婚約破棄されたので、秘めていた「真実を見抜く瞳」で相手の汚職と本心を暴露したら、なぜか敵国の公爵に溺愛されました
公爵令嬢エリザベスは、誰もが羨む王太子妃の座を約束されていた。
しかし、彼女は知っている。
愛と裏切り、そして金銭欲にまみれた貴族たちの「本心」を、全て見てしまえるからだ。
婚約者に裏切られ、悪役令嬢として公衆の面前で断罪されたとき、彼女の秘めたる「真実の瞳」が、ついにその力を解き放つ——。
これは、腐敗を暴く「チート能力」で、隣国のイケメン公爵に溺愛される、痛快な逆転劇である。
舞踏会のきらめきが、ひどく白々しくエリザベス(こうしゃくれいじょう)の瞳には映った。
王都最大の宮殿、その広間は、シャンデリアの無数の光を受け、色とりどりのドレスとタキシードを纏った貴族たちで埋め尽くされている。
彼らは、グラスの縁越しに微笑み、囁き合い、さながら絢爛たる毒蛾の群れのようだった。
しかし、エリザベス・ド・クロヴィス公爵令嬢の視界に入ってくるのは、ただの華やかな光景ではない。彼女が生まれつき持っている、忌まわしい——あるいは、時として有り難い——特異な能力、「真実を見抜く瞳」が、この場のすべての欺瞞と悪意を、視覚情報として彼女の脳裏に叩きつけてくるのだ。
「公爵夫人へのお近づきを心から願っています」
「いえ、私の父が今回の王家への献金でどれほど苦労したか……」
貴族たちの口から発せられる言葉は、大抵の場合、その魂から漏れ出ている「本心」とはかけ離れている。
エリザベスには、彼らの背後、あるいは肩越しに、彼らの本心が、薄い緑や禍々しい紫色のオーラ、時には白々しい文字となって浮かび上がって見える。
——(この王妃、私が持ってきた宝石の価値を分かっていないな。もっと他に高値で売れるルートはないものか)
——(あの男爵の娘、顔はそこそこだが家が弱い。せいぜい一夜の遊びだろう)
長年の経験で、彼女はそうした無数の「真実」を遮断し、社交の場で模範的な令嬢を演じ続ける術を身につけてきた。
しかし今宵、その防御壁は、脆くも崩れ去ろうとしていた。
広間の中心、一段高くなった壇上には、未来の国王となるはずのフィリップ・アルテア王太子殿下が立っている。その隣には、エリザベスの婚約者であったはずの人物が、愛らしいと評判のレティシア・ド・ヴァルテール子爵令嬢を伴い、満面の笑みを浮かべていた。
フィリップ王太子とエリザベス・ド・クロヴィス公爵令嬢の婚約は、物心つく前から決まっていた。それは両家の格と国政における権力の均衡を保つための、絶対的な「義務」であり、「定め」であった。
恋愛感情の介在する余地など、最初からどこにもなかった。だからこそ、フィリップが最近になって、新興の子爵家の令嬢であるレティシアに入れ込み始めた時も、エリザベスは冷静でいようと努めた。
王太子には、王家の血筋を絶やさぬため、正妃の他に複数の側室を持つ権利がある。レティシアは、その側室の一人となるのだろう、と。
だが、今、フィリップ王太子は、この大勢の貴族が見守る社交の場で、エリザベスに断を下そうとしていた。
フィリップは、エリザベスに向かって、冷たく、そして感情のない瞳を向けた。その表情は、まるで、不要な古い絨毯を捨てるかのような、無関心さに満ちていた。
彼の背後に浮かび上がる「本心」は、いつもながら濁った青色で、時折、銭貨の形をした黄色い光を放っている。
「……エリザベス・ド・クロヴィス公爵令嬢」
フィリップの硬い声が、広間に響き渡る。談笑していた貴族たちが一斉に沈黙し、視線がフィリップと、そしてエリザベスへと注がれた。
一瞬にして、エリザベスがこの場の主役になってしまった。嘲笑と憐憫の視線の渦の中で。
「私は、今をもって、貴女との婚約を破棄する」
