魔女が生まれた日
魔女とは魔法の深淵を覗いたもの。
あらゆる不可を可能にしてみせる奇跡の体現者。
故に魔女に不可能はないとされている。
魔女という存在は、目指すものではなく信仰するもの。
それが人々の間での共通の認識であった。
魔女という存在は人であり人ではない。
より正確に言うのならば、魔女の素質を持って生まれた人間が魔女と成り得るのだ。
それは残酷なまでの絶対の定めであり、決して覆る事はない世界のルール。
人と人との間に生まれ、人として生まれ落ち、そしていずれは完全な魔女へと至る。
魔女に至る段階で、その者は人という枠組みを逸脱する。
故に人であり人でないのが魔女という存在。
彼女らはこの世界にとって、人の形をした概念のような存在なのである。
◇◇◇
とある小国の辺境の小村落。
どこまでも小さな箱庭に、今生まれんとする少女が一人。
「がんばれ……! がんばれ……」
「……ふぅーっ! …………フゥーッ!」
お世辞にも清潔とは言い難いボロ屋の中。
男は女の手を強く握りしめ、祈るように女を鼓舞し続ける。
小村の住民はみな顔見知りのようなもの。
「リラ! ぬるま湯は準備できたかい!?」
「ごめん、まだ!! 今持ってくるばあさま!」
彼女は元気よく、しかし至極真面目な表情で返事をする。
「はよしないか!!」
「うん!!」
ドタドタと慌てて部屋を飛び出したのは、八歳程の少女であるリラと呼ばれた少女。
若い夫婦の隣に住んでいる老婆は、この村で既に二十人以上の出産を手伝ったベテランであり、そんな老婆はいま忙しなく動き出す村の女衆をまとめ上げて、テキパキと指示を出していた。
もちろんリラもその中の一人として立派に働いていた。
小さな村での出産は村ぐるみ、総出で手伝うのが常である。
ちょうどリラが桶にぬるま湯を張ったところで、厨房に一人の少女が入ってくる。
「あ、ラナ姉ちゃん! ぬるま湯ってこれくらいでいいよね?」
ラナと呼ばれた十代半ばの少女は、桶に張られたぬるま湯に指をいれてその温度をたしかめる。
「うん、ちょうどいいわ。リラ、ばあさまのところにこの桶を持っていける? 私は煮沸している布を取り出してくるから。こぼさないように気をつけてね」
「わかった!」
ラナに言われた通り、桶の中の湯をこぼさないようリラは慎重に運ぶ。
その時、途端地面が大きく揺れた。
「わっ!」
リラは突然の事に驚き、桶をひっくり返し尻もちをつく。
その揺れは誰もが立っていられないほどの、強烈な揺れだった。
それなのにもかかわらず、ボロ屋といっても差し支えない、木造建てのこの家は一切崩れる気配もなく。
しかしそれを不思議に思うものは誰もおらず、今は目の前の命を取り上げる事にみな必死であった。
軽い地震程度ならよくある事だ、と。
案の定、揺れはすぐに収まった。
そして大きな揺れが収まると同時に赤ん坊の大きな泣き声が聞こえ、リラは今の自身の立ち位置を思い出す。
もう一度、厨房へ戻って桶をもってぬるま湯をはり、すぐさま赤ん坊の元へ。
「ばあさま、遅くなってごめん! 地面が揺れて驚いてひっくり返っちゃった」
「ああ、もう大丈夫さ。エミラも赤子も元気だよ」
「……リラちゃん、ありがとうね」
エミラと呼ばれた元妊婦は疲労を顔に浮かべながらも、幸せそうな表情。
その腕の中には小さな赤子を抱いていた。
地揺れと共に生まれた彼女は、その日エルネスタと名付けられた。
◇◇◇
エルネスタが生まれて早三年。
彼女は平凡な両親とは似ても似つかない存在であった。
生後すぐに言葉を覚え、一つの事を教えられれば、ただ知識を覚えるだけでなく、その思考は百にも千にも発展した。
それだけならばトンビが鷹を生んだと言えるだろう。
