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今度は畳の上で笑い合おう〜戦国の業火を越えて二人の魂が辿り着いた約束の地〜  作者: 桐生宇優


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第五章:嵐の前奏曲、背中を支える「織田の血」

書いて北ノ庄の春は、雪解けの音と共に、不穏な報せを運んでまいりました。


羽柴秀吉——。


かつて勝家様が「猿」と呼び、軽んじていたあの男が、織田家の実権をその掌に収めようと、着々と牙を剥き始めていたのでございます。


ある夜、勝家様は書斎で独り、秀吉からの挑発的な書状を前に、苦虫を噛み潰したような顔をしておられました。


「……猿め。知恵が回るだけの男と思っていたが、これほどまでに……」


勝家様の大きな拳が、無意識のうちに机を叩きます。その振動で、置かれていた筆立てが倒れ、墨が畳にこぼれ落ちました。


「お、おおっ、いかん! またやってしまった……!」


慌てて袖で墨を拭おうとし、逆に自分の白装束を真っ黒に汚してしまう勝家様。

戦場では冷静沈着な指揮を執る猛将が、未来への不安と、己の不器用さに苛まれ、まるで迷子の子供のように狼狽えておられました。


「勝家様、そんなに慌てては、墨が涙に見えてしまいますよ」


静かな声と共に、市様が部屋に入ってこられました。


その手には、温かな茶の香りが漂う盆が捧げられております。市様は、汚れきった勝家様の袖を、嫌な顔ひとつせず自身の懐紙でそっと押さえ、墨を吸い取ってゆかれました。


「市……すまぬ。わたくしは、戦以外のこととなると、どうにも……」


勝家様は、深く溜息をつき、項垂れました。


その広い肩が、心なしか小さく震えているのを、市様の聡明な瞳は見逃しませんでした。


「勝家様。あなたは今、秀吉殿の影に怯えておいでですか? それとも、わたくしをまた失うことを恐れておいでですか?」


市様の言葉は、研ぎ澄まされた懐剣のように、勝家様の心の深奥を貫きました。


勝家様は言葉を失い、ただじっと自分の膝を見つめるばかり。そんな彼を、市様はそっと正面から抱き寄せ、その大きな頭を自らの胸に預けられたのです。


「……市、わたくしは……お前を幸せにすると誓った。だが、わたくしの武骨な槍では、あの猿の奸計を貫くことはできぬかもしれぬ。お前をまた、あの日のような悲劇に……」


勝家様の弱音を、市様は力強く、けれどどこまでも柔らかな手つきで遮りました。


「勝家様、お顔をお上げなさい。あなたは、誰よりも真っ直ぐで、誰よりも嘘のつけぬ、日本一の武士もののふでございます。わたくしが選んだのは、天下を操る猿ではなく、不器用なまでに信義を貫く、この柴田権六という男にございます」


市様の瞳には、かつての兄・信長公を彷彿とさせる、激しくも美しい光が宿っておりました。


「もし、この北ノ庄が、あなたの誠の果てに灰になるというのなら、わたくしも共に灰になりましょう。それが『織田の女』としての誇りであり、あなたの妻としての、わたくしの至上の幸せにございます。……ですから、殿。どうか堂々と、あなたの信じる道をお進みくださいませ。わたくしが、最後まであなたの背中を支えておりますゆえ」


市様は、勝家様の頬を両手で包み込み、母親が我が子の勇気を奮い立たせるように、その額に優しく唇を寄せられました。


その刹那、勝家様の胸の内に渦巻いていた迷いの霧が、嘘のように晴れ渡ってゆくのでございました。


「市……お前は、本当に……わたくしには勿体ない妻だ」


勝家様は、再びその瞳に「鬼」の灯を宿し、けれど市様を抱きしめる腕だけは、壊れ物に触れるような優しさを保ったまま、力強く頷かれました。

外では、嵐を予感させる風が城壁を叩き始めておりました。


しかし、この部屋の中にあるのは、死さえも恐れぬ、あまりに深く、あまりに気高い夫婦の絆。


この時の市様の「強さ」こそが、四百年後の現代において、再び勝家様の心を引き上げ、二人の運命をハッピーエンドへと導く最後の鍵となるとは、まだ、夜の静寂だけが知る物語でございました。

史実解説

第五章をお読みいただき、ありがとうございます。

物語の幕引きは、戦国史上でも類を見ないほど凄絶で、そして美しく切ない「北ノ庄城の最期」でした。軍事・戦略的な視点、そして人間ドラマとしての史実を深掘りします。

1. 賤ヶしずがたけの戦い:天才・秀吉の「美濃大返し」

軍事的に見れば、この戦いの勝敗を分けたのは羽柴秀吉の圧倒的な「機動力」でした。

勝家軍の猛将・佐久間盛政の突出を突いた秀吉は、大垣から木之本まで、約52kmもの距離をわずか5時間で駆け抜けるという、驚異的な進軍(美濃大返し)を成功させました。雪解けの北陸道は、勝家にとっての生命線であるはずが、秀吉のスピードによって「退路を断つ罠」へと変貌してしまったのです。

2. 前田利家の離脱:崩れ去る織田旧臣の絆

勝家にとって最も痛恨だったのは、長年の戦友であり、信頼していた前田利家の戦線離脱でした。

軍事的なパワーバランスが崩れた瞬間、勝家は自らの敗北を悟ります。しかし、彼は利家を責めることなく、逆に「秀吉と仲良くして生き残れ」と励ましたと伝えられています。この潔さこそが、多くの武士たちに慕われた「親父様おやじさま」こと、柴田勝家の真骨頂でした。

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