おかえりなさい
1999年7月20日 東京
「花火大会……ですか?」
「そうです。龍彦さん全然誘ってくれないので私から誘います。来てくれますよね?」
内気と言えば聞こえはいいだろうが、陰弁慶という言葉が私にはしっくりするのだろう。
大学卒業後、伝手を使い会計事務所を開設した。先の事など分かる筈も無いが……彼女が何不自由無く暮らせていければそれでいい。そう思っていたが……
「龍彦さん、そろそろ名前で呼んでくれませんか? 私達夫婦なんですよ?」
「そ、そうですね……えー……その…………は、晴……さん……」
「ふふっ、なんですか? 龍彦さん」
「あ、あなたが呼んでくれと……」
「呼んだからには何かあるんでしょう?」
合切、彼女には敵わない。
「は、花火を見に行きませんか?」
「ふふっ、いいですね。行きましょうか」
花火の何処がいいのか。
場を弁えない輩による喧騒。反社会的勢力が便乗し仕切る的屋の数々。
まぁ……彼女が行きたいと言うのであれば何処へでも──
「あれ? 龍彦さんまだ着替えていないんですか? …………おーい? 聞いてますか?」
初めて見る、彼女が浴衣を纏った夏姿。
通俗小説でも読んで学んでおけば良かったと後悔するが、そんなもの読んでも後悔するだけだろうと自嘲する。
今ここで言わなければいけない言葉は分かっているが、どうにもこうにも……口が動かない。
「新調した浴衣なんです。どうですか?」
「そ、そのですね……とても……あの……」
「…………その言葉、四文字ですか?」
「え、えぇ……」
「“か”から始まって、“い”で終わります?」
ここまで膳立てされなければいけないのかと思い、情けなくなる。まるで嬰児を見つめるような瞳の彼女。耳が焼けるように熱い。
「その…………かわいい……です」
「ふふっ、ありがとうございます。龍彦さんも着替えてください?」
半ば強引に甚平を着させられ、疑問に思う。
「あの……どうしてこの様な格好を?」
「……デートくらい、お洒落したいじゃないですか」
言葉に出来ぬなら、せめて振舞で伝えよう。
はしたなくも彼女の手を握ると、はしたなさを倍返しする様に強く抱きしめられた。
◆ ◆ ◆ ◆
「……この辺りも随分変わりましたね」
「今年の9月に街開きするそうですよ? 21世紀の港街、“みなとみらい21区”だそうです」
ゴミの埋立地に大層な名を付けることはよくあることだが…………未来か。願わくば、何時迄もこうして隣を歩いていたい。
「あっ、始まりましたよ」
銀笛が知らせる祝祭の合図。
開闢された港街に響く花火の声。吐息を漏らしながら見上げる彼女が……堪らなく愛しい。
「龍彦さん、何処を見てるんです? 上を見るんですよ?」
「いえ……その……」
花火なんてどうでもよかった。
ただ……もし花火が美しいと思えるなら、それはきっと──
「ふふっ。“中城ふみ子”の気持ち、分かりましたか?」
考えるより早く身体が動くなど……これだから色恋は、脳を鈍らせる。
気がつけば彼女を抱きしめていた。
幾重にも木霊する花火の音に嗤われ、我に返る。
「こ、これは……その……」
「……龍彦さん、私の気持ち…………分かります?」
そう言って目を瞑った彼女。
わけも分からずに戸惑っていると、愛らしく笑いながら頬を私に向けてきた。
勝手も何も分からないが……差し出された頬へ、私の頬を重ね合わせた。
「……なにしてるんですか?」
「えっ? いや、その……違いましたか?」
「もー……こうするんですよ」
背伸びして漸く届いた彼女の唇。
空に咲き誇る花の影。私達は一つに重なり合っていた。
「……龍彦さん、大好き」
「…………あ、愛しています。その、不束者ですが……末永く、よろしくお願いします」
「…………ふふっ、そういう所も大好きですよ?」
それがどんな所なのか……先の見えぬ私と、先が見えていた彼女。
空に舞う花が少しでも怖くないように……だから彼女は花火を好んでいたのだと、花が散ってから気づいた愚か者。
「銀笛があんなに高く……一番大きな花火でしょうか?」
尺玉花火が花開き、婚ひ星の様に星の子が地上へ落ちてゆく。
「ふぇぇ……手が届きそう……龍彦さん、肩車してください!!」
「そ、そんな公の場で……」
「もー、いいからしゃがんでください!!」
肩に乗る華奢で軽い彼女の身体を、零さぬよう強く抱えた。
