世界の終わりの第一歩
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
「あと七日かあ」
独りごちて、僕は顔を洗いに洗面台へ向かった。この世界にいられるのも、あと七日だ。
僕らにとって世界とはデジタルデータだ。
脳内に埋め込まれた生体端末からサーバーに接続し、デジタル空間に構築された様々な仮想世界を体感しながら生きている。サーバーによって世界のシチュエーションは違っていて、ファンタジーな世界もあれば時代劇のような世界、ここみたいな過去の時間を再現した世界もある。
同じ世界に長く居続ける者もいれば、複数の世界を転々とする者もいる。
だけど、あまり長く世界を維持するのも難しいらしく、メンテナンスの為に時々世界はリセットされる。
世界の終わりなんて仰々しい言い方をされているけれど、要するに世界というサービスの終了に過ぎない。個人データや資産のバックアップという準備が少し手間取る、その程度のものだ。データが失われてしまわないように、こうやってニュースで注意を促しているんだ。
ここは20世紀末〜21世紀初頭の日本を模した世界で、結構気に入っていたんだけど、終わるんなら仕方ない。何日かかけて、別のサーバーの別世界にデータを移している最中だ。
どうせしばらくしたら、同じような世界が再構築される。再構築されたら、またそこに移って来ればいい。
部屋の整理の合間に、僕はふらりと散歩に出かけた。僕の住むアパートの近くには、川が流れている。僕は河川敷沿いの土手道を歩くのが好きだった。
川辺を吹く風が心地良い。川面が日の光を受けてキラキラ輝いている。全てバーチャルではあるけど、僕はこの景色を美しいと思う。
道には同じように散歩している人が何人かいて、すれ違う時に軽く挨拶をして来たりする。ゆったりとしたこんな時間が気に入っていた。他の世界でも、こんな風に暮らせたらいいな。
「よう、ヒロヤ」
向こうから、友人のケントがやって来た。彼はこの世界で出来た友達の一人だ。少しチャラそうな感じのアバターを使っている。親しくしてるけど、僕は彼が何処に住んでいるかは知らない。すぐ隣かも知れないし、地球の裏側かも知れない。そんなことはどうでもいい。今ここで顔を合わせてしゃべれるということが全てだ。河川敷に座って、少し話をすることにする。
「ここで話せるのもあと少しか。ヒロヤは次はどんな世界に行くんだ?」
「ここが気に入ってたからね、似たような雰囲気のところを探して住むことにしたよ。ケントは?」
「あっちこっちの世界を回ってみるさ。のんびり出来そうなところがあれば定住するかも知れないけどな。ここも気に入ってたんだけどな」
と、ケントは声をひそめた。
「今回の世界のサービス終了、メンテナンスってことになってるけど、本当は違うらしい」
「違うって? どういうことだ?」
「ウィルスをまかれたって噂だ」
ここで言うウィルスは、もちろんコンピュータウィルスだ。感染すればデータを破壊されるし、生体端末に入れば不具合を起こす。
「現実主義者の仕業だって話だ。だから人間が感染すれば、強制的にサーバーとの接続を切られる」
現実主義者というのは、「人間は仮想世界を離れ、現実の世界を生きるべきだ」と主張する連中のことだ。今のこの状況を「AIに支配されている」と捉え、「人間を支配から開放する」と称してテロを行っている。
正直迷惑だ。少なくとも僕はこの生活に満足しているし、誰も開放してくれなんて言ってない。古いSF映画の見すぎなんじゃないのか。
「感染して、世界から切り離される人が増えてるらしいんだ。政府はワクチンプログラムを開発させてるようだが、間に合ってないらしい。だから、このサーバー内の世界を早々に終わらせて、まだウィルスにかかってない人を別な世界に移そうとしているんだそうだ」
「この世界から切り離して現実とやらに戻したところで、どうなるっていうんだろうね。今や現実だって、たくさんの世界のうちの一つに過ぎないだろ。現実に戻ったからって、素晴らしい人生が開かれるってわけでもないし。現実に夢見すぎじゃないのかな」
現実がそんなにいいんだろうか。現実がそんな素晴らしいものなら、誰も仮想世界に留まらないんじゃないだろうか。
「一番厄介なのが、あいつらは自分が『正しい』と思ってることだ。自分のことを正しいと思ってる者は、それを根拠に何だってやる」
ケントの言葉に、僕はうなずいた。
「正しければ、何やってもいいってわけじゃないよな」
その時。
周囲の景色がわずかにブレた。
道の向こうに、奇妙なものが立っているのが見えた。真っ白でのっぺらぼうの、関節のついたマネキン人形のような何か。何のアバターもまとっていない素体だ。
〈AF-327129-65923、アクセス成功〉
そいつが言った。僕は空間にバーチャルモニターを起動させてそいつの情報を検索したが、何も引っかからない。
(不正アクセス!?)
