雨後紅線
朝、仕事に行かれるあなたを見送ってリビングへ戻ろうとしたけれど……体が動かなかった。
玄関ドアの前、気が付けば数時間が経っていて……上着を一枚羽織り、見えない糸に引かれるように外へ出た。
南へと向かうバスへ乗り、停留所の名も見ぬまま下車をした。
見えない糸を手繰り歩いていると……あなたに少し近付けた気がして、足取りが軽くなる。
見渡せばそこはビジネス街。
ビルの窓に映る人々、駆け足で交差点を渡るスーツ姿に……電話を