ライカン・ムーアの人狼
ライカン・ムーアの人狼
第一部 ベーカー街
私がこれから語ろうとする事件は、シャーロック・ホームズが取り扱った数々の難事件の中でも、最も陰惨で、そして最も奇怪な印象を私の心に残したものである。
後年、新聞はこれを『ライカン・ムーアの人狼事件』と呼んだ。
もちろんホームズは最後まで人狼なる存在を認めなかったし、私自身もまた、その結論について異論を挟むつもりはない。
しかし今なお、嵐の夜に風の唸りを耳にすると、私はあの荒野を思い出さずにはいられない。
月光に照らされた黒い丘。
霧の海の中を歩く人影。
そして――遠くから聞こえた獣の遠吠えを。
北風がベーカー街の窓硝子を叩き、暖炉の火がぱちぱちと音を立てていた。
ホームズは長椅子に身を沈め、膝の上にヴァイオリンを置いて新聞を広げ何事か考え込んでいる。私は暖炉の傍らで医学雑誌を読んでいた。
外は早くも薄暗くなり始めていた。
ふと、ホームズが新聞から目を上げた。
「ワトソン。」
「何だね?」
「人は何故、怪物を信じると思う?」
私は雑誌から顔を上げた。
「また妙なことを聞くな。」
「妙ではないさ。」
ホームズは新聞を畳んだ。
「文明は進歩したというのに、未だに人々は幽霊や悪魔を信じている。」
「それは説明できない現象があるからだろう。」
「あるいは説明したくない現象、かな。」
そう言って彼は微かに笑った。
「怪物というものは案外便利なのだよ。難しい問題を一つの言葉で片付けてくれる。」
私は肩をすくめた。
「君はもちろん信じていないのだろう?」
「怪物をかね?」
ホームズはパイプへ火を点けた。
「私はただ、人間より興味深い怪物に会ったことがないだけさ。」
私は何か言い返そうとしたが、その時、階下で扉の開く音が聞こえた。
続いてハドソン夫人が来訪者を告げる。
しばらくして部屋へ通されたのは、三十歳前後の痩せた紳士であった。
背は高いが顔色は優れず、その目には疲労の色が濃く浮かんでいる。
どこか長く眠れぬ夜を過ごした人間の顔であった。
「どうぞお掛けください。」
ホームズが言った。
男は礼を述べて椅子へ腰を下ろした。
だがその指先は目に見えて震えている。
「私はエドワード・ヴォルフラムと申します。」
その姓を聞いても私は何も思い出さなかったが、ホームズはわずかに眉を動かした。
「ヨークシャー北部のヴォルフラム館ですね。」
「ご存じでしたか。」
「名前だけは。」
男は苦笑した。
「それほど有名な家ではありません。」
「名家というのは、案外そういうものですよ。」
ホームズは静かに頷いた。
「さて、どのようなご相談でしょう。」
エドワードはしばらく躊躇した。
何から話すべきか迷っているようであった。
やがて彼は低い声で言った。
「兄が殺されました。」
部屋の空気が少し変わった。
ホームズは何も言わず耳を傾ける。
「兄アレクサンダーは当家の跡継ぎでした。来春には結婚も決まっておりました。」
彼はそこで言葉を切った。
「相手は?」
ホームズが尋ねた。
「ブラックウッド家の令嬢です。」
「なるほど。」
ホームズが短く呟いたが、その時の私は特に意味を見出さなかった。
エドワードはしばらく視線を落としていたが、やがて躊躇うように口を開いた。
「正直に申し上げますと、私はこの三週間、自分に言い聞かせてきたのです。」
「何をです?」
ホームズが静かに尋ねた。
「事件は終わったのだ、と。」
エドワードは力なく笑った。
「警察の捜査も終わりました。兄の葬儀も済みました。村人たちも少しずつ普段の生活へ戻り始めています。」
彼は拳を握りしめた。
「だから私も忘れようとしました。」
「ですが――」
そこで彼の声が少し震えた。
「次の満月が近づくにつれて、不安が募るのです。」
「村では再び噂が広がっています。」
「人狼はまだ荒野を歩いている。」
「アレクサンダーは最初の犠牲者に過ぎない、と。」
「私は迷信を信じているわけではありません。」
「ですが、もし兄を殺した者がまだ自由の身なら――」
「次の満月に、また誰かが殺されるかもしれない。」
彼はホームズを真っ直ぐ見つめた。
「それが恐ろしいのです。」
「だから私はロンドンへ参りました。」
「どうか、この事件の真相を明らかにしてください。」
エドワードはホームズを見つめた。
その目には、兄を失った悲しみよりも、これから起こるかもしれない何かへの恐怖が宿っていた。
「兄は三週間前、満月の夜に館を出ました。」
「一人で?」
「ええ。」
「何故。」
「私は婚約者に会うためだったと思っています。しかし…。」
エドワードは苦しげに首を振った。
「翌朝、兄はライカン・ムーアで発見されました。」
私は思わず身を乗り出した。
「死んでいたのか。」
「はい。」
男は唇を噛んだ。
「胸から腹部にかけて深い裂傷がありました。」
「まるで獣に引き裂かれたようでした。」
私は医師として多くの死体を見てきた。
しかし依頼人の表情を見る限り、その光景は尋常なものではなかったらしい。
「警察は野犬のしわざだろうと」
ホームズが静かに尋ねた。
「だが君は違うと思っている。」
エドワードはゆっくり顔を上げた。
その目には恐怖があった。
「村の者が言うには現場には足跡が残っていたそうです。」
「足跡?」
「狼のものです。」
「英国に狼はいない。」
私が言うと、彼は力なく笑った。
「ええ。私もそう思います。」
そこで再び言葉を濁した。
まるで次の言葉を口にするのを恐れているようだった。
ホームズが促す。
「続けたまえ。」
エドワードはしばらく黙していた。
ランプの炎が揺れ、その影が彼の青白い顔を不規則に照らしていた。
「百年ほど前のことです。」
彼は静かな声で語り始めた。
「この地へ移り住んだ我々の祖先、コンラート・ヴォルフラム伯は、故郷から一つの恐ろしい伝説を持ち込みました。」
「人狼です。」
ホームズは何も言わない。
私も思わず耳を傾けた。
「ですが、この地方で語られる人狼は、童話に出てくるような獣ではありません。」
「ほう?」
「人狼は人間の姿をしています。」
エドワードはそう言うと、ゆっくり我々を見回した。
「友人かもしれない。」
「隣人かもしれない。」
「あるいは毎日顔を合わせる家族かもしれない。」
「誰にも見分けることはできません。」
暖炉の薪が音を立てて崩れた。
「そして満月の夜になると、人狼は荒野へ出ます。」
「獲物を求めて。」
「家畜を裂き、人を喰らい、再び何事もなかったように村へ戻るのです。」
私は苦笑した。
「なかなか陰惨な伝説だな。」
「ええ。」
エドワードは頷いた。
「ですが恐ろしいのはそこではありません。」
「何だね?」
「人狼は獣になるのではないのです。」
「もともと獣なのです。」
「満月の夜だけ、その本性が現れる。」
その言葉には妙な重みがあった。
私は理由なく背筋に冷たいものを感じた。
「当時、この地方では不可解な失踪が相次いだそうです。」
「若い娘が消える。」
「羊飼いが戻らない。」
「旅人の遺体が荒野で見つかる。」
「その胸は鋭い爪で引き裂かれていたと伝えられています。」
エドワードは膝の上で固く握った両手を見つめた。
「やがて村人たちは気付きました。」
「狼は荒野にいるのではない。」
「村の中にいるのだと。」
私は無意識に椅子へ深く座り直した。
「そして裁判が行われました。」
「人狼裁判です。」
ホームズの目がわずかに細くなる。
「ある猟師が告発されました。」
「名をジョナス・クロウ。」
「夜に荒野を歩いていた。」
「狼の毛皮を持っていた。」
「森で血の付いた刃物を所持していた。」
「それだけで十分だったのです。」
「証拠らしい証拠はなかった。」
「しかし村人は恐怖していました。」
「恐怖に理屈は不要です。」
エドワードの声は次第に暗く沈んでいった。
「ジョナスは教会の前へ引き出されました。」
「群衆は石を投げたそうです。」
「子供まで。」
「誰もが人狼を憎んでいました。」
「そして?」
ホームズが静かに促した。
エドワードは一度唇を湿らせた。
「処刑の直前、ジョナスはこう叫んだと言われています。」
彼は顔を上げた。
その目には説明のつかぬ恐怖が宿っていた。
『私が狼ではない。』
『狼はお前たちの中にいる。』
『そいつは今も人の顔をして歩いている。』
『そして再び血を求めるだろう。』
しばし誰も口を開かなかった。
やがてエドワードはかすれた声で続けた。
「以来、ライカン・ムーアでは満月の夜に狼の遠吠えが聞こえると言われています。」
「そして人狼裁判の日が近づくと、必ず誰かが荒野で人ならぬ影を見たと語るのです。」
「もちろん私は信じていませんでした。」
彼はそう言った。
「兄が死ぬまでは。」
エドワードは頷いた。
「兄君はどんな亡くなられ方をしたのです?」
ホームズが尋ねた。
彼は重々しく口を開いた。
「兄の死を目撃した者がおります。」
私は思わず身を乗り出した。
「目撃者がいたのか。」
「ええ。」
「ブラックウッド家の令嬢クララと、同家に仕える執事アルフレッド・グレイヴズです。」
ホームズの目がわずかに細くなる。
「警察へは証言したのですか。」
「それが妙なのです。」
エドワードは答えた。
「当初、二人とも大したことは見ていないと主張しておりました。」
「ですが警察が捜査を終えた後になって、グレイヴズが口を開いたのです。」
ホームズの目がわずかに鋭くなった。
「続けたまえ。」
エドワードは静かに語り始めた。
「その夜は満月でした。」
「雲一つない夜で、ライカン・ムーアは月光に照らされていたそうです。」
「兄は館を出て荒野を横断していました。」
「目的地はブラックウッド家だったと思われます。」
ホームズが頷く。
「婚約者に会うためですな。」
「おそらくは。」
エドワードは苦しげな顔をした。
「二人の結婚は来春に決まっておりましたから。」
風が窓を軽くたたく
「クララ嬢は眠れず、自室の窓から荒野を眺めていたそうです。」
「すると月明かりの中を歩く兄の姿を見つけました。」
私はその情景を思い浮かべた。
広大な荒野。
満月。
その中を一人歩く男。
「兄は草原の中央付近まで来た時、突然立ち止まったそうです。」
「立ち止まった?」
ホームズが尋ねた。
「ええ。」
「丘の陰から別の人影が現れたのです。」
私は眉をひそめた。
「誰だったか分からないのか。」
「分かりません。」
「距離がありましたから。」
「ですが二人は何か話をしているように見えたそうです。」
ホームズは何も言わなかった。
ただパイプを指先で回している。
「やがて二人の様子がおかしくなった。」
エドワードの声が低くなる。
「兄が後ずさりした。」
「そして――争いになったように見えたそうです。」
部屋の空気が重くなった。
「その直後でした。」
「荒野中に響くような遠吠えが聞こえたそうです。」
私は思わず顔を上げた。
「遠吠え?」
「ええ。」
「犬とも狼ともつかぬ声だったと。」
「クララ嬢は恐怖のあまり窓辺で動けなくなったそうです。」
「次の瞬間、銃声が鳴った。」
「一発。」
「そしてもう一発。」
エドワードは唇を噛んだ。
「兄は護身用のリボルバーを携帯しておりました。」
「しかし、それが最後でした。」
ホームズの視線が依頼人に注がれる。
「何が起こったのです。」
エドワードは答えた。
「クララ嬢の証言によれば。」
「兄の前にいた人影が飛びかかったように見えたそうです。」
私は息を呑んだ。
「そして兄は倒れた。」
「ええ。」
「まるで刈られた麦のように。」
窓の外で風が唸った。
「そこでクララ嬢は悲鳴を上げました。」
「その声を聞き付けたのが執事のグレイヴズです。」
「彼もまた窓から荒野を見た。」
「その時には既に兄は地面に倒れていたそうです。」
「そして?」
ホームズが静かに促した。
「グレイヴズは申しております。」
「兄の傍らに黒い影が立っていたと。」
「人でしたか?」
私が尋ねた。
「それが分からないのです。」
エドワードは首を振った。
「人のようにも見えた。」
「獣のようにも見えた。」
「月明かりのせいで輪郭が歪んで見えたと。」
「やがてその影は丘の向こうへ消えたそうです。」
「そして再び遠吠えが聞こえた。」
彼は震える声で続けた。
「翌朝、兄は発見されました。」
「胸から腹部にかけて深く裂かれておりました。」
「衣服も肉も鋭い爪で引き裂かれたようになっていた。」
「周囲には狼の足跡が残っていたそうです。」
エドワードは俯いた。
「それを見た村人たちは皆、同じことを口にしました。」
「何と?」
ホームズが尋ねる。
依頼人はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には消えることのない恐怖が宿っていた。
「人狼が帰ってきた、と。」
その言葉が消えると、部屋は静まり返った。
ホームズはエドワードをじっと見ている。
私は気付かぬうちに椅子の肘掛けを握りしめていた。
語られた話は荒唐無稽だった。
狼。
呪い。
百年前の人狼裁判。
そして満月の夜の殺人。
理性では信じられない。
だがそれでも、どこか人を不安にさせる何かがあった。
ホームズだけは相変わらず平然としている。
彼はパイプの灰を静かに落とした。
「なるほど。」
「それだけですか?」
エドワードは思わず身を乗り出した。
「それだけ、とは?」
「兄は殺されたのです。」
「村中が恐怖しております。」
「人狼の噂は日に日に広がっている。」
「それなのに――」
ホームズの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「だからこそ興味深いのですよ。」
依頼人は戸惑ったように彼を見つめた。
「興味深い?」
エドワードは膝の上で固く握った両手を見つめた。
「ええ。」
ホームズは長椅子から身を起こした。
「狼は喋りません。」
「狼は人狼裁判を起こしません。」
「狼は百年間も伝説を残したりしない。」
彼は指先を組んだ。
「しかし人間ならば、その全てが可能です。」
再び部屋に沈黙が落ちる。
エドワードは息を呑んでいた。
「君のお話を疑うつもりはありません。」
ホームズは続けた。
「私は人狼には興味がない。」
「ですが――」
その灰色の瞳が鋭く光った。
「人狼を作り上げた人間には大いに興味があります。」
エドワードの顔に初めて希望の色が浮かんだ。
「では引き受けていただけるのですか。」
ホームズは立ち上がった。
窓辺へ歩み寄り、薄暮に沈むロンドンの街並みを見やった。
やがて振り返る。
「ワトソン。」
「何だね。」
「君の旅行鞄は準備できているか。」
私は笑った。
「その質問が出た時は、もう行き先が決まっている。」
「その通りだ。」
ホームズの目には、久しく見ていなかった鋭い光が宿っていた。
「明朝の列車でヨークシャーへ向かう。」
「ライカン・ムーアですか。」
「うむ。」
私は椅子から立ち上がった。
「了解した。」
するとホームズは何気ない口調で言った。
「それから、ワトソン。」
「今回は拳銃も忘れずに持ってきたまえ。」
私は冗談かと思った。
「人狼退治のためか?」
ホームズは鼻で笑った。
「そんなもののためではない。」
そして少し表情を曇らせる。
「だが、この事件は危険だ。」
