リクニス・コロナリア
仕事から帰られた晴さんは、机の上に小冊子を置いて腕を組み悩んでいます。
少しだけ顔が強張っていたので、真似をして腕を組むと……私を見て愛らしい笑みを見せてくれた。
「もー、笑っちゃうじゃん」
「ふふっ。何を考えていたんですか?」
「これ見てみて」
そう言って手渡されたのは、住宅型有料老人ホームの小冊子。ここから然程遠くない場所にあるらしい。
「美桜さん(社長)の知り合いが経営してるんだけど、毎月レクリエーションが結構あってその中の一枠を企画立案してみてって言われたの。勉強だからってことなんだろうけど、企画とかしたことないしどうしようかなって悩んで……なんで笑ってるのかにゃ?」
「ふふっ、ごめんなさい。いつも私に素敵なことをしてくださっているので、そういったことは得意なのかと思ってました」
「…………そっか。ふふっ、そうだよね。難しく考えすぎてたかも。ありがと、雫」
スッキリした顔になったあなたは私を抱きしめてそのまま寝室へと連れ去った。
「お着替えがまだですよ」と言った私に悪戯っぽく微笑んだあなたは、「じゃあ脱げばいいよね」と言って、何故か私も脱がされた。
◇ ◇ ◇ ◇
その週の金曜日、晴さんと共に住宅型有料老人ホームへやって来ました。
日向晴が来るとあって施設内は大変な賑わいを見せているけれど、落ち着いた瞳で特別扱いはしないで欲しいと頭を下げる晴さん。
驕ることのない、何処までも真っ直ぐなあなた。その真摯な姿に、職員さん達も快く頷いてくれました。
一通り施設を案内してもらい、二十人程いる住居者と談笑する晴さん。
私は少し離れた場所で、会話に花を咲かせる為ピアノを弾いている。
なんとなく……お母さんを感じた。窓の外を見ると梅霖が広がっていて、気の所為かと鍵盤を見つめ直す。来週18日はお母さんの誕生日だから、きっとその所為なのだろう。
「あれ? あとお一方いますよね?」
事前に全住居者の名前を覚えてきた晴さん。
人数と合わないことに気が付きキョロキョロと辺りを見回しています。私は一旦演奏を止めて、晴さんの隣へ。
「道子さんでしょ? あの人は……ねぇ?」
「うーん……ちょっとね、難しいかな」
住居者と職員さんが同じ反応をして苦笑いしている。聞けば、この施設が出来たばかりの頃から入居してもうすぐ九十歳。身の回りのことも日常の生活も全て自分で出来るけれど、最近忘れてしまうことが多く、先日はここがどこなのかも分からなくて……来週、別の施設へ行ってしまうらしい。
「…………来週のいつですか?」
「水曜日です」
職員さんに聞き、深慮するあなた。
どうせ無理だと言われながらも、そのお方の部屋へ向かう。
何処となく停滞を感じる室内。窓の外を見つめるそのお方に、膝をついてお話をするあなた。
「こんにちは。今度レクリエーションを担当する日向晴といいます。お話、よろしいですか?」
この施設の設立当初から働いている職員さん曰く、20年以上前に出会った男女二人を想っているらしく……ただ、はにかみ屋な為その二人について誰にも教えてはくれず、今日まで来てしまったそう。
「…………」
ちらっと晴さんを見るけれど何も言わず、ただ晴さんも真っ直ぐな瞳で逸らさずに。三時間以上無言の時間が続き……それでも晴さんは何も言わず見つめ続けていた。
窓の外、一瞬だけの梅雨晴間。その時はまだ知らぬ……小さな音がした。
「…………なんだい、アンタは」
「ふふっ。何かお手伝い出来ることはありますか?」
「…………先生に会いたい」
「お名前と……写真はありますか?」
引き出しの中から取り出された一枚の……両端が傷んだ写真。それは何度も何度も写真を見つめていた証だろう。
私から見える裏側には、マジックで“1998年6月18日”と書かれている。
写真が持ち主へ戻された瞬間、思い出したかの様に降り直す流し雨。
あなたの頬を伝う涙。何を見たのか、なんて聞けなくて……「必ずお連れします」と言い、頭を下げたあなたを見守ることしか出来なかった。
◇ ◇ ◇ ◇
四日後の水曜日。
少し無理を言ってこの日になったレクリエーション。それは、件の道子さんが移動してしまう日。それから……お母さんの誕生日。
あれから仕事終わりには施設へ寄り、可能な限り住居者とお話を続けた晴さん。
“何を、じゃなくて誰に”
そう取り組んだレクリエーションは、入居者一人ひとりの心に宿る想い出の曲を奏で、口ずさんでもらう慰問演奏。
どうしても演者は私でなければいけないと言われ、指定されたお母さんの形見の訪問着を身に纏いピアノを演奏しています。
奏者じゃなくて演者と言われた時は何故だろうと思っていたけれど……あなたにしか見えていない何かがきっと、あるんですよね?