静まり返った広間に、フィリップの声明は、まるで爆弾のように炸裂した。ざわめきが起こる。貴族たちは興奮し、扇で口元を隠しながら、好奇の目でエリザベスを見つめた。
フィリップは、エリザベスの反応を待つこともなく、隣のレティシアに視線を送った。レティシアは、わずかに顔を紅潮させ、はにかむように微笑む。
その様子は、純粋で可憐。まさに、この国の社交界が求める「ヒロイン」像そのものだ。
「貴女は、確かに公爵令嬢としての務めを忠実に果たしてきた。しかし、王妃となる者には、王室の顔として、国民に愛される魅力と、より高き精神性が必要となる」
フィリップの言葉は、建前としては、完璧に整えられていた。しかし、その背後に浮かぶ「本心」の文字は、容赦なくエリザベスに真実を突きつける。
——(エリザベスは地味で面白みがない。それに、クロヴィス公爵家は堅物すぎて融通が利かない。レティシアの父であるヴァルテール子爵は、新興ながら大商会を牛耳っており、その資金力は我が国の財政に必須だ。エリザベスを排除し、レティシアを正妃に迎えることで、子爵家の巨額な資金を王室の私的な金庫に流し込むことができる。レティシア自身は、ただの飾りだ。利用価値のある花嫁)
エリザベスは、その文字を冷静に見つめた。長年の経験が、彼女の顔に何の感情も浮かび上がらせることを許さない。
ただ、魂の奥底で、何かが静かに燃え上がっていくのを感じていた。
「一方、レティシア嬢は、その愛らしさ、優しさ、そして何より、私を純粋に愛してくれる心を持っている。国民も彼女の登場を心から歓迎している」
フィリップは、レティシアの手を優しく取り、その指に嵌められた大粒のダイヤの指輪を見せつけるように掲げた。
——(レティシアは、私の言いなりになるだろう。その莫大な持参金も、私の自由になる。エリザベスのような、口うるさい高慢な女はいらない)
「だから、エリザベス。残念だが、貴女は、王室の未来には不要となった。故に、今日限り、貴女との婚約を解消し、ヴァルテール子爵令嬢を新たな婚約者とすることを、ここに宣言する!」
フィリップの宣言が、広間のざわめきを決定的なものに変えた。貴族たちは、もはや扇で口元を隠すことさえ忘れ、あからさまな嘲笑の視線をエリザベスに投げつける。
——(公爵令嬢の座から転落か。ざまあみろ) ——(あの地味な顔、王妃の座には似合わなかった) ——(クロヴィス公爵家もこれで没落か。今のうちに距離を取っておこう)
エリザベスの「瞳」には、無数の汚い「本心」が渦巻いている。このまま、彼女は、不当な婚約破棄を受け入れ、悪役令嬢としての汚名を着せられ、公爵家へ静かに引き下がるのだろうか。
――否。
彼女の魂の奥底で燃え上がった炎は、もはや抑えられないものとなっていた。これまでは、公爵家の名誉と、王太子妃としての「義務」のために、自らの「瞳」の力を封じ込めてきた。しかし、その義務は、今、フィリップ自身の手によって断ち切られた。
もう、隠す必要などない。
エリザベスは、ゆっくりと、しかし確実に、フィリップのいる壇上に向かって歩みを進めた。その歩みは、まるで、処刑台へと向かう罪人のようにも、あるいは、審判を下す女神のようにも見えた。
「フィリップ殿下」
彼女の声は、広間の喧騒を静めるほどの力を持っていた。フィリップは、エリザベスの反抗的な態度にわずかに眉を顰めた。
「何だ、エリザベス。潔く身を引くことも、公爵令嬢の務めだぞ」
「身を引く、ですって?」
エリザベスは、これまで社交界で見せてきた模範的な笑顔を、きっぱりと消し去った。そして、初めて、自らの意志で、自らの「瞳」の力を、限界まで解放した。
広間全体が、エリザベスの「真実を見抜く瞳」の射程圏内に入った。フィリップ王太子とその取り巻きたち、そして、この場に居るほとんどの貴族の「本心」と「不正」のオーラが、一斉にエリザベスの脳裏に、鮮明な文字となって浮かび上がる。
