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静けさを聞く骨董店  作者: 秋乃 よなが


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19/25

第十九話 桐箪笥 ―眠りの香り―

 

 十一月も終わりに近づくと、冷え方が変わる。

 空気の底に氷の気配が混ざり、朝の光まで少し硬く見えた。


 格子窓は閉じたまま。

 それでも、木の隙間から忍び込む冷気が、畳の上を細く這っていく。

 息をするたび、胸の奥まで冷たさが入り込み、ゆっくりと身体の内側に沈んでいった。


 棚の埃を払ったあと、奥に積まれた古い木箱の位置を少しだけ変えた。

 そのとき、指先が別の木に触れる。

 他とは違う、軽いのに芯のある感触。


 布をめくると、小ぶりの桐箪笥が一つ、ひっそりと置かれていた。

 引き出しが三つ。金具は鈍く光り、木目には白い筋が柔らかく走っている。

 ところどころに、小さな傷があった。

 大事に使われながらも、日々の手が触れ続けた跡のように。


 手のひらで表面を撫でる。

 桐は驚くほど冷たくなかった。

 薄く、乾いた温もりが返ってくる。

 閉ざされた箱の中に、まだ何かが眠っているのだと、触れただけで分かった。


 帳簿を開き、筆を取る。


 ――十一月二十九日 桐箪笥。


 書き終えたとき、引き出しの一つが、かすかに前へずれた。

 誰も触れていないのに、金具がきゅ、と鳴る。

 息を呑み、両手でそっと取っ手をつまんで引いた。


 ふわり、と。

 冷えた空気の中に、違う季節の色が混じった。


 古い香水の匂いだった。


 花と果実のあいだのような甘さ。

 少し粉を含んだ柔らかさ。

 長い時間を眠っていたはずなのに、驚くほど鮮やかな香りが、引き出しの奥から立ちのぼる。


 思わず目を閉じる。

 匂いが瞼の裏まで入り込んで、頭の中の輪郭を静かに塗り替えていく。

 店の木の匂いも、紙の乾いた匂いも、一瞬だけ遠ざかった。


 引き出しの中には、薄い布が几帳面に畳まれていた。

 淡い色の襟布、レースの端が少し黄ばんだハンカチ、空になった小瓶。

 瓶の口に鼻を近づけると、また同じ香りがした。

 時間をまとった甘さが、ゆっくりと喉に降りてくる。


 そのときだった。


 《……ああ、この匂いだ》


 声がした。

 思わず引き出しを閉めそうになったが、手は動かなかった。

 低く、少し掠れた男性の声。

 年を重ねた人の響きなのに、どこか少年のような照れが混じっている。


 私は帳簿の余白に、震える手で記す。


 ――声、あり。男性。高齢。甘さを帯びる。


 《朝な、出かける前に、あの人が必ずここを開けていた。

 季節で匂いを変えるわけでもないのに、同じ瓶を大事に大事に使うんだ

 指先にちょっとつけて、それから襟元に一撫で。

 よく見たら、そんなに変わらないのに……毎朝、世界が少しだけ違って見えた》


 香りが、少し濃くなる。

 店の隅々まで、そっと染み込んでいく。

 閉ざされた窓の向こうまで届きそうなほど、静かで、強い匂いだった。


 《あの人が倒れてからも、箪笥はこのまま残した。

 服は少しずつ整理した。

 でも、この引き出しだけは、どうしても触れられなかった》


 桐の木目が、ろうそくも点けていないのに、光を宿したように見えた。

 引き出しの奥で、布と瓶の隙間に、誰かの息遣いが残っている。


 《夜中にな、布団から抜け出して、こっそりここを開けるんだ。

 灯りは点けない。真っ暗なままだ。

 息を殺して、少しだけ引き出しを動かす。

 そうすると、部屋の中が急にあの人でいっぱいになる》


 男性の声が、ふっと笑う。

 けれど、その笑いには涙の重みが混じっていた。


 《声も姿も、だんだん分からなくなる。

 写真を見ても、紙の上の人にしか見えない夜もあった。

 でも、この匂いだけは、変わらなかった》


 香りが、一層はっきりとした輪郭を持ち始める。

 鼻先だけでなく、喉、胸、指先の間まで、その甘さが絡みついてくる。

 私は息を吸うことすら躊躇われた。吸えば、誰かの居場所を奪ってしまう気がした。


 《ある晩に気づいた。

 ――ああ、私は、匂いの中でだけ、あの人の手を握っているのだと》


 引き出しの取っ手が、わずかに震える。

 木の感触の奥から、別の体温がこちらへ滲み出てくる。

 それは、過去のもののはずなのに、やけに今の皮膚に馴染んだ。


 《歳を取るとな、思い出も薄くなる。

 悔しいぐらい、忘れていく。

 それなのに、この匂いだけは裏切らん。

 朝、誰もいない部屋で、引き出しを開ける。

 それだけで、『おはよう』って言われた気がした》


 声が、少し遠くなる。

 香りは逆に強くなった。

 店の壁も、床も、置かれた品々も、みなこの匂いを纏っているように思えた。


 《でもな。ある日、どうしても開けられない朝が来た。

 手が震えるとかじゃない。