「ライカン・ムーアには何がいるか知らない。」
「狼かもしれないし、人間かもしれない。」
「もっと厄介な何かかもしれない。」
彼は暖炉の火を見つめながら呟いた。
「私は怪物など信じない。」
「だが、人間が怪物になる瞬間なら何度も見てきた。」
やがて私は頷いた。
「分かった。」
「軍用リボルバーを持って行こう。」
「結構。」
ホームズはパイプをくわえた。
「願わくば使う機会がないことを祈ろう。」
その時、窓の外で北風が唸った。
私は後になって幾度となく思い返すことになる。
あの風の音が、まるで遠い荒野から届いた狼の遠吠えのように聞こえたことを。
そして我々が向かおうとしていたのが、単なる殺人事件の現場ではなく、百年にわたる憎しみと伝説が眠るライカン・ムーアそのものであったことを。
第二部 ライカン・ムーア
翌朝、我々はチャリング・クロス駅を発った。
ロンドンを離れた列車は北へ向かい、工場と煉瓦造りの街並みを次第に後方へ置き去りにしていった。
車窓を流れる風景は次第に寂しくなり、緑の牧草地は荒々しい丘陵へと変わる。
何度か列車を乗り継いだのち、夕刻近くになってヨークシャー北部の小さな駅へ到着した。
そこからは馬車である。
灰色の空の下、荒れた街道を進むにつれ、人家は次第に減っていった。
やがて御者が鞭を掲げた。
「見えましたよ、旦那方。」
私は窓から身を乗り出した。
その時初めてライカン・ムーアを目にしたのである。
私はこれまで多くの土地を見てきた。
アフガニスタンの山岳地帯も知っている。
サリー州の美しい丘陵も知っている。
だが、ライカン・ムーアほど不気味な印象を受けた土地はなかった。
そこには広大な荒野が横たわっていた。
草は風に押し伏せられ、黒ずんだ丘が幾重にも重なっている。
木々はほとんどなく、見渡す限り灰色と黒の世界であった。
日はまだ沈んでいない。
それにもかかわらず、あたりは既に夕闇の中へ溶け込み始めていた。
遠くでは霧が地面を這っている。
まるで何か白い生き物が荒野をゆっくりと渡っているかのようだった。
私は理由もなく身震いした。
「陰気な土地だな。」
思わず呟くと、向かいに座るホームズが微かに笑った。
「第一印象は案外重要だよ、ワトソン。」
「君は何を感じた?」
私はしばらく考えた。
荒野を吹き抜ける風が馬車の窓を震わせている。
その音はどこか獣の唸り声にも似ていた。
「そうだな。」
私はゆっくり答えた。
「もし本当に人狼というものが存在するのなら、こんな土地に違いないと思った。」
ホームズは窓の外へ視線を向けた。
「興味深い。」
そう言ったきり、彼は再び黙り込んだ。
馬車は荒れた街道を進み、やがて緩やかな丘を回り込んだ。
「見えてきましたよ。」
御者がもう一度鞭を掲げる。
私は窓から顔を出した。
次の瞬間、霧の向こうに巨大な館の姿が現れた。
それがヴォルフラム館であった。
館は荒野を見下ろす高台の上に建っていた。
黒ずんだ石で築かれた古い建物で、幾つもの尖塔が曇天を突き刺している。
その姿はまるで荒野そのものから生え出た岩塊のようであった。
窓は細く長く、夕暮れの光を受けて鈍く輝いている。
私は理由もなく『城塞』という言葉を思い浮かべた。
人々を守るための城ではない。
何かを閉じ込めておくための城である。
館の背後には灰色のライカン・ムーアがどこまでも広がっていた。
遠くの丘には霧がまとわりつき、その輪郭を曖昧にしている。
風が荒野を吹き抜けるたびに、見えない何者かが草の海を渡っていくように感じられた。
「なるほど。」
私は思わず呟いた。
「いかにも人狼伝説の生まれそうな土地だ。」
向かいに座るホームズが微かに笑った。
「建築と風景は人間の想像力を強く刺激するものだよ、ワトソン。」
「この館を見れば、子供でなくとも怪物を信じたくなる。」
馬車は石造りの門を抜け、砂利道を進んだ。
やがて正面玄関の前で止まる。
その頃には、あたりは早くも薄暗くなり始めていた。
玄関の扉が開いた。
中から現れた長身の青年を見て、私は思わず安堵した。
エドワード・ヴォルフラムであった。
彼は我々より一足早く帰宅していたのである。
「ホームズ氏、ワトソン博士。」
彼は階段を降りながら言った。
「遠路はるばるようこそおいでくださいました。」
しかし、その声には疲労の色があった。
ベーカー街で会った時よりもさらに顔色が悪い。
この三週間、ほとんど眠れていないのだろう。
エドワードは我々と握手を交わした。
「館の者も皆、お二人の到着を待っておりました。」
そして一瞬だけ視線を荒野へ向けた。
暮れかけたライカン・ムーアが、館の背後に不気味な影となって横たわっている。
「どうか兄のためにも、人狼の正体を暴いてください。」
ホームズはその言葉を聞くと静かに首を振った。
「人狼かどうかは分かりません。」
そう言って灰色の瞳を館へ向けた。
「ですが殺人者ならば見つけ出しましょう。」
馬車が去ると、エドワードは我々を館の中へ案内した。
ホールへ入った私は思わず足を止めた。
暖炉の上には大きな狼の頭骨が飾られ、壁には狼狩りの様子を描いた古い絵画がいくつも掛けられていたのである。
この地方では狼は既に絶滅したと聞いていたが、館の主たちはよほどこの獣に執着していたらしい。
「先祖たちの収集品です。」
エドワードはそう説明した。
「お部屋はご用意しております。」
エドワードは階段の方へ視線を向けた。
「兄の死以来、館は沈んだ雰囲気ではありますが、お二人をお迎えする準備は整えております。」
「どうか我が家を御自由にお使いください。」
私は当然その申し出を受けるものと思った。
長旅の後である。
温かい食事と寝室は魅力的であった。
ところがホームズは微笑を浮かべたまま首を振った。
「ご厚意には感謝いたします。」
「ですが、我々は村の宿屋に滞在しようと考えております。」
エドワードは驚いたように目を見開いた。
「宿屋に?」
「ええ。」
「ブラック・ウルフ亭でしたか。」
「もっとも便利でしょう。」
「ですが何故です?」
「館の方が快適ですし、調査にも協力できます。」
ホームズは帽子を手に取った。
「それは承知しております。」
「しかし、我々は快適さを求めてここへ来たのではありません。」
エドワードは困惑した様子だった。
「何か不都合でもございますか。」
「いえ。」
ホームズは穏やかに言った。
「ただ、人は自分の家では慎重になるものです。」
「使用人も主人もそうです。」
「ですが宿屋では違う。」
彼は窓の外に広がる荒野へ目を向けた。
「旅人は酒を飲みます。」
「村人は噂を語ります。」
「そして本音は暖炉のそばでこぼれるものです。」
エドワードはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「なるほど。」
「さすがはホームズ氏だ。」
「必要な時はいつでも館へお越しください。」
「ありがとうございます。」
ホームズは軽く会釈した。
エドワードが執事へ指示を与えるため去った後、私は小声で尋ねた。
「本当にそれだけの理由かね?」
ホームズは口元を緩めた。
「半分はね。」
「残り半分は?」
彼は低い声で答えた。
「我々がこの館に泊まれば、皆はこちらを警戒する。」
「だが宿屋なら違う。」
「狼は巣穴の近くでは姿を隠すものだよ、ワトソン。」
「少し離れた場所から観察した方が都合が良い。」
私は思わず館の奥を振り返った。
石造りの廊下は薄暗く、どこか閉ざされた墓所のような雰囲気を漂わせている。
その時、荒野から吹きつけた風が窓を震わせた。
ホームズは帽子を被ると静かに言った。
「さあ、ブラック・ウルフ亭へ向かおう。」
「人狼がいるにせよ、いないにせよ。」
「まずは村人たちの話を聞くべきだ。」
そうして我々はヴォルフラム館を後にし、ライカン・ムーアで唯一の宿屋、《ブラック・ウルフ亭》へ向かったのである。
馬車は村の中央へ差しかかった。
村といっても、ロンドンの人間が想像するような賑やかなものではない。
灰色の石造りの家々が風に身を寄せ合うように並び、その向こうには荒野が広がっている。
道行く人々の表情もどこか暗かった。
それは冬の寒さのせいだけではないように思われた。
やがて馬車は一軒の建物の前で止まった。
木製の看板が風に揺れている。
そこには黒い狼の絵と共に、
《ブラック・ウルフ亭》
の文字が描かれていた。
「ここが村唯一の宿屋です。」
エドワードが言った。
「何かあれば館へ使いを出してください。」
ホームズは礼を述べると、我々は荷物を抱えて馬車を降りた。
その時である。
宿屋の扉が勢いよく開いた。
「あんた方がロンドンから来た探偵さんかい?」
現れたのは五十代半ばほどの女性だった。
丸顔で恰幅がよく、赤い頬をしている。
エプロン姿のまま腕を腰に当てていた。
「私はマーサ・ヘンダーソン。」
「この宿の女主人だよ。」
彼女はそう言うと、こちらが返事をする前から続けた。
「人狼退治に来たんだろう?」
私は思わず咳払いした。
ホームズは楽しげに眉を上げる。
「どうしてそう思われるのです?」
「村中がその話ばかりだからさ。」
マーサは声をひそめた。
「アレクサンダー様が殺されてからというもの、皆びくびくしてる。」
「日が暮れたら誰も外を歩きやしない。」
「羊飼いまで夕方には家へ逃げ帰るんだから。」
ホームズは軽く微笑んだ。
「あなたは人狼を信じておられる?」
マーサは即座に答えなかった。
その代わり、宿の向こうに広がる荒野へ目を向けた。
風が吹き抜ける。
草原が波のように揺れた。
「昔はね。」
「馬鹿話だと思っていたよ。」
彼女はぽつりと呟いた。
「ところが人というのは、死体を見ると考えが変わるもんさ。」
私はエドワードの話を思い出した。
胸を引き裂かれたアレクサンダーの死体。
狼の足跡。
満月の夜。
マーサは身震いした。
「私は見てないよ。」
「だが見た連中がいる。」
「顔色をなくして帰ってきた。」
「誰も同じことを言うんだ。」
「何と?」
ホームズが尋ねた。
マーサは声を落とした。
「人間じゃなかった、ってね。」
その言葉に私は思わず荒野へ目を向けた。
夕暮れのライカン・ムーアは不気味なほど静かだった。
まるで何かが息を潜めているかのように。
だがホームズだけは平然としていた。
「面白い。」
「何がです?」
マーサが首を傾げる。
ホームズは宿の看板を見上げた。
「本当に人狼がいるなら、こんな宿屋は真っ先に襲われそうなものです。」
その瞬間、マーサの顔色が変わった。
「冗談でもそんなこと言わないでおくれ!」
彼女は本気で怯えているようだった。
「狼は聞いているかもしれないんだから。」
ホームズは私の方を見て小さく笑った。
私は気付いた。
ライカン・ムーアでは、人狼は単なる伝説ではない。
人々の日常に入り込んだ「恐怖」そのものなのであった。
「この辺りじゃ、最近は皆日が暮れる前に戸を閉めるんですよ。」
マーサ・ヘンダーソンは夕暮れの窓をちらりと見た。
「アレクサンダー様が亡くなってからは特にね。」
「それほど恐れているのかね。」
私は尋ねた。
「恐れますとも。」
彼女は腕をさすった。
「満月の夜には外へ出ちゃいけません。」
「何故です?」
「何故って……。」
マーサは少し声を落とした。
「人狼ですよ。」
私は苦笑した。
「本気で信じているのかね?」
「以前なら笑い飛ばしていましたよ。」
彼女は首を振った。
「でも人が死んだんです。」
「しかも昔の伝説そのままに。」
その時、ホームズは何も言わなかった。
ただ椅子に腰掛け、パイプを燻らせながら女主人の話に耳を傾けている。
「もっとも。」
マーサは少し身を乗り出した。
「人狼なんていないと言い張る変わり者もおりますがね。」
「誰です?」
私は尋ねた。
「イーサン・クロウですよ。」
彼女は顔をしかめた。
「荒野の猟師です。」
「夜中だろうが満月だろうが平気でライカン・ムーアを歩き回る。」
「人狼なんていない、人間の仕業だと言ってね。」
ホームズは何も言わずにパイプを燻らせていた。
煙の向こうで灰色の目だけが女主人へ向けられている。
「私は好きになれませんよ。」
マーサは続けた。
「顔には大きな傷があるし、いつも銃を持ち歩いている。」
「人付き合いもろくにしない。」
「おまけに荒野で一人暮らしでしょう。」
彼女は肩をすくめた。
「村じゃ皆、あの男を気味悪がっております。」
「クロウという名前でしたな。」
私は言った。
「伝説に出てきたジョナス・クロウと同じ姓ですが。」
マーサは顔を上げた。
「ええ、その通りです。」
「ジョナス・クロウの血筋だと言われています。」
「本当かどうかは知りませんけどね。」
「村の連中は信じていますよ。」
そう言うと彼女は声を落とした。
「だから余計に気味が悪いんです。」
「人狼裁判で処刑された男の子孫が、今も荒野をうろついているんですから。」
私はホームズの方を見た。
しかし彼は依然として口を開かなかった。
ただ静かに煙を吐き出している。
「まあ。」
マーサは慌てて付け加えた。
「私は人狼だなんて言ってるんじゃありませんよ。」
「ですがね。」
彼女は窓の外の荒野を見た。
「満月の夜になると、あの男を見た者がいるんです。」
「一人で荒野を歩いていたって。」
夕食の時刻になると、私は階下の食堂へ降りた。
《ブラック・ウルフ亭》は外観こそ古びていたが、内部は思いのほか賑わっていた。
暖炉では大きな火が燃え、旅人や農夫たちがテーブルを囲んでいる。
だが、その表情はどこか重苦しい。
酒場特有の陽気さが感じられなかった。
私はホームズと共に隅の席へ腰を下ろした。
マーサが羊肉のシチューと黒パンを運んでくる。
「冷える夜ですからね。」
そう言いながらも、彼女の耳は他の客の会話へ向いていた。
いや、むしろこの場にいる全員の耳が同じ話題へ向いていると言うべきだろう。
話題はただ一つ。
人狼であった。
「俺は見たんだ。」
赤ら顔の農夫がジョッキを振り回した。
「丘の上に立っていた。」
「月明かりの中でな。」
向かいの男が鼻を鳴らす。
「また酔っ払ってる。」
「本当だ。」
農夫は頑として譲らない。
「人間じゃなかった。」
「肩まで毛むくじゃらだった。」
食堂の別の場所で誰かが言った。
「今夜も遠吠えが聞こえるぞ。」
「羊を囲いへ入れておけ。」
「去年まではこんなことはなかった。」
「アレクサンダー様が殺されてからだ。」
私はシチューを口に運びながら耳を傾けていた。
興味深いことに、誰一人として人狼の存在を断言しているわけではない。
しかし皆が恐れている。
恐怖だけは確かに存在していた。
そしてその恐怖が酒と共に村中へ広がっているのである。
「クロウがやったんだ。」
ふいに誰かが言った。
私は顔を上げた。
「イーサン・クロウさ。」
「夜中に荒野を歩き回っている。」
「普通の人間のやることじゃない。」
すると別の男が首を振った。
「いや。」
「あいつは昔からあんな男だ。」
「狼より無愛想だが、人を襲うような奴じゃない。」
「だがジョナス・クロウの血筋だぞ。」
「そうだ。」
「人狼裁判の――」
そこから先は囁き声になった。
私は向かいを見る。
ホームズは黙って食事を続けていた。
だが私は知っている。