フィリップの背後には、彼の過去と現在における全ての不正の記録が、巨大な羊皮紙の巻物のように、禍々しい紫色の文字で展開されている。
『国費横領:軍事予算より五年間に渡り総額金貨三千万枚を私的流用。ヴァルテール子爵を通じて国外の私設口座へ送金』 『薬物取引:隣国との密貿易に関与。国内の貧困層を対象とした違法薬物の流通を黙認し、王室収入の一部とする』 『殺人教唆:五年前、自らの秘密を知った元近衛兵を、事故に見せかけて暗殺』
「わたくしが、この国の未来に不要? それは違いますわ、フィリップ殿下」
エリザベスは、壇上のフィリップを見据え、その瞳の奥に、強い光を宿した。その光は、フィリップの背後に浮かぶ、おぞましい真実の記録を、広間の人々の目には見えないながらも、焼き尽くすかのように強烈だった。
「わたくしが不要なのではなく、王室の、そしてこの国の未来にとって、不要なのは――貴方様ご自身です」
エリザベスの言葉は、広間のざわめきを一瞬にして氷のように固まらせた。貴族たちは耳を疑った。
一介の公爵令嬢が、それも婚約破棄を突きつけられた直後の女が、王太子に向かって「不要」と言い放ったのだ。それは、単なる侮辱ではない。王室への公然たる反逆行為に等しい。
フィリップ王太子の顔から、血の気が引いた。彼は激怒に震えながら、壇上からエリザベスを指差した。
「何を戯言を! エリザベス、貴様、正気か。今すぐその侮辱を取り下げ、わたくしに許しを請え! さもなくば、公爵家ごと断罪するぞ!」
王太子の声は、怒りのあまり上ずっていたが、その背後に浮かぶ文字情報は、彼の心の焦燥を如実に示していた。
——(やばい、なぜだ、なぜこの女は動揺しない? まさか、どこかから私の不正の情報を掴んだのか? いや、そんなはずはない。全て完璧に隠蔽したはずだ。だが、この場で騒ぎ立てられるのはまずい。すぐにこの場を収めなければ!)
エリザベスは、フィリップの脅しに動じることなく、静かに、しかし、誰もが聞き取れる強い声で、その「真実」を口にし始めた。
「殿下は、わたくしが王室の財政に貢献できない、地味な存在だからとおっしゃいましたね。しかし、真実は違います。殿下は、この国の財源を食い潰し、貧しい国民から搾取した金で、ご自身の私腹を肥やしていらっしゃる。具体的に申し上げましょうか?」
彼女の視線は、フィリップの背後に浮かぶ、紫色の「不正の記録」を正確にトレースしていた。
「五年間にわたる軍事予算からの金貨三千万枚の横領。これは、辺境の守備隊の士気と装備を著しく低下させ、隣国からの侵攻の危機を増大させた行為です。殿下ご自身、その流用先を、レティシア嬢の父であるヴァルテール子爵を通じて、王国の監視の目が行き届かない南方の島国に開設した私設口座に送金なさいました」
広間は、もはやざわめきではない、恐怖と困惑に満ちた呻き声に包まれた。貴族たちの顔色は一様に蒼白になった。
彼らの多くは、フィリップの汚職について噂程度は知っていたが、これほど具体的で正確な数字を聞かされるとは、誰も予想していなかった。
ヴァルテール子爵が、青い顔で前に出ようとするのを、エリザベスは一瞥で制した。
「子爵、貴方の『本心』にも、醜い金銭欲と野心が見えます。『王太子の懐に入り込み、不正な利益を分け前として得て、子爵家を公爵家に押し上げる』。それが貴方の目的でしょう。子爵家は、違法薬物の密売にも関与し、その利益の一部を王太子殿下に献上していることまでも、わたくしの『瞳』は見ております」
ヴァルテール子爵は、ガタガタと震えだし、その場で崩れ落ちそうになった。その背後に浮かぶ『本心』の文字は、恐怖と裏切りの混ざった、汚い泥のような色をしていた。
