第八章:目覚めの涙、四百年の静寂を越えて
「……はぁ、はぁっ……!」
令和の東京。
狭く散らかったワンルームマンションの一室で、権藤勝利は、飛び起きると同時に激しく咳き込みました。
喉の奥には、今なお熱い煙がこびりついているような錯覚があり、全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れています。
窓の外からは、深夜の国道を走る車の走行音と、遠くで鳴る救急車のサイレンが、現実の音として鼓膜を叩きました。
「また、あの夢か……」
勝利は震える手で眼鏡を探り当て、それをかけると、滲んだ涙を乱暴に拭いました。
歴史オタクの大学生である彼は、幼い頃から、自分が燃え盛る城の中で、誰よりも大切な女性をその手で手に掛けるという、あまりに凄絶な悪夢にうなされ続けてきたのです。
その夢の終わりには、いつも、自分の心臓を抉り取るような凄まじい「欠落感」だけが、冷たい澱のように胸の底に残るのでした。
翌日。
勝利は、重い体を引きずるようにして、イベント設営のアルバイト先である渋谷のスクランブル交差点へと向かいました。
人混みのなか、色とりどりの広告看板が発する暴力的なほどの光。
その喧騒のなかで、彼は不意に、鼻先をかすめた香りに足を止めました。
排気ガスの匂いが充満する街角で、そこだけが凪いだように漂う、凛として、それでいてどこか懐かしい「白檀」の香り——。
「……あ」
次の瞬間、勝利の大きな体は、向こうから歩いてきた一人の女性と、激しく衝突しました。
「ちょっ、痛っ! ちょっとあんた、どこ見て歩いてんのよ!」
鋭い、けれど鈴を転がすような高く澄んだ声。
目の前に立っていたのは、派手なブランドもののバッグを抱え、流行りのミニスカートに身を包んだ、いかにも「イケイケ」な雰囲気の女子大生、小田壱伽でした。
勝利は、あまりの衝撃と緊張に、足が縺れてその場に派手にひっくり返りました。
「 あ、いや、すみません! お怪我は、お怪我はございませんか!?」
地べたに這いつくばりながら、必死に頭を下げる勝利。
そのあまりに時代錯誤な必死さと、大男が縮こまって謝る滑稽な姿に、壱伽は怒るのも忘れ、ふっと、その赤い唇を綻ばせました。
「ぷっ……あはは! 何その謝り方。江戸時代からタイムスリップでもしてきたわけ?」
壱伽は、しゃがみ込むと、勝利の鼻先に自分の顔を近づけました。
その瞬間、勝利の脳裏を、燃え盛る城の中で微笑んでいた「あの人」の面影が、閃光のように駆け抜けます。
目の前にいる女性は、見た目こそ派手で今どきの女の子ですが、その瞳の奥にある、すべてを包み込むような「母性」にも似た深い光は、記憶の底に眠るあの人と、あまりに酷似していたのです。
「ちょっと、あんた鼻血出てるわよ。もう、本当にどんくさいんだから」
壱伽は呆れたように溜息をつくと、バッグから真っ赤な紅絹を思わせる色のハンカチを取り出し、勝利の鼻元を、そっと、優しく拭い取ってくれました。
「……市、様……?」
「は? 何それ。私の名前、壱伽だけど。……あんた、名前は?」
「……権藤、勝利……です」
「ゴンちゃんね。覚えたわ。あんた、放っておくとなんか危なっかしくて見てらんない。ほら、立ちなさい。ネクタイ、曲がってるわよ」
壱伽は、当然のように勝利の襟元に手を伸ばし、グイッとネクタイを締め直しました。
四百年前、北ノ庄の雪の中で、あるいは落城の間際で、何度も何度も繰り返された、あの至福の光景。
勝利は、現代の渋谷のど真ん中で、溢れ出しそうになる涙を必死に堪えながら、自分を見上げる彼女の瞳を見つめ返しました。
今度は、城は燃えていない。
今度は、彼女の手を血で染めることもない。
「死」という名の凄惨な儀式を経て、灰となって溶け合った二人の魂が、今、現代の光の中で再び、新しい鼓動を刻み始めたのでございました。