彼は聞いていないようでいて、一言たりとも聞き漏らしてはいない。
暖炉の炎が揺れ、酒場の天井に影を踊らせていた。
その光景はどこか中世の怪談話を思わせる。
もし私がロンドンから来た人間でなければ、きっと彼らと同じように人狼を信じ始めていたかもしれない。
夕食を終えた後、我々は部屋へ戻った。
私は正直なところ、宿屋というものにあまり期待していなかった。
ライカン・ムーアのような寒村にある宿である。
せいぜい粗末な寝台と薄い毛布が待っているのだろうと思っていた。
ところが、その予想は良い意味で裏切られた。
部屋は広くはないが清潔だった。
寝台はしっかりしており、厚手の毛布も用意されている。
暖炉まで備え付けられていた。
窓からは荒野の一部が見渡せる。
私は鞄を下ろしながら思わず言った。
「これは驚いたな。」
ホームズが椅子へ腰掛ける。
「何がだね。」
「思ったよりずっと良い部屋だ。」
「この辺境の宿屋とは思えん。」
ホームズは微かに笑った。
「マーサ夫人は商売上手らしい。」
私は寝台へ腰掛けた。
長旅の疲れもあって心地よい。
確かに荒野は不気味だった。
村人たちは人狼の噂に怯えていた。
しかし少なくとも今夜は、暖かな部屋で眠れそうである。
翌朝、私は教会の鐘の音で目を覚ました。
昨夜降っていた風は幾分弱まっていたものの、窓の外には相変わらず灰色の空が広がっている。
朝食を終えると、我々は早速ヴォルフラム館へ向かうことにした。
宿を出る際、マーサ夫人は玄関先まで見送りに現れた。
「暗くなる前には戻って来てくださいよ。」
彼女は真顔でそう言った。
「人狼のためかね?」
私が笑いながら尋ねると、彼女は笑わなかった。
「先生。」
「ライカン・ムーアでは、笑い話が本当になることもあるんです。」
そう言って十字を切る。
ホームズは何も言わず帽子を被り、荒野の彼方を眺めていた。
やがて我々はヴォルフラム館へ向かった。
荒野を吹き抜ける風は冷たく、遠くでは霧が丘の斜面を這っている。
一時間もしないうちに館へ到着すると、エドワードが玄関で出迎えてくれた。
「お待ちしておりました。」
その顔には昨夜と同じ疲労の色があった。
寝不足なのだろう。
兄を失ってまだ三週間しか経っていないのである。
応接間へ通されると、エドワードは真っ先に尋ねた。
「何かお分かりになりましたか。」
ホームズは首を振った。
「まだ何も。」
そう言って椅子へ腰を下ろす。
「ですが、本日から本格的に調査を開始します。」
エドワードは僅かに安堵したようだった。
「それは心強い。」
「まず何をなさるおつもりです?」
ホームズは答えた。
「ブラックウッド家を訪ねます。」
エドワードの表情が僅かに変わった。
「クララ嬢とグレイヴズ氏ですな。」
「ええ。」
ホームズは頷いた。
「現時点で事件当夜の様子を知る者は、その二人だけです。」
「直接話を聞く必要があります。」
エドワードはしばらく考え込み、やがて立ち上がった。
「それなら私から連絡を入れましょう。」
「突然訪ねるより良い。」
「レジナルド殿は気難しい方ですので。」
私はその反応に興味を覚えた。
「やはり仲は悪いのですか。」
エドワードは苦笑した。
「百年続く因縁がありますから。」
「表面上は礼儀を保っています。」
「しかし互いに心を許しているとは言えません。」
彼は窓の外を見た。
遠方の丘の向こうにブラックウッド家の森が見えている。
「兄とクララだけが例外でした。」
その言葉には深い寂しさが滲んでいた。
ホームズは黙ってそれを聞いている。
エドワードは呼び鈴を鳴らした。
やがて使用人が現れる。
「ブラックウッド荘へ使いを出してくれ。」
「ロンドンから来たシャーロック・ホームズ氏が、本日訪問なさると伝えてほしい。」
使用人が去ると、部屋には短い沈黙が落ちた。
ホームズはゆっくり立ち上がった。
「結構。」
「それでは我々も参りましょう。」
「事件の第一歩は、いつも証言から始まります。」
私は帽子を手に取った。
ブラックウッド荘はヴォルフラム館から馬車で三十分ほどの場所にあった。
館というよりは古い荘園屋敷である。
黒ずんだ石造りの建物は森の縁に建ち、その背後には鬱蒼とした樫林が続いていた。
ヴォルフラム館が荒野を睥睨する城塞だとすれば、こちらは森へ身を隠した隠者の館であった。
門前には既に使用人が待っていた。
エドワードからの連絡が届いていたのであろう。
我々は応接間へ通された。
古い部屋だった。
壁には先祖の肖像画が並び、暖炉の上には狩猟用の銃や鹿の角が飾られている。
どことなく武骨な印象があった。
やがて扉が開き、一人の老人が現れた。
杖をついた長身の男である。
髪はほとんど白く、頬は痩せこけていた。
だが目だけは鋭かった。
「レジナルド・ブラックウッドです。」
彼はそう名乗った。
「ホームズ氏、遠路はるばるご苦労でした。」
礼儀正しい口調であった。
しかし私はそこに微かな冷たさを感じた。
「お会いできて光栄です。」
ホームズが答える。
「お噂は伺っております。」
レジナルドは鼻を鳴らした。
「良い噂なら結構ですがね。」
「私が聞くところでは、あまり愉快なものではない。」
そう言って窓の外へ目を向ける。
荒野の彼方にヴォルフラム館が見えていた。
「ヴォルフラム家とは長い付き合いです。」
「良くも悪くも。」
私はその言葉に何やら含みを感じた。
その時、再び扉が開いた。
若い女性が入ってくる。
黒い喪服を身にまとい、顔色は青白かった。
しかしその美しさは隠しようがない。
「娘のクララです。」
レジナルドが紹介した。
クララは静かに会釈した。
その表情には深い悲しみが刻まれている。
アレクサンダーを失った傷はいまだ癒えていないのだろう。
私は思わず気の毒になった。
「このたびはご愁傷様です。」
私が言うと、
彼女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その声はかすれていた。
さらにもう一人の男が入室した。
三十代前半。
背が高く、整った顔立ちをしている。
いかにも頼もしい青年という印象だった。
「息子のアーサーです。」
レジナルドが言った。
アーサーは穏やかに微笑んだ。
「お会いできて光栄です、ホームズ氏。」
握手を交わしたその手は固く、狩猟で鍛えられていることが分かった。
「父からお名前は聞いております。」
口調にも態度にも嫌味がない。
私は内心意外に思った。
ヴォルフラム家を恨んでいる一族と聞いていたからである。
だが目の前の男には敵意らしきものは感じられなかった。
むしろ妹を気遣う優しい兄に見えた。
最後に現れたのは初老の男だった。
痩せた顔。
銀色の髪。
黒い礼服。
その目だけが妙に鋭い。
「アルフレッド・グレイヴズでございます。」
老執事は静かに一礼した。
「当家の執事を務めております。」
声は穏やかだったが、不思議な印象を受けた。
まるで何かを見通しているような眼だった。
ホームズは一同を見回した。
「さて。」
彼は静かに言った。
「本日は事件当夜のお話を伺いたく参りました。」
その瞬間。
クララの顔から血の気が引いた。
アーサーは妹を心配そうに見た。
グレイヴズだけが、じっと暖炉の炎を見つめていた。
まるであの満月の夜の光景を思い出しているかのように。
レジナルドは娘へ視線を向けた。
「クララ。」
「辛いだろうが、ホームズ氏のためだ。」
クララは小さく頷いた。
しかしその顔色はひどく悪い。
彼女は両手を膝の上で固く握り締めていた。
ホームズはその様子を見ると、普段より幾分穏やかな声で言った。
「無理をする必要はありません。」
「覚えている範囲で結構です。」
クララは感謝するように軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その声にはまだ悲しみが残っていた。
私は彼女を見ながら、婚約者を失った傷がいまだ癒えていないことを感じた。
二人が本当に愛し合っていたことは疑いようがなかった。
「では。」
ホームズは静かに言った。
「事件の夜についてお聞かせ願えますか。」
クララはしばらく沈黙した。
やがて窓の外へ視線を向ける。
その向こうには灰色のライカン・ムーアが広がっていた。
彼女はぽつりと語り始めた。
声が震えた。
その時だった。
傍らにいたアーサーが静かに妹の肩へ手を置いた。
「無理をしなくていい。」
兄としての優しい声音だった。
クララは微かに首を振る。
「いいえ、お兄様。」
「話します。」
アーサーは何も言わず手を引いた。
しかしその表情には明らかな心配が浮かんでいた。
私はその様子を見て、
兄妹の仲はかなり良いのだなと思った。
「続けてください。」
ホームズが促した。
「私は窓から荒野を眺めていました。アレキサンダーと会う約束をしていたからです。」
「会う約束を?」
「婚礼の準備など話をしなければならないことがたくさんありましたから…。」
「窓の外を見て待っていますとアレクサンダーの姿が見えたのです。」
彼女の顔に僅かな微笑が浮かんだ。
それは幸福だった頃の記憶に触れた微笑だった。
「歩き方を見れば分かりました。」
「遠くにいても。」
「私は毎日見ていましたから。」
私は何も言えなかった。
彼女の言葉には飾り気がなく、それだけに胸を打った。
「やがて彼は丘の近くで立ち止まりました。」
「誰かがいたのです。」
ホームズの目が僅かに細くなる。
「誰だったか分かりますか。」
クララは首を振った。
「いいえ。」
「月明かりはありました。」
「でも遠過ぎたのです。」
「男の人だったと思います。ですが遠過ぎて、はっきりとは見えませんでした。
二人の姿が重なったように見えたのです。突き飛ばしたのか、もみ合ったのか、私には分かりません。」
「それだけです。」
「そして?」
「突然現れてアレキサンダーを突き飛ばしたかと思うとそのまま荒野の闇に消えてしまいました。」
彼女の顔色が変わった。
「今でも覚えています。」
「何かを恐れているようでした。」
「その直後です。」
「遠吠えが聞こえました。」
彼女は無意識に両手を握り締めた。
「とても恐ろしい声でした。」
「今まで聞いたことがないような。」
「犬でも狼でもないような。」
私は思わず身を乗り出した。
「それから?」
クララは目を閉じた。
「あまり思い出したくありません。」
クララは俯いたまま黙り込んでしまった。
両手はわずかに震えている。
私はこれ以上質問を続けるべきではないと思った。
レジナルドも娘の様子に気付いたらしく、小さく咳払いをした。
「もう十分だ。」
彼は静かに言った。
「クララ、部屋へ戻りなさい。」
クララは力なく頷いた。
「申し訳ありません。」
ホームズへそう告げると立ち上がる。
アーサーもまた席を離れた。
「部屋まで送ろう。」
兄はごく自然に言った。
クララはかすかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、お兄様。」
その様子を見て、私は二人の仲の良さを改めて感じた。
やがて兄妹は応接間を後にした。
しばらくしてアーサーだけが戻ってきた。
「失礼しました。」
その表情には疲れが見えていた。
「妹はまだ婚約者の死を乗り越えられないでおります。」
「無理もありません。」
私は答えた。
アーサーは小さく頷く。
「アレクサンダーは立派な方でした。」
「父があれほど激しく反対していたにもかかわらず、妹は彼を愛していた。」
彼は暖炉の火を見つめた。
「そして彼もまた妹を心から愛してくれていました。」
そこに嘘は感じられなかった。
私は改めて気の毒な事件だと思った。
ホームズは黙って煙草を弄んでいる。
灰色の瞳だけがアーサーへ向けられていた。
やがてアーサーは顔を上げる。
「応接間では落ち着いて話もできません。」
「よろしければ私の部屋へいらしてください。」
「事件当夜のことや、この土地のことをお話しできます。」
ホームズは静かに頷いた。
「喜んで。」
「ありがとうございます。」
アーサーは立ち上がった。
「こちらです。」
我々は彼の後に続いた。
二階へ上がり、長い廊下を進む。
壁には先祖たちの肖像画が並び、窓の外には灰色のライカン・ムーアが広がっていた。
やがてアーサーは一室の前で立ち止まる。
「私の部屋です。」
アーサーは扉を開いた。
私は中へ足を踏み入れ、思わず周囲を見回した。
そこは実に興味深い部屋だった。
壁には狩猟用のライフルが何挺も並び、鹿の頭骨や獣の角が飾られている。
しかし私の目を引いたのはその奥だった。
書棚の横に置かれた飾り棚には、見慣れない異国風の武器が並んでいたのである。
曲刀。
短剣。
奇妙な形状の槍。
そして使い方もわからない金属製の武器のようなものまである。
「これは驚いた。」
私は思わず声を上げた。
「随分と珍しい品をお持ちですな。」
アーサーは少し笑った。
「お恥ずかしい話ですが、若い頃から収集癖がありまして。」
「東洋の武器ですか?」
「主にインドです。」
彼は棚へ近づいた。
「二十代前半にインドへ従軍していたことがありまして。」
私は顔を上げた。
「ほう。」
アフガニスタン戦争を経験した私にとって、その言葉は興味深かった。
「それはどちらの方面です?」
アーサーの顔が少し明るくなる。
「パンジャーブ地方や北西辺境州です。」
「暑さには参りましたが。」
私は思わず笑った。
「その気持ちはよく分かります。」
「インドの夏は英国人には苛酷ですからな。」
「まったくです。」
アーサーも笑った。
「何度も故郷へ帰りたくなりました。」
その笑顔は実に自然だった。
私は少しずつ彼に好感を抱き始めていた。
気取ったところがなく、話しやすい青年なのである。
「狩猟もその頃から?」
私は壁のライフルを見ながら尋ねた。
「いいえ。」
アーサーは首を振った。
「狩猟そのものは子供の頃からです。」
「父に連れられて荒野を歩きました。」
彼はライカン・ムーアの方角を見た。
「兎、鹿、狐。」
「獲物の足跡を追うのが好きでした。」
「村の者はいまでも村一番だと言ってくれます。」
アーサーは少し照れたように笑う。
私は言った。
「軍人と狩猟家には共通点があります。」
「観察力。」
「忍耐。」
「そして正確さです。」
アーサーは頷いた。
「獲物を追うとき、一番危険なのは油断です。」
その言葉にホームズの目が僅かに動いた。
だが彼は相変わらず黙ったまま部屋を見回していた。
「ホームズ氏は狩猟を?」
アーサーが尋ねる。
「いや。」
ホームズは簡潔に答えた。
「私は獲物を撃つより観察する方が好きでね。」
その返答にアーサーは笑った。
「なるほど。」
「では私は獲物を追い、ホームズ氏は人間を追うわけだ。」
「そのようなものです。」
ホームズは静かに言った。
私は二人を見比べた。
屈強な狩猟家。
そして痩身の名探偵。
奇妙な組み合わせだが、不思議と気が合っているように見える。
ホームズはしばらく部屋の中を見回していたが、やがてアーサーへ視線を向けた。
「お聞きしたいことがあります。」
「承ります。」
アーサーは椅子へ腰を下ろした。
その態度は落ち着いており、どこにも不自然な様子はない。
「事件の夜、あなたは何をしておられましたか。」
ホームズは静かに尋ねた。