フィリップは、冷静を装うことがもはや不可能になった。彼は声を荒らげた。
「無礼千万! 妄言だ! 証拠のないでたらめを!」
「証拠がない、と?」
エリザベスは、冷笑した。
「では、五年前、殿下の不正な密約を知ってしまったがために、『事故』に見せかけて暗殺された、近衛兵ジェラール・ド・ルブランの名前をお忘れですか? 彼の遺体は、深い森の湖底で発見されましたが、その事件を闇に葬るよう命じたのは、殿下ご自身です。遺書に残された、殿下から彼に送られた命令書が、今もなお、殿下の私室にある秘密の書簡入れに隠されていることも、わたくしは知っております」
この一言で、フィリップの顔は、血の気が失せ、蝋人形のように硬直した。彼は、秘密の書簡入れの場所を誰にも教えていない。そこには、王族しか知らない細工が施されている。どうして、この女がその場所を知っているのか。
広間の空気は、完全に凍りついた。もはや誰も、笑う者も、嘲笑する者もいない。ただただ、目の前の信じられない光景に、息を飲むだけだった。
◇
その時、広間の隅、誰もが忘れていた場所から、一つの人影が静かに現れた。
その人物は、この国の貴族とは明らかに異なる、異質な気配を纏っていた。深い紺色の外套を纏い、髪は月光のように銀色に輝き、その瞳は、凍てついた湖の底のような、鮮やかなアイスブルーだった。
年齢は若く、その容姿は彫刻のように整っているが、その纏う威圧感は、フィリップ王太子など足元にも及ばない。
彼の登場に、護衛の騎士たちが一斉に警戒の姿勢を取った。
「そちらの方は、どなたで?」
一人の老侯爵が、恐る恐る尋ねた。
銀髪の人物は、エリザベスに視線を向けたまま、その口元にわずかに笑みを浮かべた。その笑みは、獲物を見つけた猛禽類のようでもあり、あるいは、極上の演劇を見ている観客のようでもあった。
「私は、ただの傍観者だ。この国を通りかかった、旅の者」
そう言ったものの、彼の口から発せられた言葉は、この国のアクセントとは微妙に異なり、隣国――特に、この王国とは長年にわたり緊張関係にある、北方の強国『ヴォルガー大公国』のそれに近かった。
「……ヴォルガーの公爵」
フィリップが、震える声で呟いた。その背後に浮かぶ『本心』は、「逃走」「秘密の暴露」「断罪」といった文字で埋め尽くされていた。
「おや、ご明察。私は、ヴォルガー大公国の宰相公爵、ユーリ・ド・ヴォルガー。陛下にはお目通りを願っておりましたが、このような興味深い騒動に遭遇するとは、予想外でした」
ユーリ公爵は、そう言って、エリザベスに向かって、一歩、また一歩と近づいていった。騎士たちが制止しようとするが、彼の放つ強烈な威圧感に、一歩を踏み出すことができない。
そして、ユーリ公爵は、エリザベスの目の前に立ち、その「真実を見抜く瞳」をじっと見つめた。
「興味深い。本当に興味深い」
彼の背後には、いかなる『本心』の文字も、濁ったオーラも見えない。ただ、透明で清冽な、氷のような空気だけがあった。エリザベスの「瞳」を持ってしても、彼の心の内を読み取ることができない。それは、これまでの人生で初めての経験だった。
「エリザベス嬢、貴女の言葉は、実に具体的で、生々しい。そして、あの王太子の怯えようを見るに、その全てが真実なのだろう」
ユーリ公爵は、フィリップ王太子を一瞥することもなく、エリザベスにだけ語りかけた。
「貴女のその能力は、素晴らしい。嘘と欺瞞に満ちたこの貴族社会の中で、ただ一人、真実の剣を振り上げた。その勇気と、その能力。この腐りきった国で、それを埋もれさせるのは惜しい」
彼は、一瞬、真剣な眼差しをエリザベスに向け、そして、広間に向かって、はっきりと宣言した。
「フィリップ王太子殿下。私は、このエリザベス・ド・クロヴィス公爵令嬢を、わがヴォルガー大公国に、公爵夫人として迎え入れたい」