しかし彼女の容姿は両親のどちらにも似ず、一切の歪みがない端正な顔立ちはあまりにも非現実的な愛らしさで、白い髪に赤い瞳はまさにおとぎ話の妖精のような容姿。
両親の容姿は決して悪いわけではないが、至って平凡な顔立ち。
父ドルゴはくすんだ茶色の髪に緑の瞳。母のエミラもまた茶色の髪に青い瞳。
どちらにも似ず、かといって祖父母の影響でもない。
小さな村で代々、村の長として過ごしてきたベルダー家にも過去、そのような者はいないと思われた。
ならば母エミラの不義が原因なのでは、と村中で面白半分に囁かれる始末。
それでも父と母の仲は良好であり、両親はエルネスタを心底可愛がっていた。
そして運命の日ともよべるエルネスタが五歳になった日。
一人の愛らしい魔女と名乗る少女が村に現れた。
◇ ◇ ◇
「お、お嬢ちゃん、お一人でどうしたんですかい? 何かこの村にご用事でもあるの、でしょうか?」
こんな小村に小綺麗なとても愛らしい人形のような少女が一人やってきたのだ。
エルネスタの愛らしい容貌に見慣れた村民達も、流石にこれは貴族の少女かもしれないと思い当然不思議に思う。
村人達は作業の手を止めて、その不思議な少女を遠巻きに眺める。
しかしそんな視線は意に介さず、少女はない胸を張って、堂々と言う。
「エルネスタに会いに来た。誰ぞ知っているものはおらんか?」
歳は十歳程といった程度。
エルネスタとは五つ程は離れているだろうが、村長ではなくエルネスタを呼ぶあたり、どこかで仲良くなった少女なのだろうか、と村人達は解釈した。
しかし、どうみても貴族の令嬢のような美しい少女に村人達は遠巻きながらに萎縮する。
そんな時ちょうど近くにいて、萎縮せず動けずにいたエルネスタと仲の良いリラに、村人の一人が声をかける。
「おーい、リラちゃん。エルちゃん呼んできてくれんかあ?」
「あっ、はーい!」
リラはすぐさまエルネスタの家へと走り出そうとするが、それを止めるように少女は、待てとリラを引き止める。
「ついでに此処の代表者にも会いたい……あとは……ん――ひとまずエルネスタの両親も、であるな」
妙に偉そうで、年齢にそぐわないような言葉を話す美少女。
やはり貴族なのだろうか?
リラは不思議に思いながらも、この少女が悪人であるとも思えない。
「えっと、エルネスタちゃんのご両親がこの村の代表者なんですよ」
「それは重畳、手間も省けるな」
ニコリと笑う少女につられて、リラも思わず微笑む。
そのまま二人でエルネスタの住む村長宅へ足を進めるが、滅多に人の訪れない村に貴族の令嬢のような少女はあまりにも目立っていた。
少女はまったく視線を気に留めていないが、流石にリラは萎縮せずにはいられず思わず小さな娘に対する口調で声をかけてしまう。
「私はリラっていうの。貴方は?」
貴族の令嬢だったらヤバイと、咄嗟に自分の口調に気づいてサっと青ざめるが、少女の次の言葉にリラは逆に顔を赤くする。
「わしは〝遡及の魔女ザンドラ〟じゃ。人間からしたら、始まりの魔女といった方が分かりやすいであろうか?」
ここは魔女信仰が特に強い国。
そして辺境の村であってもそれは当然のことで、魔女は崇め奉る存在であるのだ。
その名を自分のものとして紹介したことによって、リラは一気にこの少女への嫌悪感を覚える。
だからこそ、冗談は言うものではありませんよ、とリラは嗜めるつもりだった。
「あのね――」
「リラお姉ちゃん。お客様?」
説教は突然やってきたエルネスタによって、止められる。
しかしエルネスタはリラの隣の少女を見ると、口を半開きに瞠目したままボーっと立ち竦んだ。
エルネスタは昔から聡い子であり、村長の娘だけあって所作にも品があった。
それなのに、突然の訪問者相手にこのような淑女としては、少し問題のある行動など取る娘ではない、というのが村人達の共通認識。