アーサーは少し考え、
「その夜ですか。」
と答えた。
「実に面白味のない話になります。」
「構いません。」
ホームズが言う。
アーサーは肩をすくめた。
「その日は朝から狩りに出ておりました。」
「荒野をずいぶん歩き回りましてね。」
「夕食の後には疲れてしまい、早々に床についております。」
私は尋ねた。
「遠吠えも銃声も聞かなかったのですか。」
「全く。」
アーサーは苦笑した。
「お恥ずかしい話ですが、死人のように眠っていたようです。」
「翌朝になって騒ぎで目を覚ましました。」
その笑みはすぐに消えた。
「そしてアレクサンダー殿が殺されたと知らされたのです。」
「正直、信じられませんでした。」
「父は快く思っていませんでしたが。」
彼は静かに続けた。
「私はアレクサンダー殿を嫌ってはおりませんでした。」
「むしろ尊敬していた。」
私は少し意外に思った。
アーサーはヴォルフラム家を憎んでいるものだと思っていたからである。
「立派な人物でした。」
「誰に対しても公平だった。」
「妹を本当に大切にしてくれていました。」
彼はふっと小さく笑った。
「妹は昔から頑固でしてね。」
「相手選びに口を出せるような娘ではありません。」
その顔には兄としての温かい愛情が浮かんでいた。
「ですがアレクサンダー殿なら安心できると思っていたのです。」
私は思わず頷いた。
「お気持ちは分かります。」
アーサーはしばらく黙っていた。
そして低い声で言う。
「だからこそ残念です。」
「クララもあれ以来、自分を責めております。」
「自分がもっと早く異変に気付いていればと。」
彼は首を振った。
「そんなことを考える必要などないのに。」
私はその言葉に心を打たれた。
妹を失ったわけではない。
だが婚約者を失った妹を見守る兄としての苦悩が感じられたからである。
「それに。」
アーサーは窓の外を見た。
灰色のライカン・ムーアが広がっている。
「兄を失ったのはエドワードだけではありません。」
「妹もまた、大切な人を失ったのです。」
ホームズは静かにその言葉を聞いていた。
私は、この青年に対してますます好感を抱いていた。
アーサーとの話が終わると、彼は丁重に一礼した。
「何か思い出したことがあれば、いつでもお呼びください。」
そう言い残して部屋を後にする。
扉が閉まると、しばらく静寂が降りた。
暖炉の前に残っていたレジナルド・ブラックウッドが口を開いた。
「息子は役に立ちましたかな。」
ホームズは曖昧に微笑んだ。
「興味深い話を聞けました。」
老人は鼻を鳴らした。
「そうですか。」
その様子からは満足とも不満ともつかぬ感情が窺えた。
ホームズは椅子へ腰を下ろした。
「ひとつお聞きしたい。」
「何ですかな。」
「クララ嬢とアレクサンダー氏のご関係です。」
レジナルドはしばらく黙っていた。
「本気でしたよ。」
老人はぽつりと呟いた。
「二人とも。」
私はその声に意外な優しさを感じた。
「最初は反対した。」
レジナルドは続けた。
「我が一族とヴォルフラム家には古い因縁がある。」
「百年以上続いておりますな。」
ホームズが言った。
「その通り。」
老人は頷く。
「わしは子供の頃から聞かされて育った。」
『ヴォルフラム家を信用するな』
『あれは狼の一族だ』
とな。」
しばし沈黙が落ちた。
「だがクララは違った。」
老人は苦笑した。
「わしの話など聞きもしなかった。」
思わず私は微笑んだ。
クララの性格が何となく想像できたからである。
「アレクサンダーを愛していたのですな。」
「愛していました。」
老人は即座に答えた。
そこに迷いはなかった。
「そしてアレクサンダーもまた、あの娘を愛していた。」
彼は暖炉の火を見つめた。
「だから許したのです。」
「本来なら許すつもりはなかった。」
「ですが。」
彼は小さく肩を落とした。
「娘の涙には勝てませんでした。」
私はその言葉に父親としての愛情を感じた。
レジナルドは頑固な老人だが、根は家族思いなのだろう。
「クララは末娘でしてな。」
老人は続けた。
「妻を亡くしてからというもの、あの子だけが家に笑いをもたらしてくれた。」
「大事に育てられたのでしょう。」
私が言うと、レジナルドは静かに頷いた。
「あの子は特別でした。」
その言葉には深い情愛が滲んでいた。
ホームズは黙って話を聞いている。
「一方で。」
老人は少し表情を曇らせた。
「アーサーには厳しかった。」
私は顔を上げた。
「長男だからですか。」
「そうです。」
レジナルドは言った。
「ブラックウッド家を継ぐ者ですからな。」
老人の目が過去を見つめる。
「狩猟。」
「学問。」
「乗馬。」
「礼儀作法。」
「わしは何一つ甘やかさなかった。」
「よく反発しませんでしたな。」
するとレジナルドは短く笑った。
「したとも。」
「何度も。」
「若い頃など一度家を飛び出したくらいです。」
私は思わず笑った。
だが老人はすぐ真顔へ戻る。
「それでも立派な男になった。」
「少なくとも、わしはそう思っております。」
やがてレジナルドは低い声で言った。
「わしは年を取り過ぎました。」
「昔ほど憎しみにしがみついてはおりません。」
その視線は遠くを見ていた。
「クララには幸せになってほしかった。」
「ただそれだけだったのです。」
私はその言葉を聞きながら、老人が想像していたほど頑固な人物ではないように思えた。
レジナルドとの会話を終えた後、ホームズは静かに言った。
「グレイヴズ氏ともお話ししたい。」
しばらくしてアルフレッド・グレイヴズが応接間へ現れた。
老執事は相変わらず落ち着き払った様子で一礼する。
「お呼びでしょうか。」
ホームズは椅子を勧めた。
「事件当夜についてお聞きしたいのです。」
「かしこまりました。」
グレイヴズは静かに腰を下ろした。
「あなたはクララ嬢の悲鳴を聞いて窓へ向かわれた。」
ホームズが言った。
「はい。」
「その時には既にアレクサンダー氏は倒れていた。」
「その通りです。」
「そして近くに黒い影を見た。」
グレイヴズは頷いた。
「見ました。」
「人間でしたか。」
老執事は少し考えるように暖炉の火を見つめた。
やがて静かに答える。
「そうだったかもしれません。」
私は思わず眉をひそめた。
「かもしれない?」
「距離もありましたので。」
グレイヴズは穏やかに言った。
「夜の荒野は時に人の目を欺きます。」
ホームズは黙っていた。
その灰色の瞳だけが老執事を見ている。
「ですが。」
ホームズが言った。
「あなたは警察の捜査が終わるまで何も語らなかった。」
グレイヴズは微かに笑った。
「私も最初は混乱しておりましたので。」
「後になって思い返したのです。」
「何を。」
老人は答えなかった。
「ホームズ様。」
やがて彼は静かに口を開いた。
「伝説というものをご存じでしょう。」
「もちろん。」
「多くは嘘です。」
老人は言った。
「ですが、全てが嘘というわけでもありません。」
私は首を傾げた。
「どういう意味です?」
「人は恐怖すると物語を作ります。」
グレイヴズは続けた。
「そして物語は時が経つにつれ形を変える。」
「ですが。」
彼は暖炉の炎を見つめた。
「物語が生まれた理由だけは残るものです。」
ホームズが尋ねる。
「あなたは何かを知っているのですか。」
老執事は少しの間沈黙した。
私はその横顔に奇妙な表情を見た。
話したいようにも見える。
話すのを恐れているようにも見える。
「私は年寄りです。」
グレイヴズは穏やかに笑った。
「職業柄、人の顔を見る機会が多い。」
「それだけです。」
「では何も見ていないと?」
ホームズが尋ねる。
「いいえ。」
老人は静かに首を振った。
「私は確かに何かを見ました。」
部屋の空気がわずかに変わる。
私は思わず身を乗り出した。
しかし次の言葉はなかった。
グレイヴズは立ち上がった。
「申し訳ありません。」
「お役には立てそうにありませんな。」
ホームズも立ち上がる。
「いえ。」
「充分です。」
老執事は一礼して部屋を後にした。
その日の調査を終えた我々は、ブラックウッド家の厚意により夕食へ招かれた
もっとも、クララは姿を見せなかった。
体調が優れず、自室で休んでいるという。
長い食卓には、
レジナルド、
アーサー、
グレイヴズ、
そして我々が席についた。
料理は素朴ではあったが温かく、美味であった。
夕食が進むにつれて、重苦しかった雰囲気も幾分和らいでいった。
話題は狩猟やロンドンの様子へ移り、レジナルドも珍しく機嫌が良かった。
私はアーサーとの会話を楽しんでいた。
インドでの経験や狩猟の話は興味深く、共通の知人の名前まで飛び出したほどである。
夕食も終盤に差しかかった頃であった。
料理はすでに下げられ、ワインだけが食卓に残されている。
重苦しかった雰囲気も幾分和らぎ、話題は事件から離れていた。
「そういえば。」
アーサーがグラスを傾けながら言った。
「博士はグレイヴズの特技をご存じですか。」
私は首を傾げた。
「特技?」
「占いですよ。」
思わず私は笑った。
「執事が占いを?」
食卓に小さな笑いが起こる。
当のグレイヴズだけは平然としていた。
「若様は大げさにおっしゃる。」
老人は静かに答えた。
「ただの田舎の遊びでございます。」
「いや、本当なのです。」
アーサーは愉快そうだった。
「村人の中には本気で信じている者もおりますよ。」
「どういう占いなのです?」
私が尋ねると、レジナルドが鼻を鳴らした。
「狼札だ。」
「狼札?」
「この地方に伝わる古い札です。」
アーサーが説明する。
「羊飼いや猟師が使っていたもので、人狼裁判の頃には既にあったと聞いております。」
「なるほど。」
私は興味を抱いた。
「それは見てみたいな。」
「食後にいかがです?」
アーサーが言う。
「暖炉の前で一興として。」
「賛成です。」
私は答えた。
「ぜひお願いしよう。」
グレイヴズは困ったように微笑した。
「皆様がお望みなら。」
食後、我々は居間へ移った。
暖炉では薪が静かに燃えている。
窓の外はすでに暗くなっていた。
クララの姿はない。
レジナルドは肘掛椅子へ腰掛け、アーサーはワインを片手に火を眺めていた。
その時、グレイヴズが小さな革袋を持って現れた。
「これが狼札でございます。」
老人はそう言って袋を開く。
私は思わず身を乗り出した。
中から現れたのは木製の札だった。
どれも長年使い込まれており、角は丸く擦り減っている。
表面には奇妙な絵が描かれていた。
狼。
満月。
鴉。
羊。
狩人。
荒野。
どれも素朴な絵柄であったが、不思議な存在感があった。
「面白い。」
私は一枚を手に取った。
そこには満月を背に立つ狼が描かれている。
「この地方独特のものですかな。」
「ええ。」
グレイヴズは頷いた。
「ライカン・ムーアでは昔から使われております。」
「今では年寄りしか知りませんが。」
アーサーが笑う。
「さて博士。」
「何を占います?」
私は札を眺めながら答えた。
「せっかくだ。」
「人狼について占っていただこう。」
その言葉に部屋が少し静かになった。
暖炉の薪がぱちりと音を立てる。
グレイヴズは私を見た。
その目に、一瞬だけ妙な光が宿ったように思えた。
だが次の瞬間には、いつもの穏やかな表情へ戻っている。
「人狼でございますか。」
老人は静かに言った。
「それは難しい問いですな。」
「だからこそ面白い。」
私は笑った。
グレイヴズは狼札を集めると、ゆっくりと並べ始めた。
だが並べ終えた後も、しばらく何も言わなかった。
やがて彼は札を裏返し、静かに袋へ戻した。
「どうでした?」
私は尋ねた。
老人は微かに笑った。
「申し訳ございません。」
「答えは今はまだ見えません。」
「見えない?」
「ええ。」
彼は頷いた。
「もう少し様子を見る必要がありそうです。」
私は思わず笑った。
「それはいかにも占い師らしい答えだな。」
アーサーも声を上げて笑う。
だがグレイヴズは穏やかな表情のまま言った。
「結果が出ましたら、また今度お話ししましょう。」
「満月の夜までには。」
その言葉だけが、不思議と私の耳に残ったのである。
ブラックウッド家を辞した頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
我々は馬車で荒野を横切り、《ブラック・ウルフ亭》へ戻ることにした。
ライカン・ムーアを吹き抜ける風は相変わらず冷たい。
私は今日一日の出来事を思い返していた。
悲しみに沈むクララ。
誠実で快活なアーサー。
頑固だが家族思いのレジナルド。
そして何事かを知りながらも語ろうとしないグレイヴズ。
どの人物も一筋縄ではいかない。
だが、それはホームズにとってむしろ歓迎すべきことなのだろう。
彼は馬車の中でほとんど口を開かなかった。
ただパイプを弄びながら、荒野の彼方を眺めている。
やがて村の灯りが見えてきた。
《ブラック・ウルフ亭》である。
暖炉の煙が夕空へ細く昇っていた。
私は正直なところ、少し安堵していた。
ブラックウッド家の重苦しい空気に比べれば、この小さな宿屋の方が遥かに気楽だからである。
玄関の扉を開けた瞬間、
「やっと帰ってきたかい!」
という声が飛んできた。
マーサ・ヘンダーソンであった。
宿の女主人は両手を腰に当て、いかにも不満そうな顔をしている。
「まったく、先生方はロンドンから来たんだから、この辺のことが分かっちゃいない。」
私は帽子を取りながら笑った。
「どうしたのだね?」
「どうしたもこうしたもありませんよ。」
マーサは腕を組んだ。
「もう日が暮れてるじゃありませんか。」
私は窓の外を見た。
確かに辺りは薄暗くなり始めている。
「少し遅くなっただけだ。」
「少し?」
マーサは眉を吊り上げた。
「ライカン・ムーアじゃ、その少しが命取りになるんです。」
私は思わず苦笑した。
「また人狼の話かね。」
「またじゃありません!」
彼女は真顔だった。
「人狼でも狼でも悪魔でも何でもいいんですよ。」
「夜の荒野には近付くもんじゃありません。」
「特に満月が近い今はね。」
私は肩を竦めた。
「我々は二人とも大人だよ。」
「だから余計に心配なんです。」
マーサは即座に言った。
「大人という生き物は、自分は大丈夫だと思い込むからね。」
私は返す言葉を失った。
その横でホームズが微かに笑う。
「ご心配感謝します、マーサ夫人。」
「感謝だけならいりませんよ。」
彼女は指を突き付けた。
「約束してください。」
「日が暮れる前に戻ること。」
「そして満月の夜には絶対に荒野を歩かないこと。」
ホームズはわずかに眉を上げた。
「それは難しい注文だ。」
「どうしてです?」
「調査というものは、人狼より厄介な相手を追いかけることがあるのでね。」
マーサは深々とため息をついた。
「ほら。」
彼女は私を見た。
「ホームズさんはもう言うことを聞かない顔をしている。」
「博士、あんたから何とかしてください。」
私は笑った。
「私が言って聞く男ではない。」
「知ってますよ。」
マーサは即答した。
「見てりゃ分かります。」
その言葉に私は吹き出した。
宿の中には久しぶりに明るい空気が流れた。
だがマーサはすぐ真顔へ戻る。
そして窓の外の暗くなりかけた荒野を見ながら呟いた。
「冗談じゃなく気を付けてくださいよ。」
