表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今度は畳の上で笑い合おう〜戦国の業火を越えて二人の魂が辿り着いた約束の地〜  作者: 桐生宇優


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/8

第二章:泥に咲く華、鬼の涙を隠して

愛する人を、別の男の元へ送り届ける。武士もののふとしてこれほど残酷な任務があるでしょうか。信長の命により、近江の浅井長政へ嫁ぐお市の方。その護衛を務める勝家の、胸が張り裂けるような道中がいま描かれます

挿絵(By みてみん)

尾張の空を淡く染めていた山桜が、いつしか若葉の青さに取って代わられようとする頃、残酷な命が勝家様に下されました。


「市を近江の浅井長政へ嫁がせる。権六、おぬしがその輿入れの護衛を務めよ」


主君・信長公の言葉は、戦場の矢よりも鋭く勝家様の胸を射抜き、その魂を粉々に砕き散らしました。

誰よりも彼女を愛し、その笑顔を守るためにこの腕を磨いてきたというのに。今、その腕で守らねばならぬのは、彼女が別の男の妻となるための、最後の一行だったのでございます。


近江へと向かう街道、色とりどりの旗指物が風にたなびき、華やかな輿こしがゆらゆらと揺れるその後ろを、勝家様は漆黒の愛馬に跨り、ただ黙々と守り固めておられました。


甲冑の重みはいつもと変わらぬはずなのに、今の彼には、それが千貫もの石を背負わされているかのように、重く、冷たく感じられるのでございました。


「……市様、お加減はいかがでございますか」


時折、馬を輿の傍らに寄せ、声をかけます。

しかし、その声はいつもの雷鳴のような響きを失い、どこか湿り気を帯びて震えておりました。


市様が、御簾の陰から、透き通るような白磁の指先で、そっと外の景色を覗き込まれます。


「勝家様、わたくしは大丈夫ですよ。それよりも、あなた様のお顔があまりに恐ろしくて、街道の鳥たちが一斉に逃げ出しておりますわ」


市様は、悲しみを押し隠すように、いつものように茶目っ気たっぷりに微笑まれました。


勝家様は、はっとしたように、己の強張った頬を大きな掌で叩き、慌てて奇妙な笑顔を作って見せました。


「は、ははっ、これは失礼をいたしました! 近江の男どもに、織田の武士がいかに恐ろしいかを見せつけてやろうと思いましてな。ほら、見てください、この鼻息! これなら長政殿も、市様を泣かせるような真似はいたしませぬぞ!」


そう言って、鼻の穴をこれでもかと広げ、大げさな仕草で胸を叩いて見せる勝家様。


その姿は、あまりに不格好で、あまりに滑稽で……。


けれども、その必死な道化の裏側で、彼の心がどれほど血を流しているか、市様が気づかぬはずもございません。


旅の夜、琵琶湖の畔に陣を張った時のことでございます。


湖面を渡る風が、市様の纏う白檀の香りを、勝家様の元へと運んでまいりました。

市様は、夜風に当たろうと、一人で外へ出ておられました。


「勝家様」


不意に名を呼ばれ、勝家様は飛び上がらんばかりに驚き、持っていた槍をあやうく足の上に落としそうになりました。


市様はクスクスと笑いながら、勝家様の隣に歩み寄り、共に月を見上げます。


「勝家様、わたくしを……忘れないでいてくださいますか?」


その儚げな、祈りにも似た問いかけに、勝家様の理性は、脆くも崩れ去りそうになりました。

今すぐ彼女の手を引き、このまま誰も知らない遠い国へと逃げ去ってしまいたい。


この荒れた掌で、その細い肩を抱きしめ、二度と離したくない。


喉まで出かけたその言葉を、彼は鋼のような自制心で飲み込み、再び、道化の面を被りました。


「何を仰いますか! 市様のようなお転婆な姫君を、誰が忘れられましょうぞ! 忘れたくとも、わたくしの夢にまで現れては『権六、また躓きましたね』と笑われるに決まっております!」


