第8話
第8話
「えーと……君は?」
「椎! 体は大丈夫なの?」
「椎! おまえ寝てなくて良いのか!」
僕の質問をかき消され、鮎川さんと堅剛さんコンビが畳みかけるように彼女に質問をした。
「うん……少しは良くなったし、そろそろ行かないと……更生プログラムを辞退したとも取られない状況だって言われたから……」
体調が優れないからなのか分からないが、非常に聞き取りにくい小さな声を発した。彼女は軽くせきをするとそのまま席に着いた。
「もしかしてずっと来てなかった山本さんかな?」
「山本椎」名簿にあった最後の名前だ。二人が椎と呼んでいた時点で、彼女はここに来ていなかった最後の生徒で間違いはないだろう。
「えっ……はい……山本椎です……えっとその……今まで授業出れなくてご、ごごごめんなさい……」
彼女は丁寧に頭を下げた。元々、体調不良だったと聞くし、事情もあるのだから仕方がないだろう。
そして、元々小さい声だが、今、僕と話したとき怯えた様子であることに気づいた。相変わらずこの施設の生徒からの第一印象は最悪のようだ。
名簿に書いてあった情報であるが、原因不明の体調不良と聞き、一ヶ月授業に出れてないので少し不安があった。彼女の学力はまだ知らない。はたして、授業についてこれるのだろうか。
「今の学習範囲はこんな感じなんだけど、授業にはついてこれるかい?」
僕は今日配った数学のプリントを山本さんに見せた。
「えっ……ちょ、ちょっと不安です……」
「大丈夫だって、俺だってついていけてるんだから椎もついていけるぜ!」
「いや、エリカ全然ついていけてないでしょ……」
「それよりごめんね椎。私も配布物とかコピーして渡しに行こうかとは思ったんだけど、あまりにも来ないから言いにくいんだけど……辞退するのかと思ってて……」
「そ、それは大丈夫です、明日からはちゃんと来るように努力しますから……」
この3人の会話を聞いていると、山本さんが授業に来なくなるまでは3人とも仲が良かったのだと思った。その事実を目の当たりにすると、馴れ合うつもりはないと言った、今もただこちらをにらむように見つめているユエさんの言葉に信憑性が増す。彼女は僕も含めて誰にも心を開いていないのだ。
山本さんの現状をある程度把握したところで、授業を再開することとなった。とりあえず彼女が入ってくる前の話を続けて、理解度を確かめたが、堅剛さんが分らないのはいつものことだが、山本さんもあまり分かってない様子だ。
4人生徒がいて半分の人間が授業が分からないのは問題だし、なによりも途中から来た山本さんを放置して授業を進めるのはナンセンスだろう。進藤さんの作った授業予定よりも少し早く進んでいる状況なので、僕はある提案をした。
「皆聞いてくれ、今授業は予定より早く進んでいるから、残りの時間は久しぶりに来た山本さんに理解してもらうために皆で教えあう時間にしよう」
ちなみに僕が直接教える様にしなかったのは、彼女は僕に怯えているからだ。ここで僕が教えるために近づいたりすると逃げ出したり、なにかトラブルが起きたりするかもしれないと考えた。
鮎川さんに教えて貰えば、理解度は深まると思ったので、彼女ともいずれ打ち解ける必要があるが、焦らず安全な策でいこうと考えたのである。今までいきなり近づいて鉛筆を投げられたり、褒めたつもりが嫌味に聞こえてしまったり、色々失敗をしてきた反省から慎重にいくことを決めたのだった。
早速、山本さんのためのカリキュラムに切り替えようとしたときに、再び教室のドアが開いた。
「ユエ君、ちょっと良いかな~、事情聴取したいことがあるから本庁まで来てほしいんだけど」
今日は来客が多い日の様だ。ほとんどここに来ない進藤さんが突然現れ、ユエさんに話しかけた。
「はい、わかりました」
「うーん!返事が良いね~、それじゃあよろしくー。青山先生、彼女は今日はもう来れないから、今日は山本さんの補修とかしといてね」
