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静けさを聞く骨董店  作者: 秋乃 よなが


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第二十三話 急須 ―静けさの記憶―


 翌朝の光は、どこか柔らかかった。

 同じ冬の朝なのに、昨日までとは違う。

 冷えた空気の中に薄い膜のような温度が混じり、店の奥へ静かに届いていく。

 胸の奥に残っていた痛みはほとんど消え、代わりに深いところで何かが静かに寄り添っている。


 私はいつものように棚を拭き、器の位置を少しずつ整えながら奥へと進む。

 手を動かしていると、ふと視界の端に見覚えのあるものが入った。


 ――急須。


 雨の仕入れの日。声を失い微動だにしなかった、あの急須。

 店の棚の端に置かれ、淡い陶器の色が、朝の光でぼんやりと浮かび上がっている。


 手を伸ばすと、陶器の感触は思ったより冷たかった。

 それでも、その冷たさはどこか呼吸を含んでいるように感じられた。


 あれから、随分いろんなモノの声を聞いた。

 すれ違う感情の響き、過去の記憶、誰かの祈り、失われた時間――

 そして昨日、私はようやく自分の声の反響に触れた。


 だからなのだろう。

 この沈黙が、もう怖くなかった。


 私は急須を持ち上げ、奥の作業台にそっと置く。

 湯を沸かし、静かに蓋を開けた。


 やってみよう。

 久しぶりに、急須に湯を注ぐだけのことだ。


 白い湯気が立ちのぼる。

 しゅっ、と呼吸のように細い霧が上へ昇り、冬の光の中で揺らめく。


 湯を注いだ瞬間、ことり、と音がした。


 小さな、小さな響き。

 ただ湯が落ちる音のはずなのに、どこか声のように聞こえる。


 耳を澄ますと、音の奥にかすかな揺らぎが混じっていた。

 水が陶器に触れて広がる波紋の音。

 その微細な揺らぎは、言葉の形を思わせるような揺らぎだった。


 それは急須が語っているわけではない。

 語らないまま静けさを守っている。

 けれど――胸の奥に、いくつもの記憶の音が重なっていく。


 ガラスのコップの淡い水音。

 帳簿の紙のめくれる気配。

 古いペンが語った、幼い頃の私の震える声。


 急須の沈黙に、世界のすべての声が吸い寄せられていくようだった。


 私はゆっくりと息をついた。


 湯気が、呼吸とともにふっと揺れる。

 その瞬間、胸の奥に小さな温かさが灯る。


 ――ああ。静けさって、こういうものなんだ。


 誰かの記憶が語りかけてくるものでもなく、モノの声に引き出されるものでもなく、ただそこに『在る』だけのもの。


 私は気づかぬうちに微笑んでいた。

 言葉も、涙も、痛みもいらない。

 ただ湯を注ぐ音を聞くだけで、胸の奥に温度が生まれるなんて、昔の私には想像もできなかった。


 湯をすべて注ぎ終えても、急須は沈黙したままだった。

 呼びかけても何も言わない。

 ただ、陶器らしい重みを静かに保っている。


 それでいい。

 語らないということが、こんなにも深くて、こんなにも満ちている。

 そう思えること自体が、私の中の変化なのだと分かっていた。


 急須を棚に戻すと、店の中に静かな余韻が広がった。

 湯気はもう薄れ、冬の光が白い影を落としている。


 静けさがすっと流れ、店全体が一つの呼吸をしたようだった。


 ◇◇◇


 翌朝。窓の外で風がかすかに吹いた。

 冷たいはずの空気が、少しだけ柔らかく肌に触れる。


 店に入ると、いつもの冬の朝のはずなのに、なぜか光が澄んで見えた。


 棚の端には、昨日と同じように急須が静かに置かれている。

 語らないまま、ただそこにいる。


 その存在が、不思議と安心を連れてきていた。


 私は棚を整えながら、ふと胸の奥を感じる。


 記憶は、声だけでできているわけではない。

 語らないこともまた、『一つの記憶』なのだと。


 急須は語らない。

 けれど、私の中には確かに音が残っている。


 ――静けさの音。


 私は静かに笑った。

 冬の光はゆっくりと店の奥まで届き、そのまま一日をやさしく照らし出していくようだった。


 急須は今日も語らない。

 けれど世界は、静かに満ちていた。


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