広間は、二度目の沈黙に包まれた。今度は、恐怖や困惑ではなく、信じがたい展開に対する、純粋な驚愕による沈黙だった。
隣国の、しかも最も強大な国の宰相公爵が、公然と、婚約破棄された令嬢に求婚したのだ。
フィリップは、ようやく声を取り戻した。
「何を馬鹿な! 貴様、我が国の人間を――」
「馬鹿げているのは、王国の未来を食い潰し、その真実を暴いた聡明な女性を、自ら手放そうとしている貴方の方だ、フィリップ殿下」
ユーリ公爵は、フィリップの言葉を遮り、優雅に、しかし、有無を言わせぬ絶対的な力を持って、エリザベスの手を取った。
「さあ、エリザベス嬢。貴女の真実の力は、わが国でこそ、存分に輝くことができる。私と共に、隣国へ来ていただこう。貴女には、腐敗した王族の顔色を窺う必要のない、自由で、そして、私の――溺愛される、新しい人生が待っている」
エリザベスは、ユーリ公爵の冷たい指先に触れた瞬間、体の奥底から、抗いがたい安堵と、新しい運命への予感を感じていた。
彼女の「瞳」は、いまだにユーリ公爵の心の内を読み取れないままだ。しかし、彼の言葉の裏に、裏切りのオーラがないことは、確かだった。
フィリップ王太子は、汚職と裏切りが白日の下に晒され、さらに、隣国の強大な公爵に最愛の(?)花嫁を奪われようとしている現状に、完全に打ちのめされていた。
ユーリ・ド・ヴォルガー公爵に手を引かれた瞬間、エリザベスの脳裏に、この場で起きていることの重大性が、津波のように押し寄せた。
隣国――それも、常に国境を睨み合う強国ヴォルガー大公国の宰相公爵による、公衆の面前での「略奪婚」。これは外交上の大事件であり、エリザベスの人生における、最も劇的で、最も危険な転換点となるだろう。
しかし、彼女の心には、恐怖よりも、長年の重圧から解放される、圧倒的な爽快感が優っていた。
フィリップ王太子は、ユーリ公爵の言葉に、完全に理性を失っていた。彼の体から発せられるオーラは、怒り、恐怖、そして、わずかに残った権威への執着が混ざり合い、もはや見苦しいほどに濁っていた。
「待て! ヴォルガー公爵! 彼女は我が国の人間だ! 王室の人間を、勝手に連れ去るなど、国際問題だぞ!」
フィリップはそう叫んだが、その声はすでに、広場の貴族たちにとって、空虚な遠吠えにしか聞こえていなかった。彼らは今、エリザベスが暴いたフィリップの不正の真偽、そして、隣国の公爵がなぜ彼女に求婚したのか、その二点に意識を集中させていた。
ユーリ公爵は、振り返りもせず、冷徹な声で言い放った。
「国際問題? 殿下、貴方様が国費を横領し、王国の財政を危機に陥れた件こそが、重大な国際問題でしょう。我が国は、貴方様の汚職が原因で、この国の信用が地に落ち、結果として経済的損失を被ることを深く憂慮している。その不正を白日の下に晒したエリザベス嬢は、この王国の『正義』であり、我が国に連れて行くのは、むしろ彼女の安全の確保、そして、真実を証言してもらうための、正当な措置です」
彼の言葉には、国際的な駆け引きのプロとしての、冷酷な論理が詰まっていた。エリザベスの「チート能力」が暴いた「真実」は、この国を窮地に陥れる外交カードとして、最大限に利用されようとしている。
フィリップは、さらに踏み込もうとするが、ユーリ公爵の護衛として控えていた、二人の屈強な騎士が、無言で彼の前に立ちはだかった。彼らの放つ殺気は、この国の宮廷騎士たちを圧倒していた。
エリザベスは、フィリップ王太子、そして、顔面蒼白になっているヴァルテール子爵、さらに、傍で泣き崩れているレティシア嬢を一瞥した。
レティシアの背後には、『本心』の文字が溢れている。
——(フィリップ様は王妃にしてくれるって言ったのに! 私のお父様の資金が! 私の地位が! もう終わりだわ!)