進藤さんとユエさんはそのまま教室から出て行った。いつもは僕に腹が立つ口調で話しかけてくる彼が
気のせいか何時もより急いでいるような雰囲気であった。ユエさんは名簿を見れば分かるとおり一番ワケありな生徒なので、進藤さんも何かしら現在進行形で関わっている所があるのかもしれない。
「ここはこれをaと置いて問題文に書いてある数値を代入するだけ」
「はいわかりました……鮎川さんありがとうございます」
「えっ? なんでこうなんの! 茉莉もう一回説明してくれよぉ!」
山本さんの理解度は普通の人より少し上くらいなので、鮎川さんのわかりやすく簡潔な説明を一ヶ月前の範囲から受ける事で、どんどん理解を深めていった。むしろ復習にも関わらずあまり理解ができていない堅剛さんを本気で心配したくなってしまう、
正直なところ、鮎川さんが先生をやった方がいいんじゃないかと思ってしまう。半月分くらいの範囲の復習を終えると、頭をかいて欠伸をしている堅剛さんが山本さんにこういった。
「つか椎! 堅剛さんって言うのやめようぜ! なんつーか同じクラスの友達なのに苗字で呼ばれるの他人行儀なのなんかかゆいし、今度からエリカって呼んでくれよ」
「私もそれ思ってた! 私も茉莉って呼んでもらって大丈夫だから」
「えっ……えっ?」
突然の堅剛さんの提案に山本さんは困惑しているようだ。遠慮があるのか、呼び捨てにする気恥ずかしさがあるのか、山本さんは「えーと」と言い続ける壊れたラジオのようになってしまった。それを見かねた鮎川さんが突然、僕の方を見てこういった。
「そういえば先生も私たちのこと苗字で呼ぶよね?」
「そういえば、そうだね」
なるほど。ここで僕が名字呼びから名前呼びに変えれば、山本さんも名前で呼びやすくなる。それでもいざ呼ぶとなると気恥ずかしいので、山本さんの気持ちも分かる気がした。
「それじゃあ、ま、茉莉さん、え、エリカさん」
「呼び捨てな、ほら、椎にお手本見せてやれよ」
堅剛さん……いや、エリカさんがハードルを上げてきた。呼び捨てはさらに気恥ずかしい気がするが、二人は刺すような視線でこちらを見つめてくる。ここで呼ばないわけにはいかない。
「ま、茉莉! エリカ!」
「よし! 後はおまえだけだな椎!」
「えっと……はいわかりました。エリカさん、茉莉さんって呼びます」
結局さん付けなのかと思ったが、彼女たちは納得したのか、二人でハイタッチをした。すると彼女たちが喜んだ刹那……。
「あのっ!先生……そのっ! 私の事も椎って呼んでもらって良いですか……なっ、なかま外れは、い、いやなので……」
初めて彼女から僕に話しかけた瞬間だった。どもっているのは相変わらずだが、声色からあからさまな恐怖が少し消えていることを僕は見逃さなかった。もちろん、彼女が勇気を出して頼んだ頼みを無下にすることはできない。僕は快く承諾した。
「あれっ? 椎、さっきまで先生怖がってそうだったのにどうしたの? やけに積極的じゃない?」
それに驚いた茉莉が椎に質問をする。
「椎はセンセーの事怖がってたのか? こいつに怖いところなんかなんもねーぞ。痴漢野郎ってことになってるけど、こいつ曰く冤罪って言ってるしな」
「まぁ先生が言わなくても話していれば、この人は痴漢なんてできるような度胸のあるようには思えないからね」
「そうそう!男のくせになよなよしてっから、そこはちょっとムカつくけど、優しくて良い先生だぞ」
好き勝手に二人で僕のことを目の前で言っているようだ。それを聞いて椎は少し呆然とした様子だった。何かを考えているのだろうか。その様子に二人も気づき不審に思って声を掛けたり、目の前で手を振ったりすると……
「わっ!ごめんなさい……ぼーっとしちゃいました、そっ、そのもう皆あっ……あの事件を気にしてない様子だから吃驚しちゃって……」
