということだ」
男の手が裕未の首筋に触れた。ちょうど頸動脈のあたりに触れているから、脈を計っているのだろう。
「それって、悪いことなのか?」
裕未が尋ねると、テオがこの上なく嬉しそうに笑った。てっきり馬鹿にされると思っていた裕未としては意外な反応だ。彼は裕未の質問に答える代わりに、上機嫌な笑みを浮かべながらこう言った。
「……お前は、俺が知り得るなかで最も美しいバナナフィッシュだ」
驚きに裕未が目を見開くが、テオはそれにかまわず笑っている。裕未はあわててテオの目をまっすぐ見つめ直し、あらためて彼に問い掛ける。
「あいつにも……おんなじこと言われたんだ。どういう意味だよ?」
裕未が口を動かしている途中に、首筋を触っていたテオの手が動いた。裕未の顎を少し強い力で持ち上げて、笑顔のまま口を開く。
「その男の話は終わりだ、裕未」
上機嫌な笑顔なのに、口調はどこか乱暴で不機嫌そうだった。
「……なあ、バナナフィッシュみたいな生き方は、悪いことなのか?」
裕未が再度尋ねると、テオは上機嫌な笑みをことさら強くしてみせた。
「いっただろう? 生き物すべてがバナナフィッシュなんだ。良いも悪いも、生き物はその生き方しかできない。高等な生き物ぶって欲望を制御しようとするほうが、よほど無様な結果を産むさ」
――どんな生き物にも、隻手の声は聞こえない。
テオはそう言って、裕未の顎に添えた手に力を込める。
――聞こうと思えば、どんな音だって、きっと聞こえるよ……
裕未はテオのギラギラ燃える紅い目を見ながら力なく答えて、静かに目を瞑った。
◇
裕未という女は、テオが知り得るなかで最も美しいバナナフィッシュだ。
シーツの上で丸くなる裕未を見て、テオはひとり考える。
バナナフィッシュが欲望の制御がきかない生き物の呼び名なら、この世にはバナナフィッシュしかいない。その中で一番美しくバナナフィッシュが、裕未だ。彼女は生というバナナを飽くことなく食らい続け、そのためだけに生きている。
生き延びるために生きている、野性の獣。
本能に従い己のみを信仰するそれは、心に自由を飼う欲望の化身であり、己しか信じないからこそ美しく雄々しく、魅力的だ。
自由は、自由を意識した時点で自由ではなくなる。定義があっては自由にはなり得ない。
純粋も野生も自由と同等で、定義を求めた時点ですべては本来の意義を失ってしまう。
それらを持つのは、いつもそれの存在さえも知らないような生き物だ。
――人の姿をしていながらそれらを持つのは、容易なことではない。
希少価値の高いものは、いつの時代もひどく美しいものだ。
ライオンは、雌が狩りをするという。その姿は美しく優雅で、雄々しく恐ろしいはずなのに人々を魅力する。
テオの目の前にいるのはまさに、その雌ライオンのような存在だ。
生き延びるために生きている。
彼女の本能はすべてが生を欲して、生きたいと言う欲望が体を支配している。
それは、この世で最も美しい、欲望と本能の、己自身の奴隷の姿。
己に危害を加えるものには容赦なく死をあたえるであろう、自由と純粋と野性と、死の、象徴だ――
「……ふっ……」
自分の考えが自分で笑えてくる。よくもまあ、そんな大仰な言葉でひとりの人間を飾れるものだ。
それはもしかすると、自分には一生手に入らないものを彼女が持っているからなのかもしれない。
すくなくともテオは、彼女のようにがむしゃらに生きたいとは願わない。死は時として、彼にとって酷く甘美な誘惑だ。
「あんたは、だから死んだのか? シーモア……」
口に出して答えのでない質問をしてみたら急に馬鹿らしくなって、テオは滅多に吸わないタバコを引き出しの奥から取出し、美味くもなんともないそれに火を点けた。




