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今度は畳の上で笑い合おう〜戦国の業火を越えて二人の魂が辿り着いた約束の地〜  作者: 桐生宇優


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第四章:北ノ庄の深雪、温もりに溶ける契り

挿絵(By みてみん)

小谷を包んだあの忌まわしき紅蓮の炎が、ようやく灰色の煙へと姿を変え、近江の空に溶けて消えたあの日。


勝家の大きな掌が、煙に巻かれ、命の灯火ともしびが消えかけていたお市様の細い肩を抱き寄せたとき、その手は戦場いくさば数多あまたの敵をほふってきた猛将のものとは思えぬほど、繊細せんさいな震えを帯びておりました。


焼け落ちる城壁の爆ぜる音と、愛する夫を失った彼女の悲痛な沈黙だけが、二人の間に横たわっておりました。


それから、九年の歳月さいげつが流れました。

お市様は、三人の娘たちと共に尾張の清洲きよす城の片隅で、まるで深い霧の底に沈んだかのように、静かで、色のない日々を過ごしておられました。


一方、勝家は主君・信長公の命を受け、北国・越前えちぜんの地を切り拓く日々。冬になればすべてを白銀しろがねに閉ざす北陸の厳しい雪は、勝家の胸に積もり続ける「あの夜の火傷やけど」を、冷たくやしてゆくかのようでございました。


しかし、天正十年の夏。


本能寺の変という、もとを揺るがす大音だいおんと共に、運命の歯車が再び、狂おしく回り始めます。


信長公を失った織田家の行方を決める「清洲会議」の喧騒けんそうの中で、勝家が求めたのは、広大な領地でも、権力の座でもございませんでした。


ただ一人、あの日の炎から救い出しながらも、触れることさえ許されなかった「月」を、今度こそ自らの手で守り抜くこと――。


「市様、不肖ふしょう・勝家、この余生よせいを懸けて……貴女あなたたてとなりましょう」


不惑ふわくを過ぎ、白髪しらがの混じり始めた勝家が、再びお市様の前で膝をついたとき、その瞳にはかつての道化の光ではなく、すべてを包み込むような、深淵しんえんたる慈愛が宿っておりました。お市様もまた、九年の孤独の果てに、その節くれ立った勝家の掌に、自らの白い指先をそっと重ねられたのでございます。


二人が向かった先は、北国の新天地、北ノ庄。

そこには、勝家が精魂せいこん込めて築き上げた、九層くそうの天守がそびえ立つ壮麗そうれいな城が待っておりました。


北ノ庄の冬は厳しく、ともすれば心まで凍てつかせてしまいそうな寒さでございましたが、城の一角にある二人の寝所しんじょだけは、まるで常夏とこなつの陽だまりのように、柔らかな白檀びゃくだんの香りと、穏やかな笑い声に満たされておりました。


勝家は、市様が好まれる甘い菓子をどこからか取り寄せ、市様は、勝家が戦で負った古傷に、そっと薬を塗り込む。それは、なまぐさい戦国という時代の隙間に奇跡のように咲いた、あまりに儚く、あまりに愛おしい、夫婦めおととしてのまことの春でございました。


