出戻り王女は理解できない ~なぜか切れ者宰相に迫られています~
「にぎやかね」
城下に暮らす人々のざわめきが、城の三階にあるエリクシーヌの自室にまで届いていた。
「姫様。動かないでください」
長く仕えてくれている侍女のアイリーンが、咎めるような声をあげる。
鏡に映る彼女の表情は真剣そのもので、毛量の多いエリクシーヌの黒髪を結うためにどれほど心血を注いでいるかが伝わってきた。
エリクシーヌ・マルタン・エンドリウヌ。
このエンドリウヌ王国において、この姓は特別な意味を持つ。
王族の、それも直系である事。
だがそんな恵まれた生まれにありながら、エリクシーヌは憂鬱なため息をついた。
「私が出席する必要なんてないと思うけど」
唇を尖らせる主の発言に、アイリーンは眉間の皺を深くした。
幼い仕草だが、エリクシーヌは先日二十歳になった。
本来であればとっくにどこへなり輿入れしている年頃だが、彼女の複雑な境遇によって未だに国王の末妹として王宮にとどめ置かれていた。
「またそのようなことをおっしゃって。姫様はれっきとした王族なのですよ」
「お荷物のね」
「姫様っ」
アイリーンは嗜めるように言った。
こんなやり取りができるのも、アイリーンがエリクシーヌの乳姉妹で生まれた時からの付き合いだからだ。
城の人間は彼女以外、誰もがエリクシーヌに対して余所余所しい。
なぜかと言えば、それは彼女が本来ならここにいるはずのない人間だからだ。
エリクシーヌは先王の末娘だった。現在は王妃の第一子が王位を継いでいるので、王妹に当たる。
彼女には物心がつく前に決められた許嫁がいた。
あまり仲が良くない隣国の王太子で、友好を名目とした明らかな政略結婚だった。
もっとも、王族の結婚などえてしてそういうものなので、エリクシーヌは何とも思っていなかった。隣国の言葉や風土もずっと勉強していたし、結婚前に引き合わされた王太子もさして悪い相手ではなかった。
悪かったのは、エリクシーヌの父である先王の方だ。
十八になってエリクシーヌが結婚のために隣国へ渡ると、先王はその隙を突いて隣国に侵攻した。
勿論あちらは大変な騒ぎになったし、何も知らされていなかったエリクシーヌは父王の暴挙に愕然とした。
戦争は二年続いた。その間、エリクシーヌは人質として隣国にとどめ置かれることになった。
長かった。
結局その間に父王は病によって身罷り、長兄であるアンリが王位を引き継いだ。彼は好戦的な父とは正反対の気質を持っていて、賠償の末になんとか隣国との講和を取り付けることができたのだ。
そしてその兄の涙ぐましい外交努力によって、エリクシーヌは先日ようやく帰国した。
エリクシーヌが己をお荷物と蔑むのは、友好どころか隣国との戦争の切っ掛けとなり、なおかつその身柄引き渡しのため母国に多大なる迷惑をかけたからだ。
王であるアンリには気にするなと言われているが、城内の口さがない者はどうして帰ってきたのかとエリクシーヌを悪く言う者もいる。
帰ってきても居場所がない、エリクシーヌはそう感じていた。
とはいえようやく成った講和だ。今夜の夜会も、戦争の終わりを祝うための祝賀会だった。
長かった戦争が終わり、王都のあちこちでは平民にも食事や酒がふるまわれている頃だろう。自室にいても国民の喜びようが伝わってくるようだった。
エリクシーヌはアイリーンによってコルセットを締め上げられながら、未だに生きて故郷にいることが信じられずにいた。
いつ殺されるとも分からない人質生活。
ずっと生きた心地がしなかった。孤独感に苛まれ、自ら命を断とうと考えたこともある。
そして帰国した今も、アイリーン以外の誰もがエリクシーヌを腫物のように扱う。
エリクシーヌは孤独だった。
***
国を挙げての祝賀会。
長きにわたる戦争が終わったことを祝う日だ。
貴族に名を連ねる者は各々のできる最高の装いで王宮に集まり、国最高の楽団が音楽を奏でる。
だが賑やかなのは城内のみにとどまらず、今頃は王都のあちこちで歌ったり踊ったりの大騒ぎ。その証拠に、王都を彩る明かりがあちこちに灯され、楽し気な歌声や国王を讃える声が絶え間なく響いている。
戦乱の最中に王位を継いだ若き王の前には、彼を讃えるために長い行列ができていた。