和やかに進んだレクリエーションも終盤。
最後は道子さんの曲だけど……渡されている楽譜は、ハッピーバースデーの歌。
ただ本人は部屋から出てこなくて……それでもいいからと晴さんに言われ弾き始めると、大きな物音と同時に開く扉。
「はる先生!!」
明朗快活と顔を見せた道子さん。
職員さんも住居者も……私でさえもその言葉に晴さんを見つめている。でもあなたは……あなたと道子さんだけは、私を真っ直ぐと見つめていた。
あなたの瞳に映る私は……在りし日の…………お母さん。
そっか……27年前の今日……ここにいたんだね。
「じゃあ……なりきろっか。出来そう?」
止まらない涙をあなたが拭ってくれる。あなたから流れる涙を、私が拭う。
出来ない筈ないじゃないですか。だって私は……
「……ふふっ、大丈夫です。だって、あなたの恋人ですから」
1998年6月18日。21歳になり、学生結婚をする直前のお母さん。そう……今だけ私は、空花晴。
「はる先生、お久しぶり。元気だった?」
胸が締め付けられる度に……“頑張って”、と心の中で声が響いている。
「お久しぶりです。見ての通りですよ?」
「はっはっ、そのお着物もお顔も何にも変わらないねぇ……あれ? タツは何処にいるの?」
職員さんから聞いた……男女二人を想っているという言葉。
あの日……あの日ここにはお母さんとそれから──
「……道子さん、お久しぶりです」
後ろから、低く不器用な声が私を優しく包み込む。
何故、なんて言葉は必要なくて……あの写真から、あなたにはこの景色が見えていたんですね。
四半世紀分の錯綜した蔦が、音を立てて解けていく。
「タツ……アンタ老けたか?」
「道子さんも随分と婆ですよ」
息急き切らし、額に汗を浮かばせたお父さんが何食わぬ顔で後ろから私の背中を支えてくれる。
駅からここまで……走ってきたのだろう。
「はる先生と結婚したのかい?」
「えぇ。子供も……三人出来ました」
「なんて名前だい?」
「一人目は……雫です」
そう言って、お母さんの誕生花リクニス・コロナリアを私の耳元へかけてくれたお父さん。
そして、もう一輪を道子さんへ。
その花言葉は………………そっか、そうだったんだ。
【お母さん、誕生日おめでとう】
【ふふっ、ありがと雫。なかなかお家にいられなくてごめんね】
【……ううん。ケーキ作ってみたよ。なるべく身体に良さそうな物を使ったから。なにか……欲しいものある? 今度遠足でバスに乗っておまちの方に行くから……】
【そっかぁ。雫も五年生になったんだね。いつもありがと】
【……私なにもしてないよ?】
【…………十年間、沢山の物を雫からいただきました。例えそれが一年でも一日でも……一秒でも。ふふっ、雫の名前の由来だよ】
【……大人になったらその意味分かる?】
【うん。きっと】
【もし分からなかったら……その時教えてくれる?】
【…………ふふっ、うん。約束するね】
ずっと分からなかった。
“末の露本の雫”
これなんじゃないかって思ってはいたけれど、全然……お母さんの言っていた意味と違っていたから。
「末の露本の雫。随分儚い名前じゃないか」
「確かにその言葉ですが続きが──」
リクニス・コロナリアの花言葉。
約束通り……お母さんが教えてくれた。
「末の露本の雫……されど、幸甚は永久不変。ですよね、龍彦さん?」
「………………そうだな」
幸せに長短など無い。
百年ある中の一日でも、その幸せな一日が生き続けた道子さん。
生まれた瞬間からの一秒を、何時迄も想い続けてくれたお母さん。
その幸せたちは……永久不変。
照れくさそうに、でも隠さずに頷くお父さん。
記念にと晴さんはカメラを構え写真を撮ってくれ……三人で写るその景色は、二十七年を一跨ぎした同じ構図。誕生花を持つ二人に挟まれぶっきらぼうに笑う……何度でも見返してしまう、永久不変な一枚。
「タツ、毎週会いに来い。じゃないと死にきれん」
「……約束しましょう」
不器用に微笑むお父さん。
愚直な人だから……その身体が動けなくなる日まで、約束通り毎週花束を添えに会いに行った。
◇ ◇ ◇ ◇
「写真のこと、黙っててごめんね」
「いえ、その、少し驚きましたが…………どうしました?」
「ふふっ、ぎゅってして?」
「こうですか……?」
「うん…………お母様、誕生日おめでとうございます」
【雫は大きくなったら何になりたい?】
【こまってるひとをたすけるひとになりたい。おかあさんは?】
【えっ?】
【おかあさんはなにになりたいの?】
【…………ふふっ。ぎゅってしてくれる?】
【こう?】
【うん……お母さんのこと好き?】
【だいすき!】
【じゃあなれたかな】
【なにに?】
【ふふっ、雫の大好きなお母さんに】
リクニス・コロナリアの花言葉 “私の愛は不変”
お母さん、誕生日おめでとう。
ずっとずっと……大好き。