プロローグ
久しぶりに新しく執筆した新作でございます。
2021年リメイク。
その日、人を殺すのにハンマーやナイフといった凶器が必要ないことを知った。
耳の横で風を切る音が聞こえたかと思えば、後ろには十メートルも距離があるにも関わらず黒板に深々と刺さった鉛筆が見えた。
もし、鉛筆が黒板ではなく心臓に刺さったのなら、僕はもうこの世にいなかっただろう。
「私の半径五十センチ以内に近づかないで……」
誰が見ても分かる凄まじい拒絶を行動だけでなく、言葉で示す目の前の少女。彼女の体格は僕より一回りも二回りも小さい。
そんな少女に刃物や毒物を使わなくても鉛筆一つであの世に送られることを実感していた。
あまりのことに動揺を隠せなかった。本来であれば注意する立場にあるにも関わらず言葉をつむぐことができない。
思えば、なぜ教員免許を持たない普通のサラリーマンであった僕が教師をすることになったのだろう。
それは僕の人生が壊れた「あの日」がきっかけだった。
◇
狭い箱の中で数えることも気だるくなるほど多くの人間の熱気を全身に浴び、その熱気に影響され生暖かくなった空調の風に気分を害しながら何時もの通りの日常を送っていた。
夏の早朝の混雑した通勤電車ほどストレスが溜まる物はなく、左手でつり革を軽く掴み、右手には黒い革のバッグを持ち、左手を離し、眠い目をこすりながらこの退屈で辛い時間を辛抱していた。
僕は青山輝樹。職業は会社員、年齢は26歳。僕自身の人生を振り返るなら普通という言葉が一番適切だと自分では思っている。普通の一般家庭に生まれ、普通の大学に入り、普通の会社に就職し、大学時代から交際していた女性と結婚する。
大きな怪我や病気は生まれて一度も経験したことはなく、学生時代部活はバドミントンをやっていたが大きな成績を残したわけでもない。面白みのない人間と言われたら頷くしかないほど特徴のない人間だ。
昨日は残業で体力をすり減らし睡眠時間も取れず、満員電車に乗せられ更に体力をすり減らす。典型的な日本のサラリーマンの姿といって良いだろう。
目的地である真宿駅の手前の駅でふと混雑によって僕に近づいた茶髪に染めた短いショートヘアーの女子高生に気づいた。電車の混雑で他人と密着する事はこの日本では仕方のないことだ。日常的に起こりうることであり、気にも留めていなかった。
次の駅で降車するために、どの様にこの人並みから抜けるか考えていると、ふとカバンを持つ右手に女子高生の手が触れた。その瞬間、その手は僕の右手を上に上げ、僕は持っていたカバンを落としてしまった。
「この人痴漢です!!」
混雑しながらも静寂であった電車内に響いた声に僕も含めて電車内の時間が停止した様な感覚だった。
そして、その感覚から現実に戻ると声を上げたのは隣の女子高生。掴んでいるのは僕の手……。
「最低な野郎だな!」
「次の駅着いたらはやく駅員に連絡しないと!」
何が起こったのか分からなかったが、僕に対して発せられた罵声に気づき、ようやく事態を理解した。僕は痴漢の冤罪をかけられている。すぐに、誤解を解かなくてはならない。
「違う!これは誤解だ!」
「ひ、ひどい……ぐすっ、こんなことをしておいて……ひっく……私の勘違いにするんだ……」
大きな声で自分の無実を訴えると、隣の女子高生が泣き始めてしまった。事態は更に悪化し罵声は止むことなくむしろ更に酷くなる。
「おいおい!泣き出したぞ!とぼけるのもいい加減にしろ!!」
「おまえがやったに決まってんだろ!」
「おいおい……痴漢かよ関わりたくねーな……」
周りが全て敵に見えるこの状況、自分の人生になかったイレギュラーな状況に放心状態になり。気づけば次の駅で駆けつけた駅員に連行されていた。
『おまえがやったんだ』現場に居合わせた周りの連中にも挙句には警察でも言われ続けた言葉。しかし事実として僕はやっていない。しかし世間では僕が痴漢をしたことが真実になってしまう。