「最近のライカン・ムーアは何だか嫌な感じがするんです。」
その声には村人特有の迷信だけではなく、本物の不安が混じっているように聞こえた。
ホームズは何も答えなかった。
ただ窓の向こうの荒野を見つめている。
そこでは夕闇が静かにライカン・ムーアを飲み込みつつあったのである。
三日目の朝、空は低い雲に覆われていた。
朝食を終えた私は、暖炉の脇でコーヒーを飲みながらホームズを眺めていた。彼は昨夜からほとんど口を利かず、何枚もの紙へ何かを書き付けている。
「何か分かったのかね?」
私が尋ねると、ホームズは顔を上げずに答えた。
「いや。ただ昨夜までに聞いた話には一つ共通点がある。」
「共通点?」
「誰もが伝説を語る。」
彼はそう言って紙を畳んだ。
「エドワードも、マーサ夫人も、ブラックウッド家の人々も。」
そして私を見る。
「だが伝説は事実ではない。」
「なるほど。」
「だから今日は事実を調べる。」
「どこへ?」
ホームズは帽子を手に取った。
「聖マイケル教会だ。」
ライカン・ムーア聖マイケル教会は村外れの小高い丘の上に建っていた。
黒ずんだ石造りの古い建物である。
その歴史はヴォルフラム家がこの土地へ移り住む以前まで遡るという。
尖塔の上では鉄製の風見鶏が風に軋み、曇天を背景に不気味な影を落としていた。
教会の中は静寂に包まれていた。
色褪せたステンドグラスから淡い光が差し込み、長椅子へ色とりどりの影を落としている。
やがて祭壇の奥から一人の男が現れた。
五十代半ばほど。
痩せた体格。
白髪混じりの髪。
丸眼鏡。
黒い聖職服。
その人物を見るなり、私は奇妙な印象を受けた。
牧師というより学者である。
大学の書斎からそのまま出てきたような雰囲気だった。
「シャーロック・ホームズ氏とワトソン博士ですな。」
男は穏やかな笑みを浮かべた。
「トマス・ヘイルです。」
「お会いできて光栄です。」
ホームズが言った。
「こちらこそ。」
ヘイル牧師は軽く会釈した。
「ロンドンから名探偵が来たという話は既に聞いております。」
その声には落ち着きがあった。
村人たちのような怯えも興奮も感じられない。
「アレクサンダー氏の事件についてお聞きしたいのです。」
ホームズは前置きなしに切り出した。
牧師は静かに頷いた。
「もちろん。」
「あなたは人狼伝説を信じておられますか?」
その問いに牧師は微笑した。
「いいえ。」
即答だった。
私は少し意外に思った。
この土地では誰も彼もが人狼を恐れているように見えたからである。
「では存在しないと?」
私が尋ねる。
牧師はしばらく考えてから答えた。
「人狼がいたとは思いません。」
そして少し間を置いた。
「しかし。」
彼は窓の外の荒野を見た。
「人狼を信じて人を殺した者は確かにいたのです。」
ホームズの目がわずかに細くなる。
どうやら気に入ったらしい。
「百年前の人狼裁判ですな。」
ホームズが言う。
「ええ。」
牧師は頷いた。
「人々は恐怖していました。」
「失踪。」
「飢饉。」
「疫病。」
「そして殺人。」
彼は静かな声で続けた。
「恐怖した人間は、時として狼より残酷になります。」
その言葉には妙な重みがあった。
私は無意識に姿勢を正した。
「ジョナス・クロウについてもご存じなのですか。」
ホームズが尋ねた。
牧師は頷く。
「教会には当時の記録が残っています。」
「彼は人狼ではありませんでした。」
「そう断言できるのですか。」
「少なくとも記録を読む限り、彼は不運な男です。」
牧師はそう言った。
「むしろ告発しようとしていた側だった可能性すらある。」
私は思わず顔を上げた。
「コンラート・ヴォルフラム伯を?」
「その可能性があります。」
ホームズは興味深げに眉を上げた。
「記録を見せていただけますかな。」
ホームズが言う。
「もちろん。」
ヘイル牧師は微笑した。
「そのために来られたのでしょう。」
そう言うと祭壇の脇にある扉へ向かった。
「地下書庫です。」
「代々の牧師たちが記録を保管しております。」
私はホームズと顔を見合わせた。
そして牧師の後に続いて階段を下りた。
地下室はひんやりとしていた。
石壁に囲まれた薄暗い空間である。
棚には革表紙の帳簿が何十冊も並んでいた。
洗礼記録。
婚姻記録。
死亡記録。
その全てが百年以上前まで遡るらしい。
「素晴らしい。」
ホームズは珍しく感嘆した。
「地方教会でこれほど保存状態の良い書庫は少ない。」
牧師は少しだけ誇らしげに笑う。
「先代方のおかげです。」
やがて彼は古びた箱を取り出した。
慎重に蓋を開く。
中には黄ばんだ書類が収められていた。
「これが人狼裁判の記録です。」
私は紙を覗き込んだ。
そこには震えるような筆跡で当時の証言が書き残されていた。
ホームズは無言でそれを読み始める。
地下書庫にはページを繰る音だけが響いていた。
しばらくして、ヘイル牧師がぽつりと呟いた。
「博士。」
「何です?」
「怪物は存在しないかもしれません。」
彼は静かに言った。
「ですが、怪物を必要とする人間は存在するのです。」
私は答えられなかった。
その言葉は、何故かこの事件の核心に触れているように思われたからである。
その時私はまだ知らなかった。
人狼裁判の記録の中に、ホームズが後に事件を解くための最初の手掛かりを見出していたことを。
「教会は昔からここにあったのですか?」
私が尋ねると、ヘイル牧師は穏やかに首を振った。
「いいえ。」
彼は窓の外を見た。
「元々の聖マイケル教会は、もっと荒野の奥に建っていたのです。」
「ライカン・ムーアの中に?」
「正確には荒野の縁ですな。」
牧師は頷いた。
「百年以上前、人狼裁判が行われた頃の教会はそこにありました。」
「ですが建物の老朽化が進みましてね。」
「今から七十年ほど前、村の中心へ移築されたのです。」
「では現在の建物は?」
「古い石材の多くは当時の教会から運ばれたものですよ。」
そう言って牧師は壁へ触れた。
「ですから、この教会の石の中には、人狼裁判を見ていたものもあるかもしれません。」
私は思わず周囲を見回した。
厚い石壁は薄暗い光の中で静かに佇んでいる。
百年前、ジョナス・クロウが群衆の前へ引き出された時も、同じ石がそこにあったのかもしれない。
「旧教会の跡は今も残っているのですか?」
ホームズが尋ねた。
「土台と荒れた石塀が少し残っているだけですが。」
牧師は答えた。
「人狼裁判跡と共に、荒野の北側に。」
その時の私は、ホームズの目がわずかに鋭くなったことを見逃さなかった。
教会を出た頃には正午を過ぎていた。
我々は村へ戻り、《ブラック・ウルフ亭》で簡単な昼食を済ませた。
マーサ夫人が運んできたシチューを食べながら、私は牧師から聞いた話を反芻していた。
ジョナス・クロウ。
人狼裁判。
そしてコンラート・ヴォルフラム伯。
百年前の出来事が、まるで現在の殺人事件と細い糸で結ばれているように感じられたのである。
昼食を終えると、ホームズは帽子を取った。
「出かけよう。」
「どこへ?」
「荒野だ。」
私は思わず顔をしかめた。
「またライカン・ムーアか?」
「せっかく旧教会跡の存在を知ったのだからね。」
ホームズは微かに笑った。
「実際に見なければ始まらない。」
午後のライカン・ムーアは相変わらず陰鬱だった。
低い雲が空を覆い、風が草原を波のように揺らしている。
我々は牧師から聞いた方角へ向かって歩いた。
村を離れるにつれて人の気配は消え、ただ風の音だけが耳に残る。
やがてホームズが足を止めた。
「ワトソン。」
「何だね?」
「振り返りたまえ。」
私は後ろを見た。
遠く村が見える。
さらにその向こうにはヴォルフラム館の尖塔が黒く突き出ていた。
反対側にはブラックウッド家の森。
私は思わず呟いた。
「案外近いな。」
「そうだ。」
ホームズは静かに言った。
「人間の憎しみというものは、遠く離れた相手に向けられることは少ない。」
それだけ言うと再び歩き始めた。
しばらく進むと、草に埋もれた石積みが見えてきた。
高さは腰ほどしかない。
ところどころ崩れている。
「旧教会跡か。」
私は呟いた。
ホームズは石塀を調べ始めた。
周囲には苔むした石が散乱している。
かつて建物が存在していたことだけは分かった。
だが今は廃墟ですらない。
風と草に飲み込まれた残骸であった。
「寂しい場所だな。」
「百年前はこちらが村の中心だったらしい。」
ホームズは言った。
「今では誰も寄り付かん。」
さらに少し歩いた時だった。
「おや?」
不意に声が聞こえた。
私は振り返った。
いつの間にか一人の男が立っている。
四十代前半。
痩せた体。
丸眼鏡。
無精髭。
肩から古びた鞄を提げていた。
そして分厚いノートを抱えている。
男の顔には驚きと喜びが同時に浮かんでいた。
「これは驚いた!」
彼は早口で言った。
「まさかこんな場所でお会いできるとは!」
私は少々圧倒された。
男は帽子を取った。
「エミール・フェアチャイルドです。」
「民俗学を研究しております。」
ホームズが僅かに眉を上げる。
「フェアチャイルド博士ですかな。」
「ご存じでしたか!」
学者は嬉しそうに言った。
「論文を拝見したことがあります。」
ホームズはさらりと答えた。
フェアチャイルドは満面の笑みになった。
「それは光栄です!」
私は内心驚いた。
ホームズが他人の学術論文を読んでいるとは思わなかったからである。
「先生は何を調べておられるのです?」
私が尋ねると、男の目が輝いた。
「ああ!」
彼は待っていましたとばかりに言った。
「もちろん人狼伝説ですよ!」
私は思わずホームズと顔を見合わせた。
「やはり。」
ホームズが呟く。
「実在するとお考えで?」
学者は即座に首を振った。
「まさか。」
「私は人狼が実在するとは思いません。」
そう言って少し間を置く。
「ですが。」
彼は人差し指を立てた。
「人狼伝説は実在します。」
ホームズの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「伝説というものは不思議なのです。」
フェアチャイルドは熱心に語り始めた。
「人間は説明できないものを恐れます。」
「そして恐れたものに名前を与える。」
「妖精。」
「悪魔。」
「魔女。」
「人狼。」
彼は荒野を見渡した。
「ですが本当に重要なのは、伝説そのものではありません。」
「伝説が生まれた理由なのです。」
ホームズが尋ねた。
「ライカン・ムーアの伝説は他と違うのですか。」
「大いに違います。」
学者は即答した。
「大抵の人狼伝説は呪いによって生まれます。」
「ところが、この地方ではそうではない。」
「では何によって?」
私が尋ねる。
フェアチャイルド博士は妙に真剣な顔になった。
「復讐です。」
風が草を揺らした。
「ライカン・ムーアの人狼は、呪われた者ではありません。」
「憎しみに取り憑かれた者なのです。」
私は理由もなく背筋に寒気を覚えた。
その言葉は単なる伝説の説明とは思えなかった。
まるで現在の事件そのものを語っているように聞こえたのである。
その時、私は気付かなかった。
ホームズの灰色の瞳が、初めて強い興味を示したように見えたことを。
フェアチャイルド博士はノートを脇に抱え直した。
「もっとも。」
彼は急に真面目な顔になった。
「お二人とも、夜の荒野にはあまり近付かれない方がよろしいですよ。」
私は思わず笑った。
「博士まで人狼を恐れておられるのですか?」
「まさか。」
彼は即座に首を振った。
「私は人狼など信じておりません。」
そして少し肩を竦めた。
「ですが野犬はおります。」
「野犬?」
「ええ。群れで行動することもあります。」
博士は荒野の彼方を見た。
「それに最近はジプシーたちもこの辺りへ来ております。」
「ジプシーですか。」
「荒野の南側に野営地を作っております。」
「彼らは無害な者も多いのですが、中には羊泥棒や密猟を生業にしている連中もいる。」
ホームズは静かに耳を傾けていた。
「では博士は人狼騒ぎをどう思っておられるのです?」
私が尋ねると、フェアチャイルドは苦笑した。
「面白いことに、ジプシーたちは全く信じていませんよ。」
「信じていない?」
「ええ。」
彼は笑った。
「村人は人狼に怯えておりますが、彼らは夜の荒野を平気で歩き回る。」
「『狼男など見たこともない』と言っています。」
私は少し意外に思った。
「伝説好きかと思っていたが。」
「逆ですよ。」
フェアチャイルドは首を振った。
「本当に貧しい暮らしをしている人々は、想像上の怪物より現実の危険を恐れるものです。」
そして少し声を落とした。
「彼らはこう言います。」
『昔も今も、本当に怖いのは狼ではなく人間だ。』
風が吹いた。
荒野の草が波のように揺れる。
博士は遠くの丘を見つめたまま続けた。
「実を申しますと、それは人狼裁判の記録を読んだ私の感想でもあります。」
「ほう。」
ホームズが初めて口を開いた。
フェアチャイルドは静かに頷く。
「百年前、人狼はいませんでした。」
「しかし人を憎み、疑い、石を投げた者はいた。」
「ジョナス・クロウを処刑したのは人狼ではありません。」
「人間です。」
しばし沈黙が落ちた。
荒野を渡る風だけが音を立てている。
やがて博士は小さく笑った。
「ですからお気を付けください。」
「もしライカン・ムーアで何かに襲われるとしたら、人狼ではないでしょう。」
「もっと始末の悪いものです。」
「何です?」
私が尋ねた。
フェアチャイルド博士は眼鏡の奥で静かに微笑んだ。
「人間ですよ、博士。」
フェアチャイルド博士と別れた頃には、空は既に夕方の色を帯び始めていた。
低い雲の下で荒野は薄闇に沈みつつある。
風は冷たく、草の波だけがどこまでも続いていた。
その時だった。
ホームズが不意に足を止めた。
「誰かいる。」
私は顔を上げた。
丘の上に黒い影が立っていたのである。
最初は岩かと思った。
それほど微動だにしなかった。
だが次の瞬間、その影がゆっくりと動いた。
人間だった。
長身の男である。
厚いコートをまとい、肩にはライフルを担いでいる。
逆光のため顔はよく見えない。
しかし奇妙なことに、その姿は周囲の風景に異様なほど溶け込んでいた。
まるで荒野そのものが人の形を取ったかのように。
男はしばらく我々を見下ろしていた。
一言も発しない。
風だけが唸っている。
私は理由もなく落ち着かない気分になった。
村人たちの話が頭をよぎる。
人狼。
ジョナス・クロウの子孫。
満月の夜に荒野を歩く男。
やがてその男が丘を下りてきた。
近付くにつれて顔が見え始める。
左の頬から顎にかけて古い傷跡が走っていた。
まるで獣の爪で裂かれたような傷だった。
鋭い灰色の目。
日焼けした皮膚。
痩せた体。
そして獲物を探す狼のような静かな足取り。
男は我々の前で立ち止まった。
しばらく無言でホームズを見つめる。
その視線は妙に鋭かった。
「ロンドンの探偵か。」
低い声だった。
「そうだ。」
ホームズは平然と答えた。
男は僅かに頷く。
「やはりな。」
「村中がお前の噂をしている。」
その口元に浮かんだ笑みは、笑っているようにも見えたし、牙を剥いているようにも見えた。
「人狼狩りに来たそうじゃないか。」
クロウはしばらくホームズを見つめていた。