もしや自分たちと同じく、少女がいかにもな貴族令嬢である事に驚き言葉も出ないのかもしれない、とみなが思う。
珍しく醜態を晒すエルネスタと、突然の高貴な訪問者に興味がわいた村人達が続々と集まってくる。
どちらかというと、あまり人の訪れない村にきた得体の知れない訪問者の方への興味が多かったが。
状況が良く分からない村人達は、呆け続けているエルネスタに何かあったのかと途中で集まった村人達は思うが、それもどうやら違うらしい。
徐々に意識が浮上してきたエルネスタは、少女を見て瞳を輝かせんばかりに微笑む。
「…………お姉さんすっごく綺麗な虹色」
「ほう? 見えるのか? これでもそれなりに高度な隠蔽しているつもりではあったのだが。――やはり最後の魔女は特別か――」
ポツリと呟いた言葉は誰にも聞かれず。
聞こえていたとしても意味の分かるものはいなかっただろう。
何かぶつぶつと呟いている少女をリラは怪訝な様子で見つめたあと、戸惑いながらエルネスタに視線を向ける。
「えと、なんだかこの御方がエルちゃんと村長様達に用があるみたいなんだけど……」
「そうなんですね、じゃあお父様とお母様を呼んできますね」
そう言ってエルネスタが振り返ったタイミングでちょうど騒ぎを聞きつけた、エルネスタの両親がやってくる。
村長夫妻が何事かと問う前に少女が一歩前に出て、尊大な態度で自己紹介をする。
「お初にお目にかかる。エルネスタのご両親殿。私は遡及の魔女ザンドラ。一般的には始まりの魔女とも言われておる」
既に村人の大半は、仕事の作業をほっぽり出し、様子を見守っていたため、たとえ相手が貴族令嬢であとうとも、少女のその言葉に皆が憤慨し檄を飛ばそうとした矢先、ザンドラを包み込むように膨大な虹色の魔力が現れる。
魔女は虹色の魔力を持つ。
魔女は人相書きを嫌い、自身の魔女としての証明は、魔女特有である虹色の魔力で行われる。
それは辺境に住む、農奴達の子供達であろうと、誰もが知っていること。
しかし、眼の前の出来事に、誰もが頭が追いつかないでいた。
◇ ◇ ◇
「この娘が……、エルネスタが……魔女様、ですって?」
現村長であるエルネスタの父ドルゴは、瞠目する。
母エミラにいたっては言葉を発さず呆然自失といった状態。
魔女様という存在と対面しているだけで、二人は緊張で気を失いそうになっていたが、彼女が伝えた言葉は端的。
エルネスタが魔女であるということ。
正しく言い換えるならば、これから魔女となる存在だということ。
「うむ、彼女は六番目の最後の魔女。エルネスタが生まれた日に地揺れがおきたであろう? 魔女が生まれる時は決まって大きな地揺れ共に世界に一つの空間と大地が突如として現れるのじゃ。そこが魔女の住処となる」
愛らしい童女とも呼ぶべき魔女の名はザンドラ。
白銀の長髪が足首まで伸びており、藍の瞳は神秘的。
まだ五歳のエルネスタよりは大きいが、それでも頭一つ分くらいしか身長は変わらない。
「わしはエルネスタが生まれた頃より監視をしておった。本来どの魔女も生まれて間もなくすぐに気味悪がれたりと、ぞんざいな扱いを受けた者ばかりだったが……。どうにもエルネスタは随分と愛されて育っておったからの。すぐに引き取るのも可哀想と思いこれまで待っておったが、流石にこれ以上は待てぬ。これからはわしの弟子として早急に魔女となってもらわねば困るのだ」
ザンドラの話を聞いて、ドルゴとエミラは涙を流す。
「エルネスタがまさか魔女様だったなんて……」
しかしそれはこれから引き離される事への悲しみの涙ではない。
あまりの光栄に感極まった涙だった。
魔女とは世界における人の形をした管理者であり、信仰を集める絶対の存在なのだ。
