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静けさを聞く骨董店  作者: 秋乃 よなが


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第二十一話 ガラスのコップ ―始まりの水音―


 十二月上旬。夜の名残りをわずかに引きずったような朝だった。

 空は薄い灰色で、光はあるのにどこか硬く、冷えた鉄板を通して射し込むような冷たさがあった。

 店の扉を開けた瞬間、静けさが胸に落ちてくる。

 音が少し遠くなるような、世界が深呼吸を忘れたような空気だった。


 棚を軽く拭き、陶器の皿を並び替え、古びた引き出しの埃を払う。

 その動作はいつもと変わらない。

 けれど指先に触れる木の質感や、陶器の重みが、どこか薄くなったような気がする。

 自分と世界のあいだに、ひそやかな隙間ができたような感覚。


 そのとき、棚の端で、小さな光が揺れた。

 朝の光を受けてきらりと震えるそれは、小ぶりのガラスのコップだった。

 手のひらにすっぽり収まる大きさで、どこか不揃いな厚みをしている。

 吹きガラスで、戦後すぐの頃に作られたものだと先代の帳簿に書かれていた。


 透明――。

 その一言が、胸の奥のどこかをかすめた。


 取り上げると、ガラス越しに見える光がわずかに揺れ、まるで静かな水面を覗き込んでいるようだった。

『綺麗だな』と思いながら、私は奥の流しへ向かう。

 長く置かれていたせいか、ガラスの表面にうっすらと曇りがついている。


 蛇口をひねり、水を流す。

 コップの内側に水が触れた瞬間――音が変わった。


 ぽちゃん、と水が落ちる音に、何かがかすかに重なる。

 ただの反響ではない、小さな『息』のような揺らぎ。

 耳の奥で、水がそっと震えるような響き。


 手を止める。

 そのまま聴き入ると、かすかな音が混じっていた。


 ――歌。


 息の間にそっと挟まれるような、舌足らずの旋律。誰かが遠くで、ゆっくりと鼻歌を歌っているような。


 それに重なるように、小さな笑い声がした。

 言葉を知らない子どもの、ころころと弾む声。

 水音を揺らすように、明るく、短く、儚い。


 胸の奥がふっと熱くなる。

 これは、誰かの記憶の声だ。

 モノが語る声を聞き続けてきた私には、それがただの幻聴ではないとすぐに分かった。


 水をさらに注ぐ。

 すると、店の空気がふっと変わった。


 寒さの底に、一筋だけ温度の違う空気が入り込んだような――夏の午後の匂い。

 ガラスの向こうから、陽だまりが射し込むような気配がする。


 耳を澄ます。


 笑い声が、もう一度響いた。


 白い肌着の、小さな子ども。

 まだ歩くのもおぼつかなくて、下半身だけが太陽に照らされてきらきらしている。

 縁側のそばで、温かくなった洗面器の水を両手で叩いて遊んでいる。

 その度に水が弧を描くように飛び散り、光を弾いた。


 見たこともないはずなのに、その光景はまるで私の記憶のどこかを撫でるようだった。


 そばに座る母親が、ゆっくりと歌っている。

 言葉として聞こえるほど明瞭ではない。

 むしろ、歌というより息のリズムに近かった。

 けれどその響きは、耳の奥にすっと落ちてくる。


 懐かしい――そう思った。


 今まで聞いたことのない声だったのに。

 でも胸の奥の、ずっと奥のほうが反応した。

 まるで、自分の一部が呼び起こされるような感覚。


 気がつくと、視界が滲んでいた。

 涙を流す理由は分からなかった。

 ただ一つ確かなのは、この声が『どこにも戻れない時間』の音だということだ。


 言葉になる前の世界。

 何かを好きという前に、ただ笑うことしかできなかった頃の音。


 息を吸った瞬間、胸の奥で波が立つ。

 その波紋が広がるように、熱が零れはじめる。


 私は流し台の前で、静かに立ち尽くした。

 歌は、もうほとんど聞こえない。

 けれど、コップの縁に触れた指先だけが、どこか温かかった。