勝家様は、わざと豪快に笑い飛ばしました。


しかし、その瞳の奥には、月の光さえも届かぬ深い絶望と、慈愛が渦巻いておりました。


市様は、その勝家様の不器用な嘘を、まるでお預かりした宝物のように、静かに、そして深くその胸に刻まれるのでした。


「……そうですね。わたくしも、勝家様のその可笑しなお顔、一生忘れませんわ」


翌朝、二人は近江の国境を越えました。

浅井家の迎えに市様を託し、勝家様はただ一人、尾張へと向かう道を、馬を飛ばしました。


振り返れば、彼女が去ってゆく輿の揺れが見えるはず。


しかし、彼は一度も振り返ることはありませんでした。


もし一度でも振り返れば、鬼柴田の面は剥がれ落ち、一人の男として、彼女の名前を叫びながら泣き崩れてしまうことを、彼自身が一番よく知っていたからでございます。


彼の背中を打つのは、春の終わりの冷たい雨。

その雨は、彼が誰にも見せまいと必死で隠した、一筋の涙を、静かに洗い流してゆくのでございました。


史実解説

第二章をお読みいただきありがとうございます!

この章の舞台背景となっている、当時のリアルな歴史について分かりやすく解説します。物語とあわせて読むと、勝家やお市の方の置かれた状況がもっと深く見えてくるはずです。

1. なぜお市の方は「近江おうみ」に嫁いだの?

戦国時代、結婚は家と家を結びつける「同盟のあかし」でした。

当時の信長は、今の岐阜県を攻略するために、その隣にある滋賀県(近江)を治めていた有力な大名、浅井あざい家と仲良くする必要がありました。

そこで、自分の最も大切な妹であるお市の方を、浅井家のリーダーである浅井長政に嫁がせることで、「これからは親戚として一緒に戦おう!」という約束を交わしたのです。これを「政略結婚」と呼びます。

2. ライバル!? 浅井長政ってどんな人?

勝家から見れば、愛する人を連れていってしまう相手ですが、この長政という男、実はかなりのハイスペック男子でした。

イケメン: 当時としてもかなりの美男子だったと言われています。

仕事ができる: 若くして家をまとめ上げ、家臣たちからもめちゃくちゃ信頼されていました。

誠実: お市の方との仲も非常に良く、当時の大名としては珍しく、彼女以外の側室を持たなかったという説があるほどです。

物語の中で勝家が「あたふた」したり「道化」を演じたりするのは、こんな完璧な相手に大切な市様を預けなければならないという、複雑なライバル心もあったのかもしれませんね。

3. 当時の「輿入れ」は大イベント

「輿入れ」とは、花嫁が嫁ぎ先の家へ入ること。現代の結婚式のようなものですが、戦国時代は命がけでした。

お市の方のような大切なお姫様が移動するとなると、道中で敵に襲われないよう、何百人もの兵士がガードにつきます。そのリーダーを任されるということは、織田家の中で最も信頼されている証拠です。

勝家が護衛に選ばれたのは、単に強いからだけでなく、信長から「お前なら市の命を絶対に守り抜くはずだ」と、その誠実さを認められていたからなのです。

4. 「白檀びゃくだん」の香りの秘密

物語に登場した白檀の香り。実は、お香は戦国武将や貴族にとって非常に大切なものでした。

当時は毎日お風呂に入る習慣がなかったので、身だしなみとして衣服にお香を焚き染めていたんです。特に、戦場に行く武将は「いつ死んでもいいように」と、兜にまで香りを染み込ませていたと言われています。

お市の方の香りは、勝家にとって「愛する人の存在」そのものを象徴する、切ない記憶のスイッチだったのかもしれません。

歴史を知ると、キャラクターたちの「ため息」一つにも、深い意味があることが分かります。

第三章では、この幸せな結婚の裏側に忍び寄る、暗い戦いの足音について触れていくことになります。お楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