そのため二人の反応はなんらおかしい事ではないのだが、ザンドラはその涙の歪さに眉を僅かに顰める。
「私達の子にしては、どうりで出来すぎた子だと思っていたけれど……エルネスタ様が魔女様だというのならば納得です」
「私ごときが母体となりご尊名を付けさせて頂いた事をベルダー家、最大の誇りに思いますわ」
そこにいたっては、もう既に親と子の関係はなくなっていた。
その事に当然エルネスタは戸惑うが、魔女の存在は誰もが知っており、無論エルネスタ自身も。
自分がそのような存在だというのならば、両親の反応も納得はできずとも多少の理解はできた。
しかし心はザワザワと。
その感情を上手く言語化するには、エルネスタにまだ人生経験が足りていなかった。
◇ ◇ ◇
「エルネスタ、もう村の者達への別れの挨拶はよいのか?」
すぐにでもザンドラの住処へ移り住むのだと言われ、エルネスタは村では姉のように慕っていた少女リラへと別れの挨拶にと訪れたが、リラは両膝をついて両手を組み、祈り始めた。
それでもエルネスタは今までの感謝の言葉を告げると、恐れ多いと狼狽される始末。
あまりに急変した態度に恐れをなして、逃げるようにしてザンドラの元まで戻ってきた。
「……はい、ザンドラ様。あとはお父様とお母様に挨拶をして……村を出ます。持っていくものも、特にありません……」
「ふむ……そうか」
魔女信仰は大陸全土に普及しているが、そんな中でも特に魔女信仰の篤い国の小さな村。
彼らにとっては貴族でさえ、遥か雲の上の存在なのだ。
そしてそんな王侯貴族達でさえ傅く存在が魔女である。
ゆえにその信仰は計り知れない。
つい先程まではただの村の子供であったというのに、みなが一斉に自分を見る目が変わり、傅く。
エルネスタにとっては事情はどうあれ、その心中を端的に言い表すならば、不快、であった。
「それと私の事はザンドラ様ではなく、ちゃんと一人前になるまでは師匠と呼ぶようにの」
「……はい。師匠」
ザンドラも村人達の変わり身の早さに多少の歪さは感じ取っていたようだが、どうあれ彼女は始まりの魔女として有名であり、良くも悪くも魔女として信仰を受け取る事には慣れきってしまっており、もはや気に留めることさえしなければ、なんの感情も沸かないに等しい。
「それじゃあ両親に挨拶してくるといい。恐らく最後の別れになるだろうからの」
「…………はい」
エルネスタには未だに自身が魔女であるという自覚はない。
「魔女エルネスタ様。このエミラ=ベルダー、貴方様を産めた事を生涯の誇りと致します」
「同じくドルゴ=ベルダー。どうか我らベルダー家に繁栄のご加護を」
リラと同じく両膝をついて両手を組む両親を見てエルネスタは――ただただそんな両親に恐怖した。
「ええ…………エミラ、ドルゴ。今まで育ててくれてありがとう……あなた方に祝福を」
父とも母とも呼ばず、魔女としての立場で別れを告げる。
それが出来る程度にはエルネスタは聡かった。
これが最後の親孝行と言わんばかりに。
そしてそれが当たり前であるかのように、もったいなきお言葉です、と告げる両親を背にエルネスタは少し離れたザンドラの元まで心持ち早足で駆けていく。
とにかくエルネスタは一刻も早くこの場から逃げ出したくて、今日一日はもう何も考えたくはなかった。
「ほれ」
軽い調子でザンドラが片手を差し出した。
以前までは、エルネスタも村人達の例に漏れず、ザンドラを魔女として絶対的な信仰の対象として見ていた。
しかし今となってエルネスタにとっては、村中の誰よりもザンドラがただの人間に見えた。
おずおずと差し出された手を握り返すエルネスタ。
そうして手を繋ぐと、一瞬で村からザンドラとエルネスタは姿を消したのだった。