けれど、城門を叩く風の音は、刻一刻と、不穏ふおんひづめの響きへと変わってゆきます。


賤ヶしずがたけの戦。そして羽柴秀吉という新たな影が、この小さな陽だまりを、再び業火ごうかで焼き尽くそうと、すぐそこまで迫っていたのでございます――。


越前の冬は、すべてを白銀の沈黙へと誘う、厳しくも美しい季節でございました。


窓の外では、天から舞い落ちる大粒の雪が、北ノ庄城の瓦を、石垣を、そして人々の営みを、音もなく深く、重く包み込んでゆくのでございます。

「市……寒くは、ありませぬか」


部屋の隅で、勝家様が火鉢の炭を、それはそれは真剣な面持ちで突き崩しておられました。


戦場では一振りで数人の首を飛ばすその剛腕が、今は小さな火箸を震わせながら、市様を冷えさせまいと、灰の形を整えることに全神経を注いでいる。


そのあまりに必死な背中は、どこか愛らしく、大きな子熊が一生懸命に冬支度をしているようにも見えました。


「勝家様、そんなに火をおこしては、わたくしが干物になってしまいますわ」


市様は、しどけない姿で脇息きょうそくに寄りかかりながら、クスクスと喉を鳴らしてお笑いになりました。


その声に、勝家様は「おおっ、これは失礼をいたしました!」と慌てて火箸を放り出し、あろうことか自分の袴の裾で火を煽り、余計に火の粉を散らしてしまう始末。


「もう……本当にお手のかかるお方。こちらへいらっしゃいませ」


市様は、自らの羽織を少し広げ、隣の座をポンポンと叩かれました。


勝家様は、まるで主人の元へ呼ばれた忠犬のように、ドギマギしながら膝を送り、市様の傍らへと座り直します。


二人の距離が縮まった瞬間、部屋に漂う伽羅きゃらの香りと、市様の肌から立ち上る微かな熱が、勝家様の鼻先をかすめました。


勝家様は、心臓の音が市様に聞こえてしまうのではないかと、思わず息を止めて身を硬くします。


「勝家様、そのてのひらを見せてくださいませ」


市様が、そっと勝家様の右手を引き寄せました。


それは、幾多の戦場を駆け抜け、槍を握り締め、数え切れぬほどの傷跡が刻み込まれた、荒れて節くれ立った「武士の掌」でございました。


市様は、その岩のように硬い掌を、自らの白く滑らかな両手で包み込みました。


絹のように柔らかな市様の指先が、勝家様の硬い皮膚の上を、慈しむようにゆっくりとなぞってゆきます。


荒れ果てた大地を、春の雨が優しく潤してゆくような……。


勝家様は、自分の汚れた手が、彼女の清らかな肌を傷つけてしまうのではないかと恐れ、指先を小さく震わせました。


「この手が、わたくしをあの炎の中から救い出してくださったのですね」


市様は、勝家様の掌に、そっと自分の頬を寄せられました。


ひんやりとした彼女の肌の感触が、勝家様の魂の奥深くまで伝わり、これまで戦いで張り詰めていた心の糸が、音を立ててほどけてゆくのでございました。


「市……わたくしは、器用なことは何一つ言えぬが……。お前がここに居てくれるだけで、この北ノ庄の雪さえ、温かい綿毛のように思えるのだ」


勝家様は、絞り出すような声で、けれど真実だけを言葉にされました。


その瞳には、勇猛な武将の鋭さはなく、ただ一人の女性を心から愛おしむ、あどけないほどの純真さが宿っておりました。


市様は、勝家様の大きな胸に顔を埋め、彼の力強い鼓動を耳にしながら、幸せな溜息をひとつつきました。


「わたくしも、勝家様。もう、どこへも行きませぬ。あなたの隣で、こうして雪を眺めているのが、わたくしの何よりの『まこと』にございます」


外の吹雪が窓を叩くたび、二人の距離はさらに縮まり、互いの体温だけがこの世界のすべてであるかのように、静かに、そして深く溶け合ってゆくのでございました。


乱世という荒波の合間に訪れた、奇跡のようななぎの時間。


この時の温もりこそが、四百年後、現代の雪降る夜に再び二人を結びつける、唯一無二の道標となるとは、まだ誰も知る由もなかったのでございます。

史実解説

第四章をお読みいただきありがとうございます。

小谷城の炎から救い出されたお市の方が、九年の歳月を経て柴田勝家と結ばれる。この劇的な展開の裏側にある、冷徹なまでの政治状況と、勝家が命を懸けて築いた「理想郷」について解説します。

1. 消失した九年間:お市の方の「空白」

小谷城が陥落した天正元年から、勝家と再婚する天正十年まで、お市の方は兄・信長の庇護下で清洲城に身を寄せていました。

戦記的な視点で見れば、彼女は「浅井の遺児(三姉妹)を守る母」であり、同時に織田家にとって「最も価値のある外交カード」でもありました。勝家はこの九年間、北陸平定という最前線に身を置きながら、主君の妹である彼女を遠くから見守り続けていたのです。

2. 清洲会議:権力争いの中で掴み取った「月」

天正十年の本能寺の変の後、織田家の後継者を決める「清洲会議」が開かれます。

ここで勝家と羽柴(豊臣)秀吉は激しく対立しました。結果として秀吉に主導権を握られますが、勝家はこの時、領地の割譲と共に「お市の方との結婚」という条件を勝ち取ります。

これは織田家重臣としての地位を固める「政略」であると同時に、勝家個人にとっては、四百年の時を超える執念が結実した「純愛」の達成でもありました。

3. 北ノ庄城:幻の「九層天守」

勝家が築いた北ノ庄城(現在の福井県福井市)は、当時としては異例の「九層の天守」を持っていたと伝えられています。

安土城(七層)を凌ぐ高さであったという説もあり、勝家がこの城にどれほどの誇りを懸けていたかが伺えます。この壮麗な城は、戦国最強の武将としての威信であると同時に、お市の方を最高の礼遇で迎えるための、彼なりの愛の証だったのかもしれません。

4. 越前の冬:軍事を止める「白銀の壁」

物語の後半で描かれた美しい雪景色は、軍事的には勝家にとって「致命的な足枷」でもありました。

北陸の深い雪は、春になるまで軍勢を動かすことを許しません。その間に、雪のない地域を拠点とする秀吉は着々と準備を進め、勝家の味方を切り崩していきました。

「雪を温かい綿毛のように思う」という勝家の言葉は、軍事的な死地を悟りながらも、目の前にある幸福にすべてを捧げようとした、悲壮な決意の裏返しとも読み解けるのです。

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