彼女は、フィリップへの「純粋な愛」など、最初から持っていなかった。利用する側と、利用される側。それが、彼らの関係の真実だった。
エリザベスは、その醜い本心を最後に確認し、もはやこの場に何の未練もないことを悟った。
ユーリ公爵は、エリザベスの手を握ったまま、広間の出口へと向かい始めた。貴族たちは、まるでモーゼの海割りのように、二人の通り道を空けた。
誰もが、口を開けば、自分が王太子の不正の共犯者として巻き込まれるのではないかと恐れ、ただ沈黙しているしかなかった。
出口の扉に差し掛かった時、ユーリ公爵は、歩みを止め、エリザベスに微笑みかけた。
「名残惜しい場所ではありますまい? しかし、貴女の公爵家への挨拶は、後ほど、私の書簡を通じて行うとしましょう。今、ここを離れることが、貴女の父君、クロヴィス公爵の安全にも繋がります」
エリザベスは、彼の言葉の奥にある意味を理解した。フィリップ王太子は、エリザベスを断罪できなくても、彼女の父を巻き添えにしようとするかもしれない。
しかし、娘が敵国公爵の妻となれば、容易に手出しはできない。彼女の脱出は、公爵家を守るための、最良の防御策でもあったのだ。
「ええ、公爵様。わたくしには、もう、この腐敗した王国に、何の未練もございません」
彼女は、迷いなくそう答えた。
二人が広間から姿を消すと、沈黙は一気に崩壊し、宮殿は大混乱に陥った。フィリップ王太子は、自身の護衛騎士たちに「あの女を追え! 連れ戻せ!」と喚き散らしたが、彼らの足取りは重い。王太子の汚職は、すでに広間にいる数百人の貴族に知れ渡ってしまった。もはや、彼に従うことは、自らの破滅を意味する。
◇
その頃、エリザベスとユーリ公爵は、宮殿の裏口に待たせてあった、黒塗りの馬車に乗り込んでいた。馬車は、ヴォルガー大公国の紋章を掲げ、強力な護衛団に守られていた。
馬車の中で、エリザベスは初めて、ユーリ公爵と二人きりになった。彼の氷のような青い瞳が、彼女をまっすぐに見つめている。エリザベスは、意を決して尋ねた。
「ユーリ公爵様。わたくしを、ヴォルガー大公国に連れて行かれる真の目的をお聞かせいただけますか? ただの求婚ではないことは、わかっております」
エリザベスは、彼の『本心』が読めないことに、まだ戸惑いを覚えていた。彼の行動は、あまりにも劇的で、その真意がどこにあるのか掴めない。
ユーリ公爵は、わずかに目を細め、静かに答えた。
「実に聡明だ、エリザベス嬢。正直に申し上げよう。私の目的は三つある」
彼は、エリザベスの手から、そっと婚約破棄された証の指輪が外されたのを見届けた。
「一つ目。貴女の『真実を見抜く瞳』の力。これは、いかなる諜報機関も凌駕する、世界で最も強力な『真実の剣』だ。我が国は、貴族の陰謀が絶えない。貴女の能力は、国家の安定に不可欠だ。二つ目。貴女の勇敢さ。腐敗を恐れず、権力に立ち向かうその精神は、我が国が求める指導者たる資質だ」
そして、彼はエリザベスの顔に、ゆっくりと視線を移した。
「そして、三つ目」
彼の瞳の奥に、初めて、エリザベスの『瞳』が探知できない、深く複雑な感情の揺らぎを見た。
