伝説のスパイ
彼の名を知る者は、ほとんどいない。
政府の記録には「補助任務担当」、かつての上司の口ぶりでは「裏方の優等生」。本人も「一度も表舞台に立ったことはない」と、あっさりと語る。
爆破工作も、銃撃戦も、潜入捜査すら経験がない。
だがそのどれにも、彼は“少しだけ”関わっていた。
隠し扉の設計、タイミングをずらす通信操作、仲間が逃げるルートの確保。
すべての任務に「名前の出ない貢献者」として関わり、戦果の影で地味に動いてきた。
──つまり、特別優秀ではなかった。
派手さもなければ、伝説的な功績もない。
けれど、同僚の何人かはこう言っていた。
「彼がいなければ、成功しなかった任務は案外多い」
そうして彼は、静かに引退した。
拍手も勲章もなく、ただ一人、海辺の町へ去っていった。
*
引退後の暮らしは快適だった。
朝は浜辺を歩き、午後は読書。夜はワインと安いチーズで一日を締める。
忘れられることに、寂しさもなかった。
そんな彼のもとに、ある日映画会社の若い男が訪ねてくる。
「あなたの人生を、映画にしたいのです」
「なぜ私が?」
彼は首をひねる。派手な戦果など何ひとつない。
男は笑って言った。
「むしろ、派手さはこれから盛ります。他のスパイたちの記録と統合し、あなたという“キャラクター”に集約させるんです。少し脚色を加えれば、完璧なアクション映画になりますよ」
「そんな虚構に、意味があるのかね」
「ありますとも。“元になった人物が実在する”──それだけで信ぴょう性が段違いです」
馬鹿げている。だが、どこかで引っかかった。
──誰の記憶にも残らなかった人生。
──その代わりに、作り物でも誰かの記憶に残るかもしれない。
彼は映画化を了承した。
*
数ヵ月に及ぶ打ち合わせが始まった。
過去の任務を元に、地名を変え、事実をぼかし、脚色を加えて再構成する。
実際の事件を基にしたシーンにはフィクションとしての緊張感が加えられ、男の昔の口癖すら「決め台詞」として登場することになった。
映画は無事完成した。
彼は元同僚に連絡し、こっそり映画館の隅の席で公開初日に足を運んだ。
そこには、自分そっくりの俳優がいた。
銃を構え、爆発に背を向け、孤独に立ち向かう“英雄”として描かれていた。
フィクションだとわかっていても、どこか誇らしかった。
「……映画の中だけでも、優秀なスパイになれたな」
*
帰り道。人気のない裏路地で、彼はふと足を止めた。
気配を感じて振り向くと、スーツ姿の男たちが立っていた。その中の一人に見覚えがあった。
「グレイか……どうした、こんなところで」
元同僚だった男は、どこか申し訳なさそうにうつむいた。
「──頼みたいことがある。君にしかできないことだ」
「勘弁してくれ。俺はもう現役じゃない。映画の中ほど優秀でもないんだ」
グレイは首を振った。
話を聞けば、自国の要人が敵国に捕らえられたという。状況は深刻で、外交も打つ手がなかった。
そして、敵国はこう要求してきたのだ。
「──自国に甚大な損害を与えた“伝説のスパイ”を引き渡せば、要人を返す」
「そんな人物、実在しないだろう」
「だが──敵は映画を観た」
空気が、冷たくなる。
「彼らは信じている。あの映画に出てきたスパイが、実在するのだと。君が、その人物だと」
「……映画化は、作戦の一部だったのか」
グレイはうなずいた。
「我々は君を“伝説”に仕立てた。敵国が交渉に応じるように」
彼は小さく笑った。
「なるほど……人生で初めて主役になれたと思ったら、捕虜役か」
そして、しばし沈黙のあと、こう続けた。
「……せめて、ラストシーンは格好よく頼むよ」