 ただ、ここを開けたら、もう自分が生きている時間の方が、あの人と一緒にいた時間より長くなってしまったと、はっきりする気がして》


 静かな沈黙が落ちる。

 香りだけが残っている。

 音よりも、光よりも、はっきりした存在感を持って。


 《それでも、匂いは残った。

 戸を閉めても、窓を閉めても。

 たまに風が動くと、部屋の隅からふっとこぼれてくる》


 私は思わず、店の中を見回した。

 棚の上、格子窓の前、帳簿の紙の隙間。

 どこかを見ても、薄く香りが揺れている。


 自分の着物の袖を鼻に寄せると、そこにも同じ匂いが移っていた。

 いつの間にか、静庵堂そのものが誰かの部屋になってしまったようだった。


 《香りは、消えたと思っても、どこかに眠っている。

 それを起こすのは、いつも誰かだ。

 ……今、ここで、こうして》


 声が、かすかに笑う。

 その笑いは、遠くの部屋から聞こえてくるようでいて、耳のすぐそばにもあった。


 《……名前を、呼んでやってくれんか》


 名前?

 誰の?


 胸の奥に、何かが引っ掛かる。

 喉の奥がじり、と熱くなる。

 香りが、そこに指先を差し込んで、言葉の形を探るようだった。


 何も考えていなかった。

 それなのに、唇が勝手に動いた。


「……か、しわ……ぎ、さん……?」


 自分の声が、見慣れない響きになって耳に返ってきた。

 店の中で、その名が一つ、淡く震える。

 桐箪笥の中の香りが、それに応えるようにかすかに揺らいだ。


 どうしてその名前を言ったのか、分からなかった。

 この箪笥の持ち主とは、きっと別の人のはずだ。

 それでも、舌の上に乗ったのは、その名前だった。


 《……そうか》


 男性の声が、満足そうに、一息ついた。

 その吐息に混じって、香りが一段と甘くなる。


 《誰に向けた名前でもいい。

 今、ここで誰かの名を呼んでくれた。

 それで、もう十分だ》


 ふっと、肩から力が抜けた気がした。

 支えを失ったわけではない。

 むしろ逆だった。

 よく知っているはずの店の空気が、初めて『他人ごとではない』と告げてきたような、妙な心細さと安堵が同時に押し寄せてきた。


 帳簿を開く。

 余白に、いつも通り筆を走らせる。


 ――今夜の声、柔らか。香、眠りの中に息づく。


 書いた瞬間、墨の匂いに、ほんのわずかに香水の甘さが混じった。

 紙そのものが、この部屋の空気を吸い込んだようだった。


 どのくらいのあいだ、そうしていただろう。

 気づけば、ろうそくの火は短くなり、炎の輪が小さく締まっていた。


 香りは、まだ濃い。

 店の隅々まで満ちている。

 息を吸うたび、誰かの気配が肺の奥へ降りてくる。


 洗面で顔を洗っても、手を何度こすっても、匂いは落ちなかった。

 指のあいだに、髪に、着物の襟に、しつこく絡みついて離れない。


 寝台に入っても、香りは消えなかった。

 目を閉じれば、薄暗い部屋の中で、開け放たれた箪笥の引き出しが見える気がした。

 そこから流れる香りが、店と私の輪郭をゆっくりと曖昧にしていく。


 ――誰かを失ったあとも、香りだけが残る。


 そう呟いたような気がした。

 けれど、それが自分の声だったのか、男性の声の残響だったのか、もう判別がつかなかった。


 ◇◇◇


 朝。目を覚ますと、世界が少し色を失っていた。

 光は射している。

 冷たい空気が、いつも通り、木の隙間から忍び込んでくる。

 けれど、何かが決定的に違っていた。


 ――香りが、ない。


 枕元で袖を嗅いでも、髪を掻き上げても、もう何も感じない。

 床を歩き、棚の間を抜け、桐箪笥の前に立つ。

 引き出しは、昨夜と同じようにわずかに開いている。

 布も小瓶も、そのままそこにある。


 しかし、匂いだけが跡形もなく消えていた。


 鼻を近づけても、深く息を吸い込んでも、木と布と、わずかな埃の匂いしかしない。

 まるで、長い夢のあとに残る、温度だけを触ったようだった


 帳簿を開く。

 昨夜書いた文字の上に、薄い輪郭が浮かんでいた。


 ――香。


 墨ではない。

 光の加減で紙の繊維が形を取っただけとも見える。

 それでも、そこに確かに『香』があった。


 私は筆を取り、余白に静かに書き足す。


 ――静けさとは、香りの去ったあとに残る気配。


 書き終えると、筆先から落ちた墨が、小さな楕円になって紙に染み込んだ。

 その形が、一つの引き出しのようにも、誰かの胸の中で閉じられた場所のようにも見えた。


 店の中を見渡す。

 昨夜まで満ちていたはずの甘さは、どこにもない。

 それでも、空気だけが、ほんのわずか柔らかくなった気がした。


 ――名前を呼んでしまった。


 声に出さず、心の中で、もう一度その名をなぞる。

 柏木、という音の形が、舌の裏に鈍く残っていた。


 香りは完全に消えた。

 けれど、その名だけが、私の中に淡く残っている。


 静けさが、また一つ、眠りの底から何かを連れてきたのだと、遅れて気づいた。


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