やがて視線をライカン・ムーアへ向ける。
夕暮れの荒野には長い影が落ち始めていた。
「殺人犯か。」
彼は独り言のように呟いた。
「それなら尚更だ。」
「何がだね?」
私が尋ねると、クロウはゆっくり首を振った。
「お前たちじゃ無理だ。」
その言葉に私は眉をひそめた。
「どういう意味だ。」
男は答えない。
ただ荒野の彼方を見つめている。
そして再び口を開いた。
「この土地のことは、この土地の者にしか分からん。」
「百年前から続いている話だ。」
「ロンドンの探偵ごときが首を突っ込んでも何も変わらん。」
私は少し腹を立てた。
「ずいぶんな言い草だな。」
しかしクロウは意に介さなかった。
むしろ我々を哀れむような目で見た。
「帰りな。」
彼は静かに言った。
「今ならまだ間に合う。」
風が吹いた。
コートの裾がはためく。
「満月が来る前に。」
私は何か言い返そうとした。
だがその時には、クロウは既に踵を返していた。
「おい!」
呼び止めても振り返らない。
ライフルを肩に担ぎ、薄暗くなり始めた荒野を一人歩いていく。
その姿は次第に霧と夕闇の中へ溶け込んでいった。
やがて完全に見えなくなる。
まるで最初からそこにいなかったかのように。
私はしばらくその方向を見つめていた。
「感じの悪い男だな。」
ホームズは遠ざかる影が消えた丘を見つめたまま答えた。
「いや。」
灰色の瞳が僅かに細くなる。
「むしろ逆かもしれん。」
「逆?」
「あの男は何かを恐れている。」
ホームズは静かに言った。
「自分のためではない。」
「我々のためにな。」
《ブラック・ウルフ亭》へ戻った頃には、ライカン・ムーアはすっかり夕闇に包まれていた。
暖炉の火が食堂を赤く照らしている。
村人たちは酒を酌み交わしていたが、その声はどこか小さい。
皆、日が沈んだ後の荒野を恐れているのである。
私は椅子へ腰を下ろし、ようやく一息ついた。
しばらくするとマーサ夫人が夕食を運んできた。
「今日は荒野のほうまで行ったそうじゃないか。」
「聞いたのかね。」
「こんな小さな村ですからね。」
マーサは肩を竦めた。
「何もかも筒抜けですよ。」
そう言うと声を潜めた。
「それで。」
「会ったんでしょう?」
「誰に?」
「イーサン・クロウさ。」
私は思わずホームズと顔を見合わせた。
「なぜ分かる。」
「荒野で人に会ったなら大抵あの男ですよ。」
マーサは鼻を鳴らした。
「相変わらず不気味だったでしょう。」
私は今日見た男を思い浮かべた。
夕闇の丘に立つ黒い影。
獣に引き裂かれたような顔の傷。
狼を思わせる鋭い目。
確かに人好きのする人物ではない。
「村の連中は皆、あの男を嫌っているのか。」
私が尋ねると、マーサは少し困ったような顔になった。
「嫌っていると言うより……。」
彼女は言葉を探した。
「恐れているんですよ。」
「先祖の代からです。」
暖炉の薪がぱちりと音を立てた。
「ジョナス・クロウは人狼だとして処刑された。」
「だが本当に人狼だったかどうかなんて、今となっては誰にも分かりません。」
彼女は腕を組んだ。
「それでも村人は忘れませんからね。」
「クロウ家だ。」
「人狼の血だ。」
そう言われ続けてきたんです。」
「イーサンもか?」
「もちろんです。」
マーサは頷いた。
「子供の頃から散々だったと聞きます。」
「遊び仲間も少なかった。」
「村の子供は親の真似をしますから。」
彼女はため息をつく。
「大人たちが人狼の子だと言えば、子供だってそう呼ぶ。」
私は黙って聞いていた。
マーサはさらに続ける。
「それにヴォルフラム家ですよ。」
「ヴォルフラム家?」
「昔の当主たちはクロウ家を目の敵にしていたそうです。」
彼女は声を潜めた。
「土地を取り上げられたり、仕事を失ったり。」
「酷い扱いを受けたと言います。」
「百年前の人狼裁判の後もですか。」
「ええ。」
マーサは頷いた。
「人狼の一族と呼ばれた家に誰も関わりたがらなかった。」
「村八分みたいなものですよ。」
私は思わず窓の外を見た。
暗闇の向こうには広大なライカン・ムーアが横たわっている。
そのどこかを、今もイーサン・クロウは歩いているのかもしれない。
確かに彼は不気味だった。
人狼と呼ばれても不思議ではない風貌だった。
だがそれだけで罪人扱いされるのだろうか。
「もっとも。」
マーサは肩を竦めた。
「本人も悪いんですよ。」
「どういうことだね。」
「あの格好です。」
彼女は即座に答えた。
「昼でも夜でも荒野をうろつく。」
「黒いコートを着て。」
「顔に傷まである。」
「おまけにライフルを担いで歩くでしょう。」
食堂の客たちも小さく頷いている。
「満月の夜に丘の上へ立っていたなんて話もあります。」
「そんな男を見たら誰だって人狼だと思いますよ。」
私は苦笑した。
確かに今日の姿を思い返せば無理もない。
夕闇の中に立つ彼の姿は、人間というより荒野の獣に近かった。
しかし、その時だった。
それまで黙っていたホームズが静かに言った。
「ワトソン。」
「何だね。」
「人は見たいものを見る。」
私は顔を上げた。
ホームズはパイプへ火を点けながら続ける。
「百年前の村人たちはジョナス・クロウに人狼を見た。」
「現在の村人たちはイーサン・クロウに人狼を見ている。」
「そして君もまた同じだ。」
「私が?」
「そうだ。」
ホームズは煙を吐いた。
「だが忘れるな。」
灰色の瞳が暖炉の炎を映す。
「人狼と呼ばれた者が怪物とは限らない。」
「時に怪物より恐ろしいのは、それを作り出す人間の方だからね。」
私は反論できなかった。
何故なら、その言葉は今日ヘイル牧師とフェアチャイルド博士から聞いた話と、不思議なほど重なっていたからである。
そして後になって思えば、この時のホームズは既にイーサン・クロウへの疑いをほとんど捨てていたのであった。
夜は風が強かった。私は何度か睡眠を妨げられたが、それでも旅の疲れのおかげで深く眠ったらしい。
翌朝、目を覚ました時には既に空が明るくなっていた。
窓の外では灰色の雲が低く垂れ込めている。
私は身支度を整え、階下へ降りた。
食堂には既にホームズがいた。
彼は朝食には手も付けず、机の上へ何枚もの紙を広げている。
人狼裁判の記録らしかった。
「おはよう。」
私が声を掛ける。
「おはよう、ワトソン。」
しかしホームズの目は紙から離れなかった。
「昨夜は眠れたかね?」
「君ほどではないな。」
私は椅子へ腰を下ろした。
「何か気になることでもあるのか?」
ホームズはしばらく返事をしなかった。
やがて紙を一枚持ち上げる。
「百年前の話だ。」
「人狼裁判か。」
「うむ。」
彼は頷いた。
「記録を読めば読むほど不可解でね。」
私は興味を覚えた。
「どういう意味だ?」
「恐怖だよ。」
ホームズは静かに言った。
「人々は人狼を恐れていた。」
「それは分かる。」
「だが妙だ。」
彼は窓の外の荒野を見た。
「彼らは人狼を恐れながら、平気でジョナス・クロウを処刑している。」
私は首を傾げた。
「恐怖したからだろう。」
「その通り。」
ホームズは微かに笑った。
「だから興味深い。」
それ以上は語らなかった。
そこへマーサ夫人が朝食を運んできた。
「今朝はずいぶん早いですね。」
彼女は皿を置きながら言った。
「昨夜は風が酷かった。」
「今日も荒野を歩き回るつもりですか?」
「その予定だ。」
ホームズが答える。
マーサは露骨に顔をしかめた。
「全く。」
「明日は満月なんですよ。」
私は思わず顔を上げた。
そうだった。
エドワードがベーカー街へ来てから、誰もが口にしていた日が近付いていたのである。
「村の様子はどうなのだね。」
私が尋ねると、マーサはため息をついた。
「昨日より酷いですよ。」
「皆そわそわしている。」
「羊飼いは家畜を囲いから出したがらないし、子供も外で遊ばない。」
そして声を潜める。
「昨夜も遠吠えを聞いたっていう人が何人もいました。」
ホームズは何も言わなかった。
私は帽子を手に取りながら尋ねた。
「今日も館へ行くのか?」
「いや。」
ホームズは首を振った。
「私は再び教会へ向かう。」
「まだ調べることが?」
「ある。」
彼は短く答えた。
「百年前の事件を理解せずに、現在の事件を解くことはできん。」
そして玄関へ向かいながら言った。
「ワトソン。」
「何だね。」
「今日は別行動にしよう。」
「珍しいな。」
「少し確認したいことがある。」
ホームズは帽子を被った。
「幸い君には人に好かれる才能がある。」
「それは褒め言葉として受け取っておこう。」
「そのつもりだ。」
彼は微かに笑った。
「ブラックウッド家へ行ってみたまえ。」
「クララ嬢の様子も気になる。」
「アーサー氏とも話をしてみたい。」
私は頷いた。
午後遅く、私はブラックウッド荘を後にした。
クララの様子は相変わらず痛々しかったが、前回よりは幾分落ち着いているように見えた。
アーサーもまた、終始穏やかな態度を崩さなかった。
むしろ私はその誠実さに好感を抱き始めていた。
妹を気遣い、父を支え、領地の管理にも追われている。
彼ほど不幸な事件を嘆いている人物は他にいないように思えたのである。
《ブラック・ウルフ亭》へ戻った頃には、空は既に夕暮れ色へ染まり始めていた。
ホームズはまだ戻っていない。
私は食堂で待つことにした。
やがて外で馬の蹄の音が聞こえる。
玄関の扉が開き、ホームズが姿を現した。
コートは風に吹かれ、靴には荒野の泥が付着していた。
「随分遅かったな。」
私が言うと、彼は短く頷いた。
「少々調べ物が長引いた。」
「成果は?」
ホームズは帽子を置いた。
「ある。」
そう答えたが、それ以上は語らない。
私は顔をしかめた。
「また君の悪い癖が始まったな。」
「かもしれない。」
彼は珍しく微笑した。
しかしその目は笑っていなかった。
夕食の席でもホームズはほとんど話さなかった。
ノートを開き、時折何かを書き付けている。
私には分かった。
何かが彼の頭の中で形になり始めているのだ。
だがまだ確信には至っていない。
そういう時の顔だった。
食後、マーサ夫人が珈琲を運んできた。
「明日は満月ですよ。」
彼女は落ち着かない様子で言った。
「村中その話ばかりです。」
私は窓の外を見た。
空には雲の切れ間が広がり始めている。
「天気は良くなりそうだな。」
「だから嫌なんです。」
マーサは真顔だった。
「満月が綺麗に見えてしまう。」
ホームズは何も言わない。
ただ暖炉の炎を見つめている。
私は不意にエドワードの言葉を思い出した。
次の満月に、また誰かが殺されるかもしれない。
まさか。
そう思いたかった。
だがライカン・ムーアへ来てからというもの、私は少しずつこの土地の空気に飲み込まれ始めていた。
夜も更けた頃。
我々は部屋へ戻った。
ホームズは机の上へ人狼裁判の記録を広げる。
「まだ調べるのか。」
「あと少しだ。」
彼は答えた。
「もうすぐ見える。」
「何が?」
ホームズは手を止めた。
そして静かに言った。
「なぜ百年前の亡霊が蘇ったのか。」
私はしばらく彼を見つめていた。
だが、それ以上の説明は得られなかった。
私は先に寝台へ入った。
暖炉の火は弱まりつつある。
窓の外では風が荒野を渡っていた。
遠くで何かの鳴き声が聞こえた気がした。
狐だったのか。
野犬だったのか。
それとも別の何かだったのか。
私には分からない。
最後に目を閉じる直前。
私は隣の机へ目を向けた。
ホームズはまだ起きていた。
橙色のランプの光の下で書類を読み続けている。
その横顔には、いつになく険しい表情が浮かんでいた。
今にして思えば。
あの夜の彼は何かを察していたのかもしれない。
迫りつつある悲劇を。
あるいは、既に第二の殺人者が荒野を歩いていたことを。
だがその時の私は知る由もなかった。
翌朝。
私は激しいノックの音で目を覚ました。
まだ夜明けからそう時間は経っていない。
扉の向こうから慌てた声が聞こえる。
「ホームズ様! ホームズ様!」
私は飛び起きた。
隣を見るとホームズも既に起きている。
扉を開けると、蒼白な顔の若い村人が立っていた。
「大変です!」
「また人狼が……!」
二十分後。
我々は村人たちと共にライカン・ムーアへ向かっていた。
朝の荒野には重苦しい霧が漂っている。
前方からは怒号や悲鳴が聞こえてきた。
現場へ近づくにつれ、人垣は大きくなっていく。
誰もが怯えていた。
そして誰もが同じ言葉を口にしている。
「人狼だ。」
「また現れたんだ。」
「今度はグレイヴズさんだぞ。」
「次は誰だ。」
「満月は明日だぞ!」
泣き出す女もいた。
子供を抱えて家へ戻ろうとする母親もいる。
男たちですら顔面蒼白だった。
村全体が百年前の悪夢へ引き戻されつつあるように見えた。
村人たちをかき分けて進む。
やがて私は遺体を見た。
思わず息を呑む。
アルフレッド・グレイヴズだった。
仰向けに倒れている。
胸元から腹部にかけて衣服は引き裂かれ、大量の血が周囲の草を黒く染めていた。
一見すると獣に襲われたように見える。
だが私は医師だった。
アレクサンダーの遺体の傷の状態は検視した村の医師に聞いていたしカルテも一通り確認はしていた。
傷口は酷似していた。
「ワトソン。」
ホームズの声が聞こえた。
私は膝をつき遺体を調べる。
しばらくして立ち上がった。
「同じだ。」
「アレクサンダーの時と。」
ホームズは静かに頷いた。
周囲では村人たちの恐怖がさらに広がっていた。
ホームズは遺体の傍らに膝をついていた。
何かを見つめている。
私は近づいた。
「何か分かったのか?」
ホームズは答えない。
ただ血に濡れた草を見ている。
「ホームズ?」
ようやく彼は立ち上がった。
だがその顔を見て私は驚いた。
彼らしくない表情だった。
悔恨である。
ホームズは立ち上がった。
灰色の瞳は険しい。
「私は考えていた。」
「犯人は満月を利用するつもりだと。」
「そして次の事件が起きる可能性も。」
彼は拳を握った。
「だが甘かった。」
「ホームズ。」
「私は気付いていたのに守れなかった。」
その言葉は自分自身へ向けられているようだった。
「何をだ?」
「犯人の焦りだよ。」
ホームズは静かに言った。
「私は犯人が計画通り動くものと思い込んでいた。」
「だが違った。」
「犯人は追い詰められていたのだ。」
私は再びグレイヴズの遺体を見た。
昨夜まで生きていた老人。
クララを幼い頃から見守り続けた執事。
「君の責任ではない。」
私は言った。
「君が駄目なら、この国の誰にも防げなかった。」
ホームズはしばらく黙っていた。
風が吹き、霧が草原を流れていく。
「ありがとう、友よ。」
彼は静かに答えた。
「だが私はそうは思わん。」
ホームズは遺体へ最後の視線を向けた。
「グレイヴズ氏は偶然殺されたのではない。」
「犯人にとって邪魔になった。」
「だから殺された。」
その声は徐々に冷たさを取り戻していく。
「この殺人は予定外だった。」
「それ故に犯人は痕跡を残した。」
私は顔を上げた。
「では。」
「ああ。」
ホームズは頷いた。
「犯人は失策を犯した。」
その瞬間、私は気付いた。
先ほどまでの後悔とは別の光が、彼の目に宿り始めていることを。
「ワトソン。」
「何だね。」
「もう長くはない。」
ホームズは荒野の彼方を見つめた。
