ベートーヴェンのせいにして
今年は風変わりな大晦日。彼女と共にコンサートホールに来ている。
正直私には分不相応というか場違いというか……カウントダウンコンサートと銘打たれた、クラッシック音楽の子守唄大会が始まろうとしている。
一応勉強はしてきたけど……どうせ寝ちゃうんだろうなと思うと、つい笑ってしまう。
そんな彼女は目を瞑り、嬉しさを隠すように唇を少しだけ噛んでいる。せっかくなのでその愛らしい唇を塞いでおく。
「は、晴さん……見られちゃいますよ?」
「五階席の端なんだから大丈夫だよ。可愛い顔してたから……ふふっ、ワクワクしてる?」
「……はい。その、一度は生演奏で聴いてみたかったですし……それが晴さんと一緒だと思うと尚更嬉しくて…………年の終わりも……その先の始まりも、あなたと過ごせると思うと…………」
「ふふっ。思うと?」
「…………」
漏れかけた言葉を飲み込み、私の肩にコツンとおでこを付ける彼女。
大晦日、賑わう街の白昼デート。暮夜から始まるはクラッシックコンサート。ホール特有の匂いに、淑やかな会場のざわめき。
幾つもの特別感が、彼女を高揚させている。
「…………好き」
敬語から変わるその瞬間が愛しくて堪らない。
開演五分前のアナウンス。皆が聴き耳を立て訪れる一瞬の静寂に唇を塞ぎ……再び動き出す喧噪に合わせて、深く彼女と絡み合った。
◇ ◇ ◇ ◇
「で、では掻い摘んで説明しますね」
諸々の挨拶が舞台上では始まり、顔を真っ赤にさせた彼女は気を紛らわすように曲の解説をしてくれる。
“ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲 交響曲第9番”
歴史や時代、作曲者の生立ちから曲の聴きどころを纏めた彼女手製の冊子。
私でも知っている“歓喜の歌”は、手書きの歌詞カードと共に彼女が翻訳したものが添えられていた。
「その……様々な角度から紐解かれている曲ですが、当人にしか本当の想いは分からないと思うんです。ただ、楽譜に書かれた情報以外、音楽に正解は無いので……私なりに翻訳しました。あなたと共に聴けるこの日の為の翻訳です」
“Deine Zauber binden wieder あなたが持つ魔法の力が、私達を結び紡ぎ合わせてゆく”
詩人シラーが書いた詩を、ベートーヴェンは音楽にした。それから二百年を経て……彼女は想いに変え、私に伝えてくれる。
会場は暗転し、Aのチューニング音がコンサートマスターから徐々に響き合わさっていく。
冊子を撫でながら、背筋を伸ばす。
眠くなるなんて有り得ない。今から始まる音楽に、彼女からの想いに、胸躍る。
◇ ◇ ◇ ◇
「凄く良かったね。クラシック音楽で感動したの初めてかも。全部……雫のお陰。ありがと」
「い、いえ……その……素晴らしいのはベートーヴェンですし…………」
想い出を読み返す様に、今日歩いたデート道をゆっくりと辿っていく。
「……Seid umschlungen.」
深更の東京。
鼻先を赤く染め、白い吐息を混じらせながら口ずさむ彼女。それは未だ耳に残っている歓喜の歌の一部。
ポケットに入れていた歌詞カードを開くと、彼女は照れながらも指先で案内してくれた。
“Seid umschlungen 抱き合いましょう”
悪戯に誘うその瞳に心を奪われ……手引される様に、彼女を抱き締めた。
「Diesen Kuß der ganzen Welt──」
上野駅。アメ横表通りは、白昼時化る人波とは反転するように凪いでいる。
そんな疎らながらも流れゆく人々に見せつけるように、彼女は私の唇を甘く塞いだ。
強く抱き締められると、揺れる髪から香る彼女の匂い。
「見られちゃうんじゃなかったっけ?」
「……今日はいいんです」
「ふふっ、そうなんだ?」
「晴さんは…………したくないの?」
摩利支天徳大寺が鳴く、煩悩を打ち消す除夜の鐘。
ただ……この愛は幾ら梵鐘を叩いても消えることは無い。刀鍛冶が作り出す刀の様に、叩かれた分だけ、想いの数だけ、強く強く育っていく。
……なんて。ふふっ、インテリな言い訳じみたことを考えては笑ってしまい、強く濃く彼女の唇を塞いだ。
「潤けるまでしてあげる」
“Diesen Kuß der ganzen Welt このキスを、全ての世界へ”
ベートーヴェンのせいにして。新世を迎えた東京へ、見せつけるようにキスをした。