届かぬと分かっていても、必死に手を伸ばす彼女。
私も……キミのそういう所が大好きでした。
◆ ◆ ◇ ◇
「花火大会ですか?」
「うん。一年以上前から企画してたらしくて、事務所内内でやるんだけど……社員一人につき一発用意されてて、花火と一緒にメッセージを添えられるんだって。大きさとか色とかも選べるみたい」
「それはとても素敵な企画ですね。場所はどちらでやられるんですか?」
「ふふっ、雫の地元」
愛逢月、旱星が日中の炎陽を思わせるように輝く辰の刻。深山幽谷に存在する片田舎、空に咲きたるは夜の花。
何れ程どんちゃん騒ごうとも、余所から来れば夢の跡。乱雑な情報社会の中……人知れず行われる花火大会。
『続いては弊社きっての問題児、雪村栞による花火です。自腹で尺玉に変更し、気合も十分。そんな雪村栞のメッセージは “こんなことしてる暇があるなら休ませろ” です。では──』
「ふふっ。栞さん、気合い入ってますね」
「栞の尺玉っていうのでクレーン車代とか設備代とかかなり嵩んだらしいけど、他にも大きい花火打ち上げたい人がいてその人が払ってくれたんだって。楽しみだね」
銀笛が昇り、大きな夜花が咲き誇る。
「わぁ、綺麗だね」
「……そうですね」
思わず見惚れてしまい、目を瞑る。
息をするだけで、肺の中目一杯に広がる景色。
「……雫、どうしたの?」
万緑を照らす美しき尺玉の光。
その隣には、いつも愛するあなたの姿。
「……恋をすること、愛を知ることを色事と呼びますが……私なりの答えが出たんです。あなたの隣で見る花火は千紫万紅。あなたが見せてくれる世界は、鮮美透涼な……晴景色。あなたと恋をして、あなたと愛を知って、私の色が増えたんです。あなたの色も、二人の色も混ざるから……だから、だからこんなにも花火が美しいのだと……ふふっ、思えるんです」
幾重にも広がり、落ちてゆく星の花弁たち。
手が届きそうで……思わず空に手を伸ばす。
あなたも同じ様に手を伸ばしていて、なんだか可笑しくなって笑い合い……唇が重なる。
「…………音高く夜空に花火うち開き、われは隈なく奪はれてゐる」
思わず漏れる、歌人中城ふみ子の短歌。
恋をしなければ、あなたと出会わなければ知り得なかった短歌の意。
そう……あなたといると、全てを奪われてしまう。花火を見ている筈なのに……心の瞳は、何時迄もあなたを見つめている。
「……雫、大好き」
「私も…………私も、愛してます」
抱きしめ合う私達を崩すように鳴る咳払い。
その姿に私は赤面し、晴さんは笑っている。
「お、お父さん!? ど、どうしたの? お仕事で間に合わなかったんじゃ……」
「……はしたないからそういうことは見えない処でしなさい」
「ふふっ、見えない処ならいいんだ。珍しいですね、甚平着てるなんて」
「…………お洒落をしないと怒られるからな」
その言葉の意が分からなくて頭の上にハテナを浮かべる私達。咳払いをして、腕を組み直し空を見上げるお父さん。
『最後の花火になりました。お名前は秘匿ですが、この方には今回多大な協賛金をいただきまして、なんと三尺玉が二発も打ち上げられます! ではメッセージをお読みします。 “今キミの一番近くに届けられる花束を贈る。願わくばキミの手に届くように。” それでは──』
涙が頬を伝っていく。
この花火が誰から誰へのものなのか、この会場で分かるのは……私ともう一人。
一発目の三尺玉は、昇り小花を咲かせながら高く高く……天まで届くように昇っていく。
一瞬の静寂後……彩色千輪、文字通り色鮮やかな数多の小花が同時に開花する。
代弁、世界を色付けてくれたあなたへの感謝。
冷めやらぬ中二発目の三尺玉がどこまでも高く昇っていく。もっと……もっと高く、お母さんまで届け。
「わぁ綺麗………雫、涙が……」
「…………お願い、届いて」
三尺玉の重量二百キロ、煙火筒の長さ四メートル。
上空六百メートルまで打ち上げられた後……念いと共に、直径六百メートルの花が咲く。
“大輪、黄金すだれ小割浮模様”
万朶に宿る鴻大な星の花が地上へと降り注ぐ。
還ることのない想い日も想い人も、この光に乗せられてやってくる特別な迎え火。
涙を流し、懐かしむように微笑みながら手を伸ばすお父さん。光の粉を抱きしめるような仕草をすると、お帰りと小さく呟いていた。