「三つ目は、純粋な、私自身の好奇心だ。私は、この世界に蔓延る欺瞞に、ほとほと辟易していた。だが、貴女は違う。貴女は、この世界の醜い部分を見ながらも、それを暴く勇気を持っていた。その『真実』と『勇気』に、私は心底惹かれた。私の妻として、隣に立って欲しいと、心から願っている」
彼の言葉には、嘘のオーラはなかった。しかし、同時に、彼女の『瞳』が確認できたのは、彼の魂の根底に潜む、ある種の「孤独」と「渇望」だった。
「わたくしは、ただの政治的な道具ではない、と?」
「もちろんだ。貴女は、我が国の宰相公爵夫人として、貴女の能力を存分に振るい、私と共に、ヴォルガー大公国を真の『真実の国』へと導く、共同統治者だ」
ユーリ公爵の言葉は、エリザベスの心に、これまで感じたことのない、強烈な使命感を呼び起こした。王太子妃としてでは決して得られなかった、自己を完全に肯定される感覚。
馬車は、すでに王都の城壁を越え、国境へと向かう街道を猛スピードで走っていた。彼女の人生は、確かに、この一瞬で完全に反転したのだ。
◇
ヴォルガー大公国の国境警備隊は、ユーリ公爵の馬車を一瞥するだけで、深く頭を下げ、滞りなく通過を許可した。
国境を越えた瞬間、エリザベスは、これまで纏っていた重苦しい王都の空気が一掃され、清冽な冷気が肌を包み込むのを感じた。
馬車は、国境を越えてすぐの場所に位置する、ユーリ公爵の離宮へと向かっていた。離宮は、壮麗でありながらも、華美に流れず、北方の大国らしい質実剛健な美しさを備えていた。
離宮の一室。暖炉には火がくべられ、温かい紅茶の香りが満ちていた。エリザベスは、旅の塵を払い、ユーリ公爵と対面していた。
「これから、この国の貴族たちに、貴女を紹介する」
ユーリ公爵は、窓の外に広がる雪景色に目を向けながら言った。
「貴女の能力は、ここでは隠す必要はない。むしろ、私は公然と、貴女の『真実を見抜く瞳』を、我が国の不正を取り締まる、最も重要な武器として利用するつもりだ。その方が、無駄な憶測と陰謀を防ぐことができる」
彼は、エリザベスを政治的な道具として利用することを隠そうとはしなかった。しかし、その利用の仕方は、腐敗した王太子が彼女を飾り物として利用しようとしたのとは、根本的に異なっていた。
エリザベスの「真実」の力が、真に価値あるものとして扱われている。
「わたくしは、構いません。わたくしの力で、公爵様のお役に立てるのであれば」
エリザベスは、この強大な公爵と共に、新たな人生を切り開く決意を固めていた。彼女は、王都では「地味で、役に立たない、悪役令嬢」と嘲笑された。しかし、ここでは、その「地味」な外見の下に秘められた「真実の力」こそが、最も尊いものとして評価されている。
「感謝する、エリザベス」
ユーリ公爵は、初めて、心からの安堵の表情を浮かべた。彼の冷徹な印象が和らぎ、一人の人間としての、柔らかな魅力が垣間見えた。
「早速だが、貴女の能力を試させてもらいたい。我が国の騎士団長に、不正の疑いがある。だが、証拠がないのだ」
その翌日、エリザベスは、ユーリ公爵に連れられ、離宮の執務室へと入った。そこには、ヴォルガー大公国が誇る、屈強な騎士団長が立っていた。彼は、いかにも剛直そうな風貌で、不正など微塵も犯しそうにない人物に見えた。
エリザベスは、その騎士団長を見据え、意識的に「真実を見抜く瞳」を全開にした。