何度もやっていないことをやったように言われ続けたせいで、本当に痴漢になってしまったのかと疑ってしまうこともあった。それでも本当にやっていないのだから罪を否定し続ける。警察は僕の言い分を聞かず、糾弾の舞台は法廷へと移っていた。
ここに入ることは裁判員制度にでも選ばれることがなければないだろうと思っていたが、自分が裁かれる立場になるとは思いもしなかった。重い手錠を掛けられ、警官二人は終始喋ることはなく黙って僕を被告席に座らせた。
初めて受けた裁判は、想像していたものとまるでかけ離れていた。まず裁判長は木槌を叩いたりはしない。映画の見過ぎなのか、裁判長が無駄に木槌を振り回し『静粛に』『静粛に』と言っている先入観があった。
日本の裁判は傍聴席でざわめく人間がいないので静かである。木槌を叩く必要もないのか淡々と進行している。そんなことを気にする余裕なんてないはずなのに、状況を淡々と判断している僕はもうすでに長い尋問の中でおかしくなっているのかもしれない。
そして淡々としているのは裁判長や傍聴人だけではない。弁護人や検察官も『異議あり!』といった言葉を発しない。法廷に響き渡る声もなく机を叩く音すらせず、冒頭陳述と反証が進んでいく。
人生がかかっているというのに、僕の人生などどうでも良いと思っているようなこの場の冷酷さは僕の背筋に悪寒を走らせた。
この国は罪を犯した人間には厳しい。本当は無罪でもこの場でそう思っている人は一人もいない。犯罪を犯した人間の更生など望んでいる者は一人もいない。
一生を塀の中で過ごすか、塀の外に出たとしても社会復帰せずにそのままひっそりと暮らすか、どこかで野垂れ死んでしまえばいいと本気で思っているに違いない。特に痴漢は女性の尊厳を傷つける犯罪だ。女性のいる職場で前科がバレればその時点で退職を迫られるだろう。
「では判決を下しますね。有罪です。」
淡々と言い渡される判決は罪を認めない被告人にとどめをさし、この時点で僕の人生は終わりを告げた。今のこの時代犯罪者に仕事を任せる馬鹿な会社はない、今の会社からは解雇されるだろう。逮捕の時点で解雇されているかもしれない。
痴漢の初犯であるため被害者への賠償だけで、刑務所に入ることはなく執行猶予がついたが、塀の中にいた方が幸せだったかもしれない。妻の三代子すら僕を信じる事をせず離婚の手続きを進めているようだ。僕はこの日から覚えのない罪の重荷に押しつぶされ地獄へと堕ちた。
◇
「パパー!ママー!私あの公園で遊びたーい」
子供達がわいわい騒ぐ公園の隅のベンチで呆然とする生活がどのくらい続いたのだろうか。会社は首になり、妻とは離婚し、再就職もできるはずがなく所持金もわずかとなった。あの事件がなければ数年後妻と生まれた子供と一緒に遊びに行く未来があったのだろう。
そう思うとやり場のない憤りがこみ上げてくる。髭も伸びて相当な無精髭である。何も悪いことをしていないのに、誰かを傷つけてもいないのに、どうして僕がこんな目に合わなければならないのだろう。
今の自分を正面から見つめる余裕はない。俯いて下を見るとアリを運ぶアリの姿が見えた。アリは同じ巣のアリが負傷しているのを見かけると巣に運ぶが目的はエサにすることではないそうだ。弱っているなら巣で治療をして働けるようにして、使い物にならないようならそのまま巣の外に放りだす。
今の僕は弱ったアリそのものだ。社会に必要ないと判断され捨てられたんだ。そして近い将来死んでいく……。
「まだ頑張れるのに……冤罪さえ晴れればまた三代子のために頑張れるのに……どうして……どうして……」
下を向いているせいか涙で潤った目から雫がこぼれ落ちそうだ……。しかし、目の前に人がいることに気づいた。さっきの子供かもしれない。泣いているのを見られるのは恥ずかしいので、眠い目をこする振りをして前を向く。しかし、目の前にいたのは子供ではなく大人だった。
「随分ふさぎこんじゃってるねー、君が青山君でいいのかな?」
続く