 そのまま静かに呼吸を整える。

 冬の朝のはずなのに、頬に触れる空気だけが、夏の縁側の記憶を引きずっている。

 胸の奥に生まれた波紋は、涙が落ちても止まらず、ずっと揺れ続けているようだった。


 こんな風に涙を流したのは、いつ以来だっただろう。

 誰かのために、誰かの声に触れて、涙を流すことはあった気がする。

 けれど、自分のために涙を落とした記憶は、思い返しても浮かばなかった。


 歌はやがて薄れ、子どもの笑い声も遠のいていった。

 静けさが戻ってくる。

 けれどそれは、さっきまでの寒さを含んだ静けさとは少し違っていた。

 どこか柔らかく、温度を持っている。

 静けさの中に、ほんの少しだけ水の揺れが残っているような。


 閉店時刻が近づく頃には、ガラスのコップはもう黙っていた。

 棚に戻す前に、布巾で丁寧に拭く。

 指先の動きは自然とゆっくりになり、まるでさっきまで聞こえていた歌の余韻をなぞるようだった。


「……また、明日」


 誰にともなく、そう呟く。

 モノの声は一晩限りだと知っているのに、どうしてかその一言がこぼれた。

 音として戻らないのなら、せめて今日のこの感覚だけでも持ち帰りたかった。


 店の明かりを落とし、戸締りをして、隣の自宅へ戻る。

 夜は冷え込んでいて、白い吐息が街灯に薄く溶けていく。

 けれど寒さはきつくなかった。

 身体のどこかに、まだあの夏の気配がかすかに残っていた。


 寝台に入る前、ふいに思う。


 ――私は、誰かに歌われたことがあっただろうか。


 思い返す記憶の中には、はっきりとした答えがない。

 ただ、子どもの頃に、言葉にならない安心の感触だけがぼんやりと残っている気がする。

 小さかった頃の私は、誰に抱かれ、誰の声を聞きながら眠ったのだろう。

 その記憶は曖昧で、ところどころ欠けている。

 でも、確かに誰かが私を揺らし、息のリズムで包んでくれたはずだ。


 そう考えると、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 涙ではない、もっと静かな温度。

 まるで一枚の布をそっと肩に掛けられたような、柔らかさ。


 眠りにつく頃には、あのコップの水音がかすかに耳に残っていた。

 透明で、澄んでいて、短い音。

 でもそれは、確かに『始まりの音』だった。


 ◇◇◇


 翌朝。店に入ると、冬の空気が頬に触れた。

 けれど昨日より冷たくない。

 冷気の中にわずかに混じる柔らかさを、身体のどこかが迷わず感じ取っている。


 棚の端に置いたガラスのコップを手に取る。

 透明で、澄み切っていて、どこにも曇りがない。

 もう、何の声も発していなかった。


 しかし、不思議と寂しさはなかった。

 コップの沈黙を、自然に受け止められる自分がいた。


 指先でコップの縁をそっとなぞる。

 その瞬間、胸の奥がふわりと揺れた。

 水がほんの少し波打つような、さざめく気配。


 ――まだ、何かがそこにある。


 そう感じられたのは、コップが語りかけているからではない。

 きっと、昨日の記憶が、自分の中に留まっているからだ。

 モノの声が消えても、音は私の内側で続いている。


 透明なガラスは光を受け、静かにきらりと揺れた。

 その揺らぎは、見慣れた冬の店内をわずかに柔らかく照らした。


 世界が、少しだけ明るく見える。


 ほんの一滴の水が落ちるように、小さな変化だった。

 けれど、確かに『反転』の気配があった。

 聞くことでしか世界を受け取れなかった私の中に、別の方向へ向かう流れが生まれ始めている。


 棚にコップを戻しながら、私は静かに息を吸った。

 冬の冷たい空気は、昨日よりも澄んでいるように思えた。


 ――世界はまだ、静かだ。

 けれど、その静けさの底に、確かに一つの音がある。


 小さなコップの、水の揺れる気配。

 その記憶は、今日も胸の奥でさざ波のように広がっていた。


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