出立
1.出立
夢を見た。
左腕が、趣味の悪いクリーチャーに変貌して、漫画に出てくる魔法使いのような男に燃やされる夢。
左腕の怪物が男に襲いかかり男は深紅の炎と不可視の盾を武器に抗うも胸を貫かれ即死した。
死んだ男の身体から左腕は何かを吸い取り、取り込まれたそれは腕を伝って、俺の身体へ――
「あぁあああぁァア゛!?」
跳ね起きた。
悪夢を見ていた気がする……とても恐ろしい、化け物を。
――ぁぅあ。
掠れた呻き声。
左腕から香る鉄の臭い。
「クソ、くそ、くそが……」
終わっていなかった。俺は未だに夢の続きに囚われたままか。
悪態を付く、そうでなければやってられない。保てない。起き上がった俺は直ぐに周囲を確認した。
確か……。
「洞窟から出て、森だったな」
周りは青々とした木々に囲まれている。生い茂る植物の海は深く、ここは完全に大自然の領域なのだと思い知らせるように。
あの場所は最初にいた部屋を除けば自然の洞窟を荒削りした穴蔵のような所だった。
魔法使いの男が住んでいたのか、所々に生活痕が残っていたのを目にし気分は重くなった。
複雑な構造はしていなかったので抜け出すのは簡単だった。
深く息を吸う。冷たく、濃い独特な森の臭いが鼻腔に広がる。
あまり好きな臭いではない。だが血の悪臭に比べれば、こんなものは平気だ。
次に身の回りを調べる。
俺は洞窟――この場合あそこは魔法使いの拠点か――から出ていく際に幾つかの物資を拝借した。
男が着ていたものと同じローブ。
雑多な道具が詰め込まれたザックに古臭い皮袋。表面に皮の張られた杖。
赤い宝石が嵌められた指輪に、恐らくは、食料品も。
何らかの皮で作られた黒い書物もあった。
古く、革製のものが多い印象。
持てるものは全て取ってきた。
やっている事は完全な窃盗だ。しかも俺の意思では無いが、本来の持ち主を殺している。
それが例え向こうから殺しに来た結果としても、余りに突然の事態の連続が冷静さを削り落としてくる。
「切り替えろ、切り替えろ……」
心に重荷が加わる度に、呪文のように繰り返す言葉。
切り替えろ。いつも通りに。割り切れば楽だろうが?
誰から教えてもらったのだったか、よく思い出せない。
「周囲の確認、よし。道具、よし。身体は……うっ」
こんな所で横たわっていたせいだろう。起き上がった俺の体には見たこともない虫が集っていた。気持ち悪い。
慌てて叩き落とす。ローブに擦れた土や植物の種まで全て汚れを削いでから、漸く次に移れる。
(この森を、出る)
そして安全な場所を見つける。
最早ここが尋常な世界ではないことを俺は理解していた。
睡魔に逆らえず倒れてしまい、何事もなく目覚められたがここが安全地帯である保証は全く無いのだ。
化け物、魔法使い、そして空を見上げれば――。
「月が2つなんて、馬鹿な話があるかよ……」
群青色の星空には赤と青の巨大な月が浮かんでいた。そもそもあれは月と呼べるのか。
洞窟を出た時は日暮れだったが、起きた時には既に辺り一帯が闇に包まれている。
不思議なことに俺の目は昼間ほどとは言えないものの、行動が不自由にならない程度には視界を確保出来ていた。
こいつが何かやったのか?思い当たる節など左腕の怪物以外にない。
魔法使い相手に大暴れした後からは相変わらず沈黙を続けたままである。稀に呻くのは変わらないが。
結構、そのまま眠っていてくれ。動かなければただの左腕にしか見えない。
ただの左腕であれば良かったのに。その時は魔法使い相手に死んでいただろうがそれでも尚強く思う。
失った感覚は戻っている。
まるで健全な肉体を取り戻したようだ――
そんな淡い願望じみた期待を抱くも、よくよく注視すれば人間の腕とは言えない生々しい表皮に怪物性を垣間見た。
化け物め。
この腕は治るのだろうか。
――ぅ。
「――っと、見るな見るな」
目的の順番が変わるのを振り払った。
やるべき事を履き違えてはならない。
俺がこれから目指すのは森からの脱出であって、腕を元に戻したいと考えながら化け物を眺め続けることじゃあない。
差し当ってはどのようにして森を抜けるか考えなくてはならない。
サバイバル経験者でもあればこんな状況難なく突破できるのかもしれないが、俺は素人だ。
街暮らしで自然の中に入り浸った経験もない。
思い浮かぶのは魔法使いの男。人間がここにいたということは森からここへ繋がる道がある可能性が高い。
俺も上手くそこを見つければ脱出が叶うだろう。
中々に建設的な発想が出たのではないか?