雲の切れ間から微かな陽光が差し込んでいる。
「人狼は、明日の満月を待っている。」
「だが私も待つつもりはない。」
そして彼は低く付け加えた。
「今度こそ守らなければならない。」
第三部 満月の夜
グレイヴズの検視を終えた後、ホームズは直ちにヴォルフラム館へ向かうよう求めた。
応接間へ通されると、エドワードは疲れ切った表情で現れた。
兄に続き、親しい知人までもが殺されたのである。
その顔色は蒼白だった。
「ホームズ氏。」
「また犠牲者が出たと聞きました。」
「ええ。」
ホームズは短く答えた。
そして前置きなく切り出す。
「エドワード卿。」
「はい。」
「何か君の身に起きていないか。」
エドワードは眉をひそめた。
「どういう意味です?」
「些細なことでも構わない。」
ホームズは鋭い視線を向けた。
「誰かから連絡を受けた。」
「奇妙な手紙が届いた。」
「誰かに呼び出された。」
「そういったことだ。」
エドワードの表情が変わった。
私はそれを見逃さなかった。
「何かあるのだね。」
ホームズが静かに言った。
しばらく沈黙が続く。
やがてエドワードは観念したように口を開いた。
「実は……。」
「今朝、部屋に手紙が届いていました。」
「手紙?」
私が思わず身を乗り出した。
エドワードは上着の内ポケットから折り畳まれた紙片を取り出した。
「クララの署名があります。」
ホームズは受け取り、目を走らせた。
そこには短くこう書かれていた。
今夜、旧聖マイケル教会跡でお会いしたいのです。
どうしてもお話ししなければならないことがあります。
誰にも知らせずお越しください。
クララ・ブラックウッド
私は思わず顔を上げた。
「旧教会跡だって?」
エドワードは頷いた。
「最初は断ろうと思いました。」
「ですがクララは兄の死以来、ほとんど部屋から出ておりません。」
「何か重大なことを知ったのではないかと……。」
ホームズはしばらく無言だった。
やがて静かに紙を畳む。
「その手紙が届いたのは今朝ですな。」
「ええ。」
「筆跡は間違いなくクララ嬢ですか。」
「私にはそう見えます。」
ホームズは再び沈黙した。
私は彼の横顔を見た。
その目は鋭く細められている。
何かが彼の中で確信へ変わったように見えた。
「ホームズ。」
私が声を掛ける。
彼はゆっくり頷いた。
「なるほど。」
それだけだった。
「何がなるほどなんだ?」
私は苛立って尋ねた。
ホームズは窓の外を見た。
雲の切れ間から淡い陽光が差している。
今夜、満月が昇る。
「ワトソン。」
低い声だった。
「人狼は待ち切れなくなったらしい。」
「何?」
「この手紙は狩人が獲物を誘き寄せるための餌だ。」
エドワードの顔から血の気が引いた。
「では……。」
「ああ。」
ホームズは頷いた。
「今夜、旧教会跡へ行こう。」
ホームズは手紙を机の上へ置いた。
しばらく無言で紙片を見つめていたが、やがて静かに顔を上げる。
「エドワード卿。」
「はい。」
「今夜、その呼び出しには応じてもらう。」
エドワードの顔が強張った。
「では、旧教会跡へ?」
「いや。」
ホームズは首を振った。
「君は館から一歩も出てはならない。」
エドワードは戸惑ったように私とホームズを見比べた。
「ですが、そのための呼び出しでは――」
「だからこそだ。」
ホームズは低く言った。
「犯人は君を旧教会跡へ誘き出したい。」
そう言って手紙を指先で軽く叩く。
「ならば、こちらも利用させてもらう。」
私はそこで彼の考えを察した。
「罠だな。」
「その通り。」
ホームズは頷いた。
「今夜、君は体調が優れないと周囲へ伝え、自室に籠もるのだ。」
「そして窓辺へランプを置き、三度点滅させてほしい。」
「それを合図に我々が動く。」
エドワードは不安げな表情を浮かべた。
「ですが、相手もそう簡単に騙されるでしょうか。」
「騙す必要はない。」
ホームズは静かに答えた。
「旧教会跡へ来る理由を与えれば十分だ。」
そう言うと机の便箋を引き寄せた。
ペンへインクを含ませる。
しばらく紙を走る音だけが部屋に響いた。
体調が優れず、昼の間は外へ出られません。
ですが、使用人たちが寝静まった後、
必ず旧教会跡へ参ります。
どうか誰にも知られぬようお願いいたします。
エドワード・ヴォルフラム
ホームズは最後の文字を書き終えると、静かにペンを置いた。
私は眉をひそめた。
「クララ嬢への返事か?」
「いや。」
ホームズの声は冷たかった。
「これは犯人への返事だ。」
私は思わず息を呑んだ。
エドワードの顔からも血の気が引く。
「では……クララは?」
「この手紙を書いてはいない。」
ホームズは即座に言った。
「少なくとも私はそう考えている。」
部屋に短い沈黙が落ちた。
窓の外では風が唸り、曇天の下でライカン・ムーアが灰色に広がっている。
「ホームズ。」
私は静かに尋ねた。
「君はもう犯人が誰なのか知っているんだな。」
ホームズはしばらく答えなかった。
やがて窓の外へ視線を向けたまま言う。
「ほぼな。」
「誰だ。」
「まだ言えん。」
彼はゆっくり首を振った。
「あと一つだけ確認したいことがある。」
そう言って立ち上がった。
その横顔には、私のよく知る表情が浮かんでいた。
真相へ手が届いた時のホームズの顔である。
「だが、それも今夜で終わる。」
灰色の瞳が鋭く光った。
「人狼は必ず現れる。」
「旧教会跡でな。」
私は無意識に窓の外を見た。
遠く荒野の彼方。
霧の向こうに、かつて人狼裁判の行われた丘が横たわっている。
今夜は満月だった。
百年前の亡霊が蘇るには、これ以上ない夜である。
ホームズは帽子を手に取った。
「ワトソン。」
「何だね。」
「今夜は拳銃を忘れないでくれ。」
その声音には微かな緊張が混じっていた。
「相手は追い詰められている。」
そして静かに言った。
「最も危険なのは、怪物ではなく追い詰められた人間だ。」
そうして彼は扉へ向かった。
「今夜で終わらせる。」
宿屋へ戻った我々は、満月の夜に備えて準備を始めた。
私は厚手の外套を羽織り、軍用リボルバーの弾倉を確かめる。窓の外では暮れゆくライカン・ムーアを風が吹き渡っていた。
今夜で全てが決まる。
そんな予感があった。
その時だった。
「ワトソン。」
振り返ると、ホームズが窓辺に立っていた。
灰色の空を見つめながら、静かな声で言う。
「ここから先は非常に危険なことになる。」
私は思わず笑った。
「今さらだな。」
だがホームズは笑わなかった。
「君を巻き込むのは気が引ける。」
そう言うと私の方へ向き直る。
「だが正直に言おう。私には君が必要だ。」
私はリボルバーを持ち上げて見せた。
「何を言っているんだ。」
「準備ならこの通りだ。」
「危険だというならなおさら付き合うさ。」
私は肩を竦めた。
「考えてみたまえ。君と一緒にやった冒険で、安全だったものの方が少ないじゃないか。」
ホームズの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「違いない。」
「それに君を一人で行かせれば、ろくなことにならん。」
「耳が痛いな。」
ホームズは小さく笑った。
そして静かに言った。
「ありがとう、我が友よ。」
しばし沈黙が流れた。
やがてホームズは窓辺から離れた。
「ひとつ話しておくべきことがある。」
「何だね。」
「私がヴォルフラム館への滞在を断った理由だ。」
私は頷いた。
「村人たちの生の声を聞くためだろう?」
「それも理由の一つだ。」
ホームズは静かに言った。
「だが、もう一つあった。」
その表情がわずかに険しくなる。
「私は当初から、犯人側の人間が我々を監視していると考えていた。」
「館の中にか?」
「そうだ。」
ホームズは頷く。
「館に滞在すれば、我々の行動は容易に知られてしまう。」
私は眉をひそめた。
「使用人の中に協力者がいると?」
「少なくとも、その可能性は排除できなかった。」
ホームズは続けた。
「もっとも、それだけではない。」
「どういう意味だ。」
「荒野にも目がある。」
私は顔を上げた。
「ジプシーか。」
「そうだ。」
ホームズは頷いた。
「もちろん大半は無関係だろう。」
「だが中には金で動く者もいる。」
「犯人はそうした連中を利用していた可能性がある。」
私はフェアチャイルド博士の話を思い出した。
荒野の南側にいるジプシーの野営地。
確かに彼らなら村にも館にも属さず、誰にも怪しまれずに動き回ることができる。
「なるほど。」
「我々が荒野を歩けば見られる。」
ホームズは続ける。
「どこを訪ねたか。」
「誰と会ったか。」
「何を調べていたか。」
「それらの情報が犯人へ伝わっていたとしても不思議ではない。」
私は思わず息を吐いた。
「つまり、我々はずっと見張られていたわけか。」
「その可能性は高い。」
ホームズは静かに答えた。
「だから今夜は正面から出ない。」
そう言って窓の留め金へ手をかけた。
金具が小さく音を立てる。
「エドワード殿のランプが三度点滅したら。」
「我々はこの窓から出る。」
「宿の玄関は使わない。」
「誰の目にも触れず旧教会跡へ向かう。」
私は窓の外を見た。
遠い荒野の彼方に、満月が昇ろうとしている。
百年前の人狼裁判が行われた夜と、同じ月であった。
そして、リボルバーの弾倉を最後にもう一度だけ確かめたのである。
どれほどの時間が過ぎただろう。
我々は明かりを落とした部屋の中で、ただ静かに窓の外を見つめていた。
時折、ホームズが懐中時計を確認する音だけが聞こえる。
私は落ち着かなかった。
これまで数々の事件を共にしてきたが、今夜ほど奇妙な気分になったことはない。
犯人はほぼ分かっている。
それなのに胸騒ぎが消えないのだ。
やがて雲の切れ間から満月が姿を現した。
青白い光がライカン・ムーアを照らし出す。
荒野はまるで幽霊の国のようだった。
霧が地面を這い、丘の輪郭を曖昧にしている。
白と黒だけで出来た世界だった。
その時だった。
「ホームズ!」
私は思わず声を上げた。
遠くヴォルフラム館の窓に灯りが現れたのである。
一度。
消える。
再び灯る。
そして三度目。
エドワードからの合図だった。
ホームズが素早く立ち上がる。
その灰色の瞳が鋭く光っていた。
「ワトソン。」
静かな声だった。
「出発だ。」
次の瞬間、ホームズは窓を押し開けた。
冷たい夜風が部屋へ流れ込む。
そして躊躇なく闇の中へ飛び降りた。
「相変わらず無茶をする男だ。」
私は呟きながら後に続いた。
地面へ降り立つと、夜の冷気が全身を包む。
月明かりのおかげで荒野は意外なほど明るかった。
しかし霧の濃い場所では数ヤード先すら見えない。
まるで何者かが身を潜めるために用意した舞台のようである。
我々は身を低くしながら進んだ。
ホームズの話では、犯人の協力者が我々を監視している可能性がある。
ヴォルフラム館の中だけではない。
荒野に野営するジプシーたちの中にも、金で雇われた者がいるかもしれないのだ。
少しでも姿を見られれば計画は失敗する。
風が唸る。
草が波のように揺れる。
私はリボルバーを握ったまま周囲へ神経を張り巡らせた。
その時だった。
前方の丘の上で何かが動いた。
私は反射的に立ち止まる。
月光の中に黒い影が浮かび上がっていた。
四足の獣である。
かなり大きい。
じっとこちらを見ている。
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
村人たちの言葉が脳裏をよぎる。
人狼。
満月。
荒野の怪物。
知らぬ間に私はリボルバーを構えようとしていた。
その瞬間。
「撃つな。」
ホームズの声が飛んだ。
低い。
だが鋭かった。
「ホームズ……。」
「大丈夫だ。」
彼は獣から目を離さなかった。
「こちらが何もしなければ寄っては来ない。」
私は息を殺した。
獣もまた動かない。
ただじっと我々を見つめている。
数秒だったのか。
数分だったのか。
私には分からなかった。
やがて獣は音もなく踵を返すと、丘の向こうの霧へ消えていった。
私はようやく息を吐いた。
「野犬か?」
「おそらくな。」
ホームズは短く答えた。
だが私は完全には安心できなかった。
今夜のライカン・ムーアには、どんな伝説も信じてしまいそうな雰囲気があったのである。
「行こう。」
ホームズが再び歩き出す。
我々は茂みと霧を利用しながら荒野を横切った。
満月は高く昇り続けている。
百年前の人狼裁判も、こんな夜だったのかもしれない。
そう思うと胸が高鳴った。
恐怖なのか。
興奮なのか。
自分でも分からない。
やがて霧の向こうに黒い影が浮かび上がった。
崩れた石塀。
半ば草に埋もれた土台。
人狼裁判の舞台となった場所。
旧聖マイケル教会跡である。
ホームズが足を止めた。
「着いたぞ。」
私は石塀の向こうに広がる闇を見つめた。
ここで全てが終わる。
そう思うと心臓が激しく脈打った。
犯人は現れるだろうか。
人狼の正体は。
そして我々は無事にこの荒野から帰れるのだろうか。
満月だけが静かに、その全てを見下ろしていた。
旧聖マイケル教会跡へ到着した我々は、崩れた石塀の陰へ身を潜めた。
幸い隠れる場所には事欠かない。
苔むした石積み。
草に埋もれた倒木。
人の背丈ほどに伸びた枯草。
百年にわたり放置された廃墟は、待ち伏せには格好の場所だった。
私は冷たい石塀へ身を寄せながら周囲を警戒した。
満月は高く昇り、荒野を青白く照らしている。
だが所々に霧が漂い、視界は決して良好ではない。
風が吹くたびに草が揺れ、そのたびに誰かが近づいて来たような錯覚を覚えた。
我々は息を潜めたまま待ち続けた。
時間の感覚が曖昧になる。
三十分だったのか。
一時間だったのか。
私には分からない。
聞こえるのは風の音だけだった。
その時である。
ホームズの手がわずかに動いた。
「来た。」
私は反射的に顔を上げた。
荒野の彼方。
霧の中に黒い影が浮かび上がっている。
ゆっくりと。
こちらへ向かって歩いてくる。
月明かりを浴びるにつれ、その異様な姿が見えてきた。
厚い獣の毛皮で作られた外套。
頭まですっぽり覆う深いフード。
そして右手には、月光を受けて鈍く光る巨大な鉤爪。
まるで獣の前脚そのものだった。
私は思わず息を呑んだ。
背筋を冷たいものが走る。
村人たちの噂。
遠吠え。
狼の足跡。
人狼裁判。
あらゆるものが脳裏を駆け巡った。
もし今、ライカン・ムーアに人狼が現れるとしたら、まさにこのような姿ではないだろうか。
知らぬうちに私はリボルバーを握り締めていた。
その影は旧教会跡の中央まで来ると立ち止まった。
そして辺りを見回す。
誰かを探しているようだった。
エドワードが現れるのを待っているのだ。
しばし静寂が流れる。
やがて、その人物はゆっくりと片手を上げた。
そして――
フードを脱いだ。
月光が顔を照らし出す。
私は愕然とした。
その顔を知っていたからである。
よく知っている人物だった。
誠実で。
穏やかで。
妹思いの青年。
私が、最も疑っていなかった男。
その男が、月明かりの下に立っていた。
「馬鹿な……。」
思わず声が漏れる。
ホームズは私の腕を静かに押さえた。
しかし、その視線は影から一瞬たりとも離れてはいなかった。
そこにいたのは――
アーサー・ブラックウッドだったのである。