騎士団長の背後に、文字情報が展開される。
『不正:小規模な軍事品横流し。総額金貨五十枚。目的:重病の娘の治療費』
「公爵様、騎士団長殿は、軍事品の横流しをなさいました。しかし、それは、娘様の重い病の治療費を捻出するためです」
エリザベスの言葉に、騎士団長は、顔面蒼白になった。そして、膝から崩れ落ち、涙を流しながら、すべてを告白した。
ユーリ公爵は、冷静に騎士団長の話を聞いた後、エリザベスに視線を向けた。
「金貨五十枚か。確かに不正ではあるが、その動機は理解できる」
ユーリ公爵は、騎士団長を断罪するのではなく、彼の娘の病の治療を、公爵家の費用で賄うことを約束した。そして、彼の不正については、公爵が一旦預かり、忠誠心をもって公爵に仕えることを条件に、不問とした。
「真実とは、ただ断罪する道具ではない。その背景にある人間性を見極めるための、最高の指標だ。貴女の瞳は、私にそれを示してくれた」
その日以来、エリザベスは、ユーリ公爵の「共同統治者」としての役割を、本格的に果たすようになった。彼女の「真実を見抜く瞳」は、公爵国の貴族や役人たちの不正を次々と暴き出し、その結果、国政は目覚ましく改善されていった。
貴族たちは、もはや「真実の公爵夫人」であるエリザベスの前では、安易に嘘をついたり、不正を働いたりできなくなった。ヴォルガー大公国は、その強大な軍事力だけでなく、「不正のない、清廉な国」として、周辺諸国からも一目置かれる存在へと変貌していった。
そして、エリザベスの活躍は、やがて、彼女を追放した、元の王国にも伝わっていった。
フィリップ王太子は、エリザベスが残していった具体的すぎる証拠により、国内の複数の貴族たちによって告発され、その地位を追われ、幽閉されるという末路を迎えた。彼が築き上げた、ヴァルテール子爵家との関係も、汚職の片棒を担いだとして、すべて崩壊した。
エリザベスの公爵夫人としての生活は、王太子妃となるはずだった頃よりも、遥かに充実していた。彼女は、ユーリ公爵と共に政務をこなし、時には、隣国との外交の場にも立ち、その「瞳」で、相手国の真意を見抜くという重要な役割を果たした。
そして、何よりも、ユーリ公爵は、彼女を「溺愛」した。
彼は、エリザベスの力を必要とする一方で、彼女の人間性を心から尊重した。地味だと揶揄された彼女の服装や趣味を、彼は「奥ゆかしい」「知的だ」と褒め称え、彼女が望むものは、全て惜しみなく与えた。
ある夜、エリザベスが、執務を終えて公爵室に戻ると、ユーリ公爵が彼女を抱きしめた。
「エリザベス、貴女と出会って、私の世界は初めて、欺瞞のない、清らかで、美しいものになった。貴女は、私の光だ」
その言葉の背後に、エリザベスの「瞳」が見たのは、混じり気のない、純粋な、深く燃えるような「愛」のオーラだった。これまで、誰の『本心』も信じられなかった彼女の心に、初めて、疑いようのない「真実の愛」が流れ込んできた。
地味な公爵令嬢として婚約破棄され、悪役令嬢として追放されたはずの人生は、隣国の強大な公爵の「溺愛」と、自己の「チート能力」を存分に発揮する「共同統治者」という、最高のポジションで幕を閉じることになった。