実際に戦った騎士たちは、家族との再会を喜び今頃戦いの疲れを癒している頃だろう。
ちなみにエリクシーヌはと言えば、玉座の横に一堂に会した王族の端っこで、ぼんやりと立ち尽くしていた。
当然ながら婚約は破棄されているので、エスコートしてくれる相手もいない。
それに王族といえば聞こえはいいが、挨拶を受けているのは主に国王を中心とした現国王家族だ。
やはり、病気か何かを理由に欠席するべきだった。
エリクシーヌは後悔していた。
こんな死にぞこないの顔など誰も見たくないだろう。
その証拠に、挨拶をしに来る者の中にはエリクシーヌが戻ったことを知らなかったのか、ぎょっとした顔をする者もいた。
なのでせめてもと思い俯いていたら、目の前に人の立つ気配がした。
「お加減がよろしくないのですか?」
低い声だった。
心配させてしまったと思い、エリクシーヌは慌てて顔を上げた。
ご心配なくと返事をするつもりだったのだが、喉から漏れたのは思いもよらぬ言葉だった。
「げっ」
彼女の目の前に立っていたのは、天敵ともいえる相手だった。
エンドリウヌの若き宰相オリヴィエ・フォン・ベルナール公爵だ。
オリヴィエは高位貴族の中でも国王アンリと年が近かったため、早くから学友として城にやってきていた。
当時のオリヴィエは天使のように美しい子供だった。
絹のように滑らかな銀髪で、目はアクアマリンのように透き通った水色をしている。
だが中身は天使と程遠く、エリクシーヌに対して意地の悪いことばかり言うのだ。
幼かったエリクシーヌは、その言葉に何度も泣かされた。
年頃になってからはすっかり疎遠になり、帰国してから宰相になったと知らされ驚いたほどだ。
オリヴィエはエリクシーヌの反応がお気に召さなかったのか、眉間に皺を寄せた。
だがその表情も、すぐに迫力のある笑みに変わる。
「これはこれは。王女殿下に置かれましては、喉の調子がすぐれないご様子」
どこかから黄色い悲鳴が聞こえた。
オリヴィエの笑顔が、どこかのご令嬢の琴線に触れたらしい。
だが目の前でその顔を見ているエリクシーヌは、一癖も二癖もある笑みに怖気を禁じ得ないのだった。
それにしても二年の間に、オリヴィエも随分変わった。短かった髪は肩よりも伸びているし、落ち着きも出てすっかり大人の男性といった雰囲気だ。
その上役職も文官としては最高位の宰相なのだから、女性からモテるのは当たり前だろう。
エリクシーヌはなんとかその場を取り繕うために笑みを浮かべた。
「お久しぶりですねベルナール卿」
「どうか昔のようにオリヴィエとお呼びください。お兄様でも構いませんよ」
かつてエリクシーヌが、オリヴィエお兄様と呼んでいたことを揶揄しているのだ。
無理して浮かべていた笑みが引きつる。
「お恥ずかしい。昔のことなど忘れてくださいな」
なんとか態度を取り繕っているが、エリクシーヌは全身に無数の視線が突き刺さっているように感じられた。
時の宰相といわく付きの王女が言葉を交わしているのだ。
それがどうにも宮廷雀たちの好奇心を刺激するらしい。
エリクシーヌがどうやってこの場を切り抜けようかと考えていると、楽団が奏でていた音楽が盛り上がり、そして演奏が唐突に途切れた。
見ると、玉座に座っていた王が立ち上がり、こちらを見ている。
一体何が起こるのかと、貴族たちが立ち止まり漣のように騒めいた。
「論功行賞は明日だが、此度の講和の最大に功労者を、ここに労いたい」
アンリの声が響き渡る。
式次第にはそんな予定あっただろうかと、エリクシーヌは不思議に思った。
そしてその疑問は、驚きに変わる。
「宰相、ここへ」
呼ばれたのは、エリクシーヌの目の前にいたオリヴィエだった。
戦争と終焉と目の前の男が結びつかず、エリクシーヌは混乱した。
一拍置いて、会場には拍手と祝福の言葉が溢れる。
オリヴィエは呆気に取られているエリクシーヌを意味ありげに見つめ、それから小さく呟いた。
「失礼、すぐに戻ります」
返事をする前に、オリヴィエはこちらに背を向けて玉座に向かって歩き出していた。
別に重要な話をしていたわけではないのだから、戻ってこなくてもいいのに。
遠ざかる背中を見つめながら、エリクシーヌはぼんやりと思った。
オリヴィエが王の前に跪くと、玉声を待つように会場内が静まり返った。