あの事件と言う単語を聞いた瞬間、茉莉とエリカの顔が硬直した。恐らく椎の言うあの事件は、僕も進藤さんから聞いたので概要だけは知っている。この学校が無法地帯化して36人の生徒が辞退し今の生徒数になった原因を作った事件だ。事件概要見ても悲惨な記録が何ページにも渡ってつづられていたので、見ていられなくなり僕は簡単にしか目を通すことができなかった。
概要を見ただけでも酷い事が分かる事件だ。その場にいた彼女達にとっては相当なストレスになっただろう。そう思ったとき僕は椎が学校に来れなかった原因が分かった気がした。彼女は4人の中で一番あの事件を恐れていた。気弱な性格が恐怖を増長させたのだろう。
そして、事件で特に外傷は受けず生き残り、問題を起こした生徒たちが辞退することを知り、問題を起こした生徒たちから離れるためにここに残ることを選んだ。もし、ここを辞退すれば彼女の扱いは他に辞退した生徒と同じ扱いを受ける可能性が高い。
しかし、そこに待っていたのは最悪な教師と、少なからず事件で傷を負った他の3人の生徒。2人によって辞めさせられた教師がいたという話を聞いていた。想像だが、そこでもストレスのかかることがあったので、とうとう我慢の限界を越え、恐怖で体調不良を起こした。
そう考えると辻褄が合うし、もしそうだとすれば今ここの環境が変わっていると感じ始めている彼女に
安心をさせてあげる事ができれば、彼女は明日からもずっとちゃんと学校に来てくれるかもしれない。そう思った僕は二人の表情が硬くなり、気まずくなっている椎に話しかけた。
「椎、僕は君たちが体験した事件については分からない。でも、君のおびえる様子からとっても怖い思いをしたんだろう。1ヶ月来れなかった君からすれば考えられない話かもしれないけど、堅剛さ、いや、エリカがしっかり授業を受けるようになって、みんなで楽しく学べる場になったんだ」
「そうだぜ! 授業が終わったら、トランプとかで茉莉と先生と遊ぶんだぜ! もちろん、椎も遊ぶだろ?」
人間誰しも過去を引きずってしまうのは仕方がない。僕だった痴漢の冤罪を受けて、三代子に裏切られた過去を引きづっていないといわれれば嘘になる。だからこそ、過去はともかく、今のこの教室は楽しい場所だってわかってもらいたい。
「少なくとも今、君を殴ったり罵るような人間はここにはいないよ……だから、明日は元気な顔を見せてくれないか?」
聞いているとき椎は気になるものを見つけた小動物のような目で僕の顔を凝視し続けた。そして僕の話が終わると、他の二人の顔を順番に見る、二人とも事件の事を聞いてさっきまで硬直した様子はなく、椎がエリカを見ると、エリカは親指を立てて笑顔で返し、椎が茉莉を見ると茉莉は黙って頷いて返した。
「先生、分かりました、私は大丈夫です、明日からちゃんと来ますから」
こころなし……いや誰の耳からしても彼女の声が鮮明になっているのに気づいた。もしかすると恐怖のせいで声が小さくなっていただけで、本来はこれぐらいの声で今まで話していたのかもしれない。僕もすっかり彼女の恐怖が消えて安心したところに、突然、茉莉に肩を叩かれた。
「先生、後、授業時間20分で半分しか終わってないけど大丈夫なの?」
そう思ったのも一瞬で彼女の一言により、僕は時計を見返して再び焦ることになった。
「それじゃあ私はこのバカをきっちり教えるんで、先生は椎に残りの範囲の復習をお願いします」
「誰がバカだよ!」
茉莉は椎の補修を提案した僕の意図に気づいていたようだ。彼女の僕に対する恐怖心がなくなった以上、教えるのは僕の役目になる。
授業が終了して、トランプゲームでひとしきり盛り上がった帰り道。椎が袖を掴んできたので振り向くと突然、彼女が耳元に口を近づけ、今まで話していた声よりも小さな声でこうささやいた。
「さっきはありがとうございました……」
彼女は僕にお礼を言うと、速足で僕を追い越して帰っていった。年下とは言え、女の子にこう言うことをされるとさすがに照れるものがある。しかし、彼女にそんな意図はなく、ただ皆に聞かれないようにお礼を言いたかっただけだろうと思うので、少し高鳴った心臓を押さえて校舎を後にした。
続く