だが少し見渡しても早々に見つからない。
でも湧いた希望に少しだけ心が軽くなった。
今すぐにでも、草の根を掻き分けてでも道を探し出したい。
が、今は夜だ。ある程度は見えるといっても明るい方が動きやすい。
闇に紛れて獣が現れるかもしれない危惧がある。
道具も見直そう。
明日出直すことにした俺は、現在最も安全であろう洞窟の中に戻ることにした。
翌日。
洞窟には寝床が無かったので寝起きの身体が酷く傷んだ。化け物は相変わらず反応を見せない。
あの魔法使いはどうやって夜を過ごしていたのだろうか。
空を見れば太陽が2つある……なんて訳はなかった。
頭上を覆う木の葉の隙間から見えるのは蒼天の空。眩い太陽はひとつ。
時計もなく時間感覚に自信のなかった俺にしては運良く、日が登り始めたタイミングで動き出せたと思う。
想定していた道とやらも何とか見つけ出せた。
道というよりは道標か。
森の地面に明らかに人工物であろう黒い杭が突き立っていたのだ。夜に発見出来なかったのは色のせいだろう。
暗い中でこれを見つけるのは酷だな。
出口に繋がっていることを祈り、踏み出す。
点々と続く杭を追って森を進む。
足場は悪い。
何度も転げそうになった。その度に洞窟から持ってきた杖が支えになる。
日が真上まで昇った。
湿気が弱い為か蒸し暑さは感じない。ひたすら疲労が溜まる。
パッと見てそうは分からないが実際歩いていると不自然なまでに足元が整っている。
これが通り道であるという線は確かだろうな。
森は静寂に包まれている。
洞窟周りに居た虫さえ、鳴りを潜めているように感じる。
季節は秋だろうか?進む内に地面が灰色の落ち葉で埋まってきた。
木々の表構もどこか暗い。
段々とモノクロームな世界に入り込んだような、不気味な錯覚が胸を締め付けた。
湿った風が髪を撫でる。
暗い、怖い、そして左腕が熱い。
(何も起きるな、何も来るな)
周囲の風情が変わりゆく様をはっきりと自覚して、俺は祈った。
化け物、魔法使い、異世界。もう沢山だ、俺は充分理不尽な目にあっているじゃないか?
これ以上は無いだろう、神様。
ぁぁぅあぁあうぁぁぁあ。
左腕から感覚が消え失せる。
不快な鳴き声で化け物が起きた。
擬態が解け、鋭利な触手が眼前で広がる。
ゆらりゆらりと人の肉体を簡単に貫く凶器が蠢いている。
重心のバランスが崩れそうになって慌てて体勢を整えた。
(まさか……)
……余りに能動的な様を見て俺は嫌な予感を覚える。
こいつが積極的に動いたのは一度だけ、魔法使いに殺されかけた時。
それ以外では左腕の形は崩しても比較的大人しくしている。
ではこいつが動き出す条件とは?
まだ正確に割り出せるほどの付き合いでもない。躍動を目にしたのも一度だけ。
でも少し、これと繋がっている俺には分かる気がした。
他者に見付かった時?それは、あるだろう。だが魔法使いを目前としても最初は動かなかった。
確信に至っていない、が、これが動き出すのは……。
脅威が迫るとき。
「――ォオオォオオオオン」
化け物に負けず劣らず奇怪な雄叫びが静寂を打ち破る。
音に乗ってやってくる身体を竦ませる怖気。また、尋常とは言えない存在との遭遇を避けられないのだと心底痛感した。
この世に神は居ない、いるのは化け物だけか。