思わず漏れた私の声に、その人物は鋭く反応した。
「誰だ!」
アーサーの怒声が荒野へ響く。
次の瞬間、ホームズは隠れていた石塀の陰からあっさりと姿を現した。
まるで最初からそうするつもりだったかのように。
「これはこれは、アーサー・ブラックウッド卿。」
ホームズは穏やかな声で言った。
「こんな夜更けに、このような場所で何をしておられるのです?」
アーサーはフードを脱ぎ捨てたままホームズを睨む。
「それはこちらの台詞だ。」
その声にはもはや普段の穏やかさはなかった。
「何故ここにいる。」
「簡単なことです。」
ホームズは微笑した。
「我々はエドワード卿から頼まれて参りました。」
「クララ嬢と会う約束だったものでね。」
私は石塀の陰から姿を現し、リボルバーを構えた。
「どういうことだ、アーサー!」
思わず叫ぶ。
「その格好は何だ!」
アーサーは私を見た。
月明かりの下、その顔は陰影に覆われている。
そして力なく笑った。
「……もう言い訳はできないようだな。」
次の瞬間だった。
アーサーの姿が消えたように見えた。
「ホームズ!」
私は叫んだ。
アーサーは獣のような速度で地面を蹴り、一気にホームズへ飛びかかったのである。
右手の巨大な鉤爪が月光を反射した。
だがホームズも予期していた。
紙一重だった。
鉤爪が顔面を裂く寸前、身を翻して攻撃をかわす。
爪が空を切る音が耳を打った。
私は息を呑んだ。
その動きは尋常ではない。
軍人でも拳闘家でもない。
まるで獲物へ飛びかかる猛獣だった。
月光の下に浮かび上がったアーサーの肉体は美しいほど鍛え上げられていた。
肩。
腕。
脚。
無駄な贅肉など一切ない。
長年荒野を駆け、狩りを続けてきた男の身体だった。
その姿は奇妙なほど迫力があり、私は一瞬見惚れそうになったほどである。
「ワトソン!」
ホームズの叫びで我に返った。
私は反射的に引き金を引く。
轟音が夜空へ響いた。
だが――
当たらない。
アーサーは体を捻り、信じ難い速さで弾道を外していた。
そして次の瞬間には、私の目前まで迫っていたのである。
「しまった!」
私はリボルバーを構え直そうとした。
だが遅かった。
鉄の鉤爪が閃く。
凄まじい衝撃。
私の手からリボルバーが弾き飛ばされた。
銃は月光を反射しながら地面を転がり、闇の中へ消えていく。
私は後退した。
アーサーはさらに一歩踏み込む。
その顔には凄絶な憎悪が浮かんでいた。
いや。
憎悪という言葉だけでは足りない。
百年分の怨念が、人の姿を借りて立っているようだった。
ホームズがこちらへ駆け出す。
「ワトソン!」
しかし間に合わない。
アーサーの鉤爪が高く振り上げられる。
月光を浴びた鉄爪が白く光った。
私は死を覚悟した。
その時だった。
銃声。
轟音が荒野を震わせた。
アーサーの身体が大きく揺らぐ。
肩口から血が噴き出した。
「ぐっ……!」
彼は数歩よろめき、凄まじい形相で振り返る。
その顔を見た私は戦慄した。
歯を剥き出し、
目は血走り、
憎悪に歪んだその表情は、
もはや人ではなかった。
まさしく伝説の人狼そのものだったのである。
私は思わず、その視線の先を見た。
丘の上に一人の男が立っていた。
長身。
ライフルを構えた黒い影。
月明かりが、その顔の古傷を照らし出す。
イーサン・クロウだった。
彼は銃口をアーサーへ向けたまま静かに言った。
「大丈夫か、探偵。」
イーサン・クロウはライフルを構えたまま丘を下りてきた。
銃口は微動だにせずアーサーを捉えている。
「大丈夫か、探偵。」
「ああ、助かった。」
ホームズが短く答える。
イーサンはアーサーから目を離さぬまま言った。
「ここ数日、ジプシーどもが妙な動きをしていてな。」
「妙な動き?」
私が尋ねる。
「夜になると荒野をうろつき回り、何かを探るような真似をしていた。」
イーサンは吐き捨てるように言った。
「だから見張っていたんだ。」
そして肩をすくめる。
「すると銃声が聞こえてきた。」
「来てみれば探偵が人狼に襲われていた。」
その鋭い視線がアーサーへ向けられた。
「こいつはどういうことだ。」
アーサーは肩の傷から血を流しながらも立ち上がる。
その眼には危険な光が宿っていた。
「イーサン・クロウ。」
低く唸るような声だった。
「お前はなぜ邪魔をする。」
アーサーが一歩前へ出る。
「お前も被害者のはずだ。」
「何?」
「百年前の人狼裁判。」
アーサーの声には異様な熱が宿っていた。
「ジョナス・クロウは無実だった。」
「お前の一族は人狼の汚名を着せられ、迫害され続けた。」
「ヴォルフラム家のせいでな。」
月光の下で鉤爪が鈍く光る。
「お前だって憎んでいるだろう!」
「だったら何故邪魔をする!」
イーサンは眉一つ動かさなかった。
「確かにな。」
静かな声だった。
「俺の先祖は殺された。」
「親父も祖父も酷い目に遭った。」
風が荒野を吹き抜ける。
「だが。」
イーサンの目が鋭くなる。
「だからといって人を殺していい理由にはならん。」
アーサーの顔が歪んだ。
「分からないのか!」
「この百年の怨念が!」
「ヴォルフラム家は狼だった!」
「奴らは裁かれなければならない!」
「そしてお前はそのために人狼になったのか。」
イーサンの声には軽蔑が混じっていた。
「馬鹿な真似をするな。」
「黙れ!」
アーサーが絶叫した。
「お前には分からん!」
「なら死ね!」
次の瞬間だった。
アーサーが地面を蹴る。
傷を負っているとは思えぬ速度だった。
まるで獲物に飛び掛かる狼のごとくイーサンへ襲い掛かる。
だが、その瞬間。
「今だ!」
ホームズが横から飛び込んだ。
全身を使った体当たりだった。
アーサーの身体が揺らぐ。
その隙を逃さずイーサンが組み付く。
「ぐぅっ!」
三人がもつれるように地面へ倒れ込んだ。
私は慌てて駆け寄る。
だがアーサーの力は尋常ではなかった。
怒りに駆られた猛獣そのものである。
彼はイーサンを振り払い、ホームズを突き飛ばした。
そして再び鉤爪を振り上げる。
狙いはホームズだった。
ホームズは即座に反応した。
半歩。
さらに半歩。
紙一重で攻撃をかわす。
鉤爪は空を切り、石塀へ深々と食い込んだ。
火花が散る。
しかしアーサーは止まらない。
再び飛び掛かる。
ホームズはかわす。
また飛び掛かる。
かわす。
まるで闘牛士のように。
だが長くは持たない。
私はそれを悟った。
ホームズの狙いは勝つことではなかった。
時間を稼ぐことだったのである。
その間に。
イーサンは立ち上がっていた。
ライフルを構える。
銃口がアーサーへ向けられる。
引き金へ指が掛かった。
あと一瞬。
本当にあと一瞬だった。
その時だった。
夜の荒野に、澄んだ声が響いた。
「お兄様!」
誰もが動きを止める。
その声は驚くほど美しかった。
そして悲しみに満ちていた。
「もうやめて!」
アーサーの身体が硬直する。
ゆっくりと振り返る。
月光の中に、一人の女性が立っていた。
黒い喪服が夜風に揺れている。
クララ・ブラックウッドだった。
アーサーの表情が凍り付いた。
「……クララ。」
かすれた声だった。
クララは震えながらも、一歩前へ進み出る。
夜風が喪服を揺らした。
「お願いです、お兄様。」
その声はか細かった。
だが、不思議なほど荒野によく響いた。
「お兄様はずっと私を守ってくださいました。」
クララは涙を堪えながら続ける。
「お父様が厳しかった時も。」
「私が泣いていた時も。」
「怖い夢を見た夜も。」
「いつだって、お兄様がいてくださいました。」
アーサーは何も言わなかった。
ただ立ち尽くしている。
「だから……。」
クララの声が震えた。
「もう誰も失いたくありません。」
月明かりが彼女の頬を伝う涙を照らしている。
「アレクサンダーも。」
「グレイヴズも。」
「もう十分です。」
荒野に静寂が落ちた。
クララは兄を真っ直ぐ見つめた。
「私は気付いていました。」
アーサーの肩がわずかに震える。
「あの夜。」
「荒野にいたのは、お兄様かもしれないと。」
「違うと信じたかった。」
「気付きたくなかった。」
彼女は唇を噛んだ。
「でも、お兄様があんなにもアレクサンダーとの結婚を嫌がっていたことを知っていました。」
「だから怖かった。」
「本当は分かってしまったのです。」
アーサーがゆっくりと目を閉じる。
「だから私は言えなかった。」
クララの瞳から涙が零れ落ちた。
「お兄様を失いたくなかったから。」
「私はグレイヴズにお願いしたのです。」
「お兄様を止めてほしいと。」
アーサーの顔が苦痛に歪んだ。
やがて低い声が漏れる。
「ああ……。」
その声には怒りとも悲しみともつかぬ感情が滲んでいた。
「あいつも同じことを言った。」
鉤爪を握る手に力が入る。
「ブラックウッド家の人間でありながら。」
「我々が受け継いだ百年の恨みを忘れろと。」
アーサーは吐き捨てるように言った。
「クララのためだと言った。」
「未来を見ろと言った。」
彼は首を振った。
まるで自分自身へ言い聞かせるように。
「だが無理だった。」
「お前には分からない。」
その瞳に再び狂気が宿る。
「私は知ってしまったんだ。」
「コンラート・ヴォルフラムが何をしたのか。」
「この土地で何が起きたのかを。」
声が次第に大きくなる。
「百年間、誰も裁かなかった!」
「誰も償わせなかった!」
彼は拳を握り締めた。
「この呪われた家を解き放つには、こうするしかなかった!」
「こうするしかなかったんだ!」
最後の叫びは、まるで自身を正当化しようとする悲鳴のようであった。
その姿を見つめながら、私は初めて理解した。
アーサー・ブラックウッドは生まれながらの怪物ではない。
百年の憎しみを背負い続けた末に、自ら人狼となってしまったのだと。
アーサーの叫びは荒野の夜空へ吸い込まれていった。
それは勝者の雄叫びではなかった。
憎しみを吐き出し続けた末に力尽きた者の、悲しい遠吠えのように私には聞こえた。
百年。
その長い歳月をかけて受け継がれた怨念。
アーサーはそれを背負い続けてきたのである。
やがて彼の手から鉤爪が滑り落ちた。
重い金属音が旧教会跡に響く。
アーサーはしばらく立ち尽くしていた。
月光がその横顔を照らしている。
先ほどまでの狂気は消えていた。
残っているのは、深い疲労と絶望だけだった。
そして彼はゆっくりと膝をついた。
「お兄様……」
クララが涙ながらに呟く。
アーサーは妹を見上げた。
その目はようやく長い悪夢から覚めた人間のようだった。
「すまない。」
かすれた声だった。
「私は……。」
しかし、その先の言葉は続かなかった。
その時だった。
遠くから怒号が聞こえてきたのである。
「こっちだ!」
「銃声はこの辺りだった!」
「急げ!」
複数のランタンの明かりが霧の向こうに現れた。
地元警察であった。
度重なる銃声を聞きつけ、村から駆けつけたのである。
先頭にいた警部が旧教会跡へ飛び込んできた。
そして目の前の光景に立ち尽くす。
月明かりの下。
血を流すアーサー。
構えられたライフル。
地面に転がる鉤爪。
そしてホームズ。
「これは一体……。」
警部は呆然と呟いた。
ホームズが静かに前へ出る。
「ご安心を。」
彼は冷静な口調で言った。
「人狼は捕まりました。」
警部は眉をひそめた。
「人狼?」
「ええ。」
ホームズはアーサーへ視線を向ける。
「少なくとも、村人たちがそう呼んでいたものは。」
警官たちは戸惑いつつもアーサーを取り囲んだ。
彼は抵抗しなかった。
ただ黙って座り込んでいる。
まるで全てを失った男だった。
「アーサー・ブラックウッド。」
警部が言った。
「アルフレッド・グレイヴズ殺害、およびアレクサンダー・ヴォルフラム殺害の容疑で逮捕する。」
アーサーは静かに目を閉じた。
そして力なく頷く。
「好きにしろ。」
警官たちが両腕を押さえる。
手錠の金属音が夜気の中へ響いた。
クララは両手で口元を押さえながら泣いていた。
アーサーはその姿を見る。
そして最後に小さく微笑んだ。
それは私がこれまで見てきた彼の中で、最も穏やかな表情だった。
「幸せになれ、クララ。」
妹は声にならぬ嗚咽を漏らした。
アーサーはそれ以上何も言わなかった。
やがて警官たちに連れられ、ゆっくりと歩き出す。
満月が彼の背を照らしていた。
百年前の怨念を背負った男は、静かにライカン・ムーアの闇の中へ消えていったのである。
エピローグ
数か月後のことである。
ライカン・ムーアから一通の手紙がベーカー街へ届いた。
差出人の名を見た私は思わず顔をほころばせた。
それはクララ・ブラックウッドからの手紙だった。
封を切る。
中には近況と共に、ある知らせが記されていた。
クララ・ブラックウッドとエドワード・ヴォルフラムの婚姻を報せるものである。
「ようやく良い知らせだな。」
私は嬉しくなって声を上げた。
ホームズは私から手紙を受け取ると、一通り目を通した。
そして微かに笑う。
「そうだな。」
「これで両家も和解するだろう。」
私が言うと、ホームズはパイプへ火を点けた。
しばらく煙を燻らせてから言う。
「そう単純でもあるまい。」
「どういう意味だね。」
「ブラックウッド家の実権を握るのはクララ嬢だ。」
私は首を傾げた。
ホームズは続ける。
「そしてヴォルフラム家の実権も、おそらくエドワード卿ではなく彼女が握ることになるだろう。」
「なるほど。」
私は苦笑した。
「つまり?」
ホームズは肩を竦める。
「ライカン・ムーアで最もしっかりしていた人物は、案外最初から彼女だったのかもしれん。」
「おいおい。」
私が抗議すると、ホームズは珍しく声を立てて笑った。
「女性というものは実にしたたかだよ、ワトソン。」
「少なくとも人狼よりはね。」
私もつられて笑った。
しばらく部屋には穏やかな空気が流れる。
暖炉の火が小さく鳴った。
ホームズは笑いを収めると、再び手紙へ視線を落とした。
私は窓の外を眺めながら、ライカン・ムーアで出会った人々のことを思い返していた。
エドワード。
クララ。
レジナルド。
グレイヴズ。
イーサン・クロウ。
そして、アーサー・ブラックウッド。
百年の憎しみに囚われた男。
もし生まれた時代や環境が違っていれば、彼もまた幸福な人生を歩めたのかもしれない。
私は静かに尋ねた。
「人狼など、結局いなかったのかね?」
ホームズはすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
ロンドンの曇った空の向こうへ、まるで遠い荒野を見ているかのようだった。
やがて静かに口を開く。
「いや、ワトソン。」
「狼はいたさ。」
私は顔を上げた。
ホームズはパイプを置く。
「ただ満月の夜に生まれるのではない。」
その灰色の瞳が、どこか悲しげに見えた。
「憎しみを手放せなくなった時に生まれるのだよ。」
それきりホームズは何も言わなかった。
私もまた黙っていた。
遠くライカン・ムーアでは、今も風が荒野を吹き抜けていることだろう。
だが、あの地を覆っていた百年の怨念は終わった。
少なくとも私はそう信じたい。
そして今でも、満月の夜に風の唸りを耳にするたび、私はあの事件を思い出すのである。
月光に照らされた荒野を。
霧の中を歩く影を。
そして、人狼よりも恐ろしいものが確かに存在したことを。




