キリマンジャロの雪
テオと祐未が会話してるだけ。
「キリマンジャロは高さ19710フィートの雪に覆われた山で……西側の頂きはマサイ語で“神の家”と呼ばれている。この西側の頂上近く、ひからびて凍りついた一頭の豹の死体が横たわっている。こんな高いところまで豹が何を求めてやってきたのか、だれも説明したものはいない――」
その時男は、吸わないはずのタバコを吸っていた。暗がりでチカチカと、赤いタバコの火が光る。
裕未はまだダルい体を無理やり起こして、男――テオに尋ねた。
「なに言ってんだお前」
男の、タバコの火と同じくらい光って見える紅い目が笑みの形に歪み、口は半月型の弧を描いた。透き通りそうな白い肌が、薄暗い中でやけに浮いている。しかし色素を失った銀色の髪は、その肌よりもはるかに浮世離れしていた。
「キリマンジャロの雪という小説にでてくるんだ」
彼はそう言って、タバコの煙を吐き出す。裕未が慣れない臭いに顔をしかめると、男は楽しそうにクスクスと笑った。
「お前、小説嫌いなんじゃなかったっけ」
「まあ、暇潰し程度になら読むさ」
裕未が尋ねると、テオは短く答えてまたタバコをくわえる。彼は他人に見下されるのを酷く嫌う。だからいくら小説が嫌いでも、名作と呼ばれるものくらいは読んでいるのだろう。もしかしたら小説が嫌いだという発言自体、『現実逃避しているようでカッコ悪い』などと考えた結果のデマカセなのかもしれない。
「お前はどう思う?」
「は?」
裕未が思考の海――といってもテオは水溜まりくらいだと言うだろう――に沈んでいる最中に突然声をかけられて思わず間抜けな声をあげると、テオがタバコの煙を吐き出してクスクスと笑う。
「豹は、なぜそんな場所にいたのだと思う? なぜそんな場所で死んでいたのだと思う?」
「あたしが知るかよ」
裕未が答えると、テオがまたクスクスと笑った。
「まあそう言うな。こういうことを考える時間は無駄じゃない」
そう言って、テオはまたタバコをくわえる。彼の口から吐き出される煙の臭いに、裕未は顔をしかめた。
「いろんな奴が考えたのに説明できねぇこと、あたしにわかるわけねぇだろ」
ベッドに寝転んだまま裕未が口を尖らせると、テオはニヤリと笑ったまま裕未の隣に座り直す。ずいぶんと機嫌が良いようだ。
「むろん死んだ豹の心理を完全に説明することは不可能だが、自分が豹だったらと想定することは出来る」
テオは機嫌が良いとこんなふうにとりとめのない話をする時がある。裕未は暇潰しの方法があまりないので、そういう時は彼の話に付き合うことにしていた。
「お前がもしこの豹で、そうだな……山に行った理由は良い。死んだ豹と同じ場所にいたら、頂上をめざすか? それとも下界へ帰ろうとするか?」
タバコがどんどん短くなっていく。チカチカと赤く光る炎とテオの目を見ながら、裕未は仰向けに寝転び直した。
「帰る」
「なぜ?」
赤い目が裕未を見た。タバコの臭いがする。
「だってそんなとこにいたら、死んじまう」
裕未は死ぬのが嫌だ。呼吸が止まることは恐怖だ。だからそんな死ぬような場所にいつまでもいる気はない。
「……もう、戻ることは不可能かもしれない」
テオがタバコをくわえながら小さく呟いた。赤い目が裕未からそらされる。裕未はふいに、男が泣き出しそうだと思った。
「戻れねぇと思うから戻れねぇんだよ」
けれど裕未には慰める方法などないし、そんなことをするつもりもないから、彼の質問にだけ淡々と答える。男の赤い目が裕未を捉えた。
「死ぬと思うから死んじまうし、戻れねぇと思うから戻れねぇんだ。意地でも生きてやると思えば生きられるし、ぜってぇ帰ると思えば帰れる」
豹がなんでそんな場所にいるかなんて裕未にはわからない。もしかしたら心ない人間につれてこられたのかもしれないし、自分の意志でそこまで歩いてきたのかもしれない。
「あたしは生きて、意地でも帰るぞ」
でも、そんな裕未にもわかることがある。そいつが死んだのは、あきらめてしまったからだ。
もう無理だと思ってやれば、どんなことだって失敗する。それが難しいことならなおさらだ。逆に言えばどんな無茶だって、意地でも成功させると思えば成功する。
だから裕未は、生きることをあきらめたりしない。勝つことをあきらめたら死んでしまうからだ。
「まだ、死ねねぇんだ」
言って、自分が死んでも良いと思う時なんて永遠にこないかもしれないと思った。裕未はきっと、心ない人間にキリマンジャロの中腹へ放り出されても、それで道に迷っても、意地でも下界へ帰るだろう。帰れないなんて思わない。それは死を意味するから。
「……お前らしい答えだ」
タバコの煙を吐き出してから、泣き出しそうな顔でテオは笑った。男の顔をみながら、裕未は
――きっとこいつは頂上に登ろうとするだろう
と、考える。
戻れる可能性が低いならせめて気高い死を望むと、頂上で胸を張って死を選ぶのだろう。それが彼の答えなのだから、裕未は否定したりはしない。
――豹は、自ら望んでキリマンジャロに登ったのだろう。
そして気高い死を選んだのだ。裕未にとって死は死以外のなにものでもなく、気高い死も無様な死も存在し得ないけれど、すくなくとも豹にとって――テオにとって――は、気高い死や無様な死があるに違いないのだ。
裕未には、理解できそうにないけれど。
「豹は頂上をめざしたのだと思う」
タバコをくわえて、テオが呟いた。
「人は死ぬが、死は敗北ではない……ヘミングウェイの言葉だ。豹は戻れないならと、気高い死を望んだに違いない」
テオはタバコの煙を吐き出し、短くなった吸い殻を灰皿へ押しつける。裕未はそれをぼんやり見ていた。
「それはお前の答えだろ」
裕未がいうと、テオが赤い目を歪めて笑う。
「ああ、そうだ。豹が何を考えて、求めていたのか、完全に説明できるものはいない」
テオが光源のスイッチに手を伸ばした。パチリと音がして、あたりが闇につつまれる。
「俺たちは、想像するだけさ。キリマンジャロの雪にうもれた豹の心理を」
男の影が、裕未の上に覆いかぶさった。