ふと周りを見ると、通行人もケントもストップモーションがかかったようにその場に固まっている。
〈この場にいる人間はあなた一人です〉
素体が言った。
〈友人も、隣人も、AIによって作られた疑似人格です。この仮想世界は、AIに支配されているのです。そんな環境で、人間は自由ではいられません。よって、私達が人間を開放します〉
「余計なお世話だよ!」
言い捨てて、僕はそこから逃げ出した。
走るその周囲で、風景が、川が、道が、町が、人々が、きらめきが、バラバラと崩れて小さなドットになって行く。プログラムで構築された世界が、どんどん虚無に戻って行く。
虚無は広がり、世界を包み込もうとしていた。まるでブラックホールのように。逃げなければ。虚無から逃げなければ。でも、何処へ? 何処だっていい! 逃げなければ!
しかし、虚無は容赦なく僕を捕らえようとしていた。世界の全ては暗闇に包まれ、僕の体も分解し始めていた。嫌だ、嫌だ、捕まりたくない!
だけど、逃げ場所のない鬼ごっこなんて、すぐに終わってしまう。僕の体は虚無に消えて行き、僕の意識は闇の中に落ちて行った。
目覚めると、そこは白い部屋だった。
殺風景な白い壁の裏側には、一面に収納スペースが設けられている。その中に、ぽつんと椅子とテーブル、ベッド、道代わりのウォーキングマシンが置かれている。部屋の隅には、唯一の外へつながるドアがある。
ここは国民一人一人に割り当てられた居住スペースだ。僕らはここに住み、ここで生き、ここで仕事をして、ここで食事をする。外に出ることはほとんどない。
強力なウィルスによるパンデミックが長らく続き、国民の多くが死に絶えた時、AIによる政治機構は国民一人一人を隔離することにした。その為の部屋がここだ。
外に出られないストレスを軽減する為に考え出されたのが、仮想世界だ。そこでは外の景色があり、人との出合いや会話があり、友情も恋もあった。昔より人が少ない為、AIが擬似人格を作って住人の水増しをしてはいたけど、誰も気にしていなかった。
ふと壁を見ると、そこに取り付けられているモニターに自分の顔が写っていた。鏡面モードにしていたようだ。
……僕はこんな顔をしていたろうか。ずっとアバターの自分しか見ていなかったから、素の自分の顔に違和感を感じる。いや、視覚も、聴覚も、触覚も、何となくひどく薄っぺらな感じがする。今何か食べても、そんなに味はしないのじゃないだろうか。幸いと言うべきか、空腹は感じなかった。
生体端末を呼び出してみたが、全くの無反応だった。ウィルスに完全にやられてしまったようだ。交換の手続きをしないといけない。外科的な交換の手間はそれほどかからないが、アカウントの復活やアバターの作り直しもしなければいけないし、仮想世界内のデータのサルベージだってやらないと。
とりあえず出来る手続きをしようと、部屋に備え付けてある端末からネットに接続する。生体端末を使っている時程には直感的な操作が出来ないので、ひどく面倒に感じた。
ネットを介してあれこれ手続きをしてから、僕はニュース動画とかをあれこれ見てみた。パンデミックはワクチンや特効薬が開発されて治まったものの、僕みたいに仮想世界から出て来ない者が多かったらしい。
それに逆張りするように出て来たのが現実主義者だ。彼らは人々を無理やり現実に戻そうと画策し、世界のあちこちでトラブルを起こしているという。
記事や動画をあさっているうちに、うっかり現実主義者の流しているプロバガンダ動画を踏んでしまった。彼らは自分達の正当さを声高に主張し、仮想世界がいかにAIの支配下にあるかとか、現実で苦労することこそが人間を成長させるかとかいうことをアピールしていた。
自分達の考えを正しいと信じて微塵も疑わないその姿を見て、僕の中からじわりと、だが激しい怒りが込み上げて来た。ケントは擬似人格だったかも知れない。でも、僕にとっては得難い友人だったんだ。こんな奴らのせいで、僕は好きだった生活も友人も失うことになったのか。
僕らは確かにAIに支配されているのかも知れない。でも、そっちだって独善的な正義とか思い込みとかに支配されてるんじゃないか?
……奴らの拠点を探さなきゃ。そして、武器になるものも。こんな考えがすんなり出て来る辺り、僕は相当怒っている。でも、仕方ないよね? そちらが先に手を出して来たんだからね?
携帯端末の検索結果を頭に叩き込み、ドアのノブに手をかける。ドアをくぐりながら僕は、こうやって世界は終わって行くんだろうな、と漠然と感じていた。
世界の終わりへの第一歩を踏み出して、僕は外へ出た。