静かな会場内に、アンリの声が響き渡る。
「オリヴィエ。私財を投げ打って輜重を集め、更には内政のみならず外交に尽力し、よくぞ我が国を終戦導いてくれた。全ての国民に代わり、礼を言う」
その言葉に呼応するように、一層大きな拍手と歓声が響く。
エリクシーヌは驚いていた。
どうやらオリヴィエは、今回の講和にかなり寄与したようだ。そうでなければ、王がここまでの言葉をかけるなどそうあることではない。
それに参加者の反応を見るに、オリヴィエの功績は周知の事実であるらしかった。
歓声がひと段落つくと、それを待っていたかのようにアンリが口を開いた。
「ゆえに褒美として、望みのものを与えよう」
この言葉は、お約束のようなものだ。
大抵の場合、名誉と応えて勲章を贈られることになる。
過去にはこの言葉を真に受けて金品を要求した者もいたらしいが、その者は無粋であるとして歴史書ではひどくこき下ろされている。
歴史にも精通するオリヴィエのことだ。そんな過ちを犯すとも思えない。
ところがいくら待っても、オリヴィエは口を開かなかった。
会場の人々がこれはおかしいと思い始めた頃、ようやく彼は口を開いた。
「陛下。その言葉に偽りはございませんでしょうか?」
思わぬ返事に、人々は動揺した。
唯一、アンリだけが泰然と友の言葉に耳を傾けていた。
「勿論だとも」
その時だ。
アンリの娘であるマルガリテが何かに期待するように一歩前に進み出た。
それを見ていたエリクシーヌは、ああと納得した。
マルガリテはエリクシーヌの姪ではあるものの、年は四つ違いの十六歳だ。既に適齢期のはずだが、未だ婚約者すらいないという。
おそらくマルガリテとオリヴィエは恋仲で、オリヴィエはこの機会を利用してマルガリテを妻にと望むつもりなのだろう。
そう考えれば私財まで投げ打って、講和に尽力したことにも説明がつく。
いくら公爵家とはいえ、王家のそれも直系の娘を妻に迎えるというのはなかなかに難しいことなのだ。通常王家の姫というのは、大抵がエリクシーヌのように他国に嫁ぐことになる。
アンリの表情からも、あらかじめオリヴィエとアンリの間に密約があったであろうことは予想がついた。
娘を友人の妻とするために、アンリはあえて大勢の前で彼らの結婚を認めようというのだ。
なんだかその光景が眩しすぎて、思わずエリクシーヌは一歩後ろに下がってしまった。
婚約者と結婚もすることなく人質となっていたエリクシーヌと違い、あの二人のなんと晴れやかな事か。
新たなカップルの誕生を、人々は大いに祝うだろう。
卑屈だと分かっていても、その光景を目の前で見せられるのは余りに憂鬱だ。
『やっぱり、こなければよかった』
いっそこの場から逃げ出したいと思うのに、まるで靴が床に縫い付けられたかのように身動きすらできないのだった。
顔に笑顔を貼りつけて、ただその場に立っている。
「それでは……」
オリヴィエが口を開く。
人々は固唾をのんでその先の言葉を待っていた。
「エリクシーヌ様との結婚を、どうかお許しください」
会場が大きくどよめいた。
一方エリクシーヌはと言えば、言葉の意味が分からず頭が真っ白になっている。
『さっきまで私と喋ってたから、名前を言い間違えたの?』
エリクシーヌがそう思ってしまったのも無理はない。
なにせ彼女はいわく付きで、結婚相手として厭われこそすれ望まれることなどないと思っていたからだ。
ところがどうして、アンリは悠然と頷き言った。
「エリクシーヌが望めば、その結婚を認めよう」
更に立ち上がったオリヴィエもまた、間違いを正すでもなく玉座を離れ、こちらに歩いてくる。
人々はまるではじめからそう決まっていたかのように、オリヴィエのために道を空けた。
そしてエリクシーヌの目の前に立つと、改めて跪き彼は言った。
「どうか私と結婚してほしい」
あまりのことに驚きすぎて、エリクシーヌは言葉にならなかった。
まさかこんな形でオリヴィエが戻ってくるなんて、想像できるはずがないだろう。
「あ……あ……」
そしてエリクシーヌの混乱は、ここにきて限界を超えた。
彼女は驚愕のあまり、その場で卒倒してしまったのだ。
なのでどんな思いでオリヴィエがこの二年間を過ごしてきたのか、それを彼女が知るのはしばらく後のことになる。




