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灰色の使者

2.灰色の使者


「ォオオォオオオオン!ォオオォオオオオン!ォオオォオオオオン!」


来る。近付いてくる。音は徐々に大きくなっている。

声の主は迷いなく俺に向かっている。

恐ろしい。繰り返される咆哮が精神的な鎖となって俺の身体を縛り付ける。

発せられる気配は魔法使いが炎を放つ前に、俺へ向けていたモノと似ていた。


唇が乾く。

肌がひりつくような緊張。


心臓を掴まれた気分……これが、殺意なのか。


ぶるりと震える。

勿論武者震いなどでは無い。


命を狙われて恐怖が滲みだした。

姿の見えない何かが俺の方向へ確実に迫っている現状、今すぐにでも踵を返して逃げ出したい。


だが。


――ああぅあぁぁぁうあぁあぁぁぁあぅ


既に臨戦態勢を取った化け物は即座の逃走を許さない。完全に戦う気でいるようだ。

こうなると俺は逆らえないので身を支える事に集中する。


扇状に広げられた五本の肉の槍、全て正面のモノクロの影の奥へ先端が向けられている。


釣られるように俺も影に目を凝らして……接近する声の正体を目視した。

俺はソレを目にしたことを後悔する。


「っ!また、化け物かよ!?」


想定していたことだが肩の震えは止められない。悪意ばかりが寄ってくる理不尽に叫んだ。


ソレは大地を捲りあげながら二足歩行で走る。

全身は散らばる木の葉のように灰色。


目測で二メートルは超えるであろう体躯と筋骨隆々とした屈強な姿は、純粋な暴力の権化として生命の危機を煽る。

まるで巨人だ。


だが最も異質な点として、ソレには



顔が無い。



巨人が咆哮した。


「ォオオォオオオオォオオォオオオッツ」


――あああぁぁぁあぁあぁぁぁあう


奇怪音に対抗するように化け物も特大の呻きを上げる。


巨人が繰り出したのは人の頭を簡単に包み込め、握りつぶせるほどの手のひらをガチガチに固めた拳。

瞬く間に距離を詰められた俺はヤツの間合いの中にいる。


俺にはこれを防ぐ手段はなく、拳へ抗ったのは化け物だった。

肉槍が膨張・伸縮を挟んで拳を迎え撃つ。


この時の俺は必死に身体を支えながらも――どこか楽観があった。


自分が主体ではない気持ちが強かった。


化け物同士が激突しているなと客観視していた。


脳裏に浮かぶのは化け物に尽く痛めつけられ、殺された魔法使いの姿。

化け物の圧倒的な強さは記憶に新しい。


次に映るのは拳ごと巨躯を貫かれる巨人の姿――これが幻視に過ぎなかったことを、天地森林の景色を回り見た俺は愕然とした思いで知る。


空中を切り揉みしながら、強烈な勢いで木へ叩きつけられた。


「ぐっ、ァがハッァア!?」

(何が!?)


背中が折れると思うほどの激痛に喘ぎながら困惑する。ザックがなければ本当に折れていたのではないか。


化け物が接触した瞬間、俺は倒れ伏していた。


起きたことは単純だ。


巨人と真正面から打ち合った化け物は俺毎吹き飛ばされた。

圧倒的な身体能力の差が生む破壊力の餌食となった。


霞んだ視界の中で巨人の姿が遠く見える。

それだけ遠くに殴り飛ばされたということ。

だがそれはやつが走り出せば数秒で埋まる程度の距離でしかない。


痛みがあった。苦しみも。焦りも。


でも、それ以上に。

俺の中で畏れと共に積み上がっていた化け物の絶対性が、壊れた。

嫌悪しながらも結局は自らの生命維持を化け物に依存していた俺にとって、絶望的な死の宣告である。


化け物は、強い。だが俺は貧弱で……故にこれが敵わない相手と出会った時、俺は死ぬのだ。


死ぬんだ。


(考えたことも……いや、考えなかった)


自分が死ぬことを考えながら生きる者などひと握りだろう。そして死を前にして覚悟できる人間もまた、少ない。


俺はどちらにも当てはまらない軟弱者だった。


死にたくない。


巨人はまだ生きている俺の方へ走り出す。


死にたくない。


「ウ゛ぐあッ、ぐるナッ」


(来るな、来るなっ、くるなぁあッ!!)


倒れた体を引き摺って逃れようとする。

その度に左腕から骨が潰れるような苦痛が広がる。

事実化け物は潰れていた。

あらゆる感覚を奪っても痛みだけは如実に伝えてくる化け物の悪辣さが嫌になる。

そいつも今は役に立たない。


俺一人で何ができるってんだ。


だが痛みを呑み込んで尚俺は足掻く。

死にたくないから。安全が欲しいから、怪物の森を抜け出したい。落ち着ける場所で安寧を手に入れてやる。


そして奇怪な腕ともおさらばして、それで、それで……。


それだけか?


俺の声で、俺では無い誰かが語りかけて来た。時間が大きく引き伸ばされたような、これが走馬灯なのか、わからない。


それだけか?


また聞こえた。知るかよ。それだけも何も、俺の願いはこれしかない。


生き延びて、森を抜ける。

安全な場所に腰を落ち着ける。

腕に取り憑いた化け物をどうにかする。


ハッピーエンドじゃないか。

幸せを掴んでめでたしめでたし、だろうが。


忘れてないか?


呆れたような声だった。

この非常時に執拗いぞ――憤り掛けた俺は、続く言葉で我に返る。


帰らないのか?



(そうだ、帰るんだ)



化け物から逃れよう。

恐ろしい森から逃れよう。

危険から逃れられる場所を探そう。


物事には率先して考えるベき順位がある。そうやって化け物の影響から逃れようとしたのが俺だ。

判断が間違っているとは思っていない。だが同時に、あらゆるものを遠ざける思考が一番大事で、困難な道を考えることすらさせなかった。

今の道が最も険しいと考え込んで他の可能性を捨てていた。


ここを出て化け物を取り除く。いいだろう、でも根源にあったものはなんだ。


(帰りたいんだ。元の場所へ)


決して忘れるべきではなかった。

熱いものが込み上げてきた。

緩やかな時が正常な流れを取り戻す。


――バキッ


「ォオオォオオオオン!」


巨人が両手を振り上げていた。

オーバーキルだろ畜生が。片手を下ろすだけでも俺はズタズタのミンチに早変わりするってのに。


俺に出来ることは無い……俺には。


無意識の行為だった。

手を掲げる。


ありったけを注ぎ込んだ。


轟っ!!


込み上げてきた熱は、右掌に真っ赤な球体として存在を示す。


深い紅の色。俺はこれを知っている。

それは火傷のように記憶から消えない、魔法使いの炎。

俺の中にある純粋な脅威のひとつ。


何故使えているかなど今は考えない。

手のひらにある炎を生み出す背景もまつわる由来も俺は知らず、ただ感覚で理解した。


俺は炎を操れると。


今まさに叩きつけられようとしている剛腕へ向けて、火球を握りつぶす。


荒々しい猛火が咲き誇った。


「ォオ――」


爆発と爆風。

至近距離から余波を浴びた俺が炙られながら目にしたのは、半身を炎に纏わり付かれて藻掻く巨人の哀れな光景だった。

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