第六章:敗残の鬼、最果ての雪に哭(な)く
賤ヶ岳の戦火を辛うじて逃れ、北ノ庄城へと辿り着いた勝家様の姿は、もはや「鬼柴田」と謳われた面影など、微塵もございませんでした。
煤にまみれ、返り血で黒ずんだ甲冑は無惨にひび割れ、引きずる槍の先は、主の心と同じように折れ曲がっております。城門をくぐる足取りは泥のように重く、その背中には、討ち死にした数多の将兵の怨嗟と、織田家を滅ぼしゆく己の無能さが、目に見えぬ重石となってのしかかっておりました。
奥御殿の静寂のなか、お市様はただ一人、薄暗い灯影の下で勝家様を待っておられました。
扉が開き、血の匂いと死の冷気を纏った勝家様がなだれ込んできた瞬間、お市様はその目を見開きました。そこにいたのは、かつて自分を笑わせようと道化を演じていた、あの不器用で愛おしい殿方ではございません。
ただ、己の「業」に焼き尽くされ、魂の抜け殻となった、一人の老いた敗残兵でございました。
「……市、すまぬ。すまぬ、市……っ」
勝家様は、お市様の足元に崩れ落ち、泥と血に汚れた額を畳に擦り付けました。
その大きな肩は、まるで真冬の小鳥のように激しく震え、喉の奥からは、獣の呻きとも、赤子の泣き声ともつかぬ、無惨な慟哭が漏れ出します。
「わたくしは、またお前を……。お前に、安らぎを、まことの春を捧げると誓いながら、結局はこの腕で、お前を地獄の業火へと引き摺り込むことしかできなんだ……! わたくしは、鬼ではない。ただの、無能な、薄汚れた人殺しに過ぎぬのだ……!」
勝家様は、己の節くれ立った大きな拳で、何度も何度も畳を打ち付けました。
自らの拳が割れ、血が滲んでも、その痛みなど、心の奥底で渦巻く「絶望」という名の劇薬に比べれば、微かな痺れにさえなりませんでした。
愛する人を、二度までも落城の悲劇に突き落とす。その事実が、勝家様の五臓六腑を、冷たい刃でじわじわと抉り取ってゆくのでございます。
お市様は、その勝家様の荒れ果てた頭を、そっと、絹のように柔らかな掌で包み込みました。
その指先から伝わる感触は、どこまでも温かく、それゆえに勝家様にとっては、どんな刃よりも鋭く、その胸を切り刻む「残酷な慈愛」でございました。
「勝家様。もう、よいのです。……もう、十分でございます」
お市様の声は、驚くほど低く、凪いだ海のように静かでした。
けれどその瞳の奥には、光を失った深い淵のような絶望が、どこまでも、どこまでも暗く沈んでおりました。彼女は悟ったのでございます。自分の人生は、愛する男たちが作り上げる、この戦国という名の巨大な墓標を飾るための、一輪の花に過ぎなかったのだと。
「わたくしも、疲れ果てました。兄が去り、長政殿が去り……。そして今、あなたと共にこの地で朽ち果てることこそが、わたくしに許された、唯一の結末なのでございましょう」
市様は、勝家様の顔を無理やり引き上げ、その涙と泥にまみれた瞳を、逃さぬようにじっと見つめました。
そこには、救いも、希望も、明日への光もございません。
あるのは、二人で共に「死」という名の暗闇へ、真っ逆さまに堕ちてゆくことへの、狂おしいほどの覚悟だけでございました。
「殿、わたくしを……今度こそ、最後まで離さないでくださいませ。火の中でも、煙の中でも、あなたのその無骨な腕で、わたくしを、わたくしの魂を……骨まで焼き尽くすほど、強く、強く、抱きしめてくださいませ」
お市様の白い首筋に、勝家様の震える唇が触れました。
それは、かつて越前の雪の中で交わしたような、甘く溶けるような口づけではございません。
互いの「不幸」を啜り合い、間もなく訪れる終わりを、一秒ごとに噛み締めるような、あまりに冷たく、あまりに凄絶な死の契り。
外では、秀吉の軍勢が城を囲み、勝ち鬨の声が地平を埋め尽くそうとしておりました。
しかし、この閉ざされた空間には、ただ二人、互いの絶望の拍動だけを頼りに、奈落の底へと静かに沈んでゆく、世界で最も孤独で、最も惨めな、そして最も美しい純愛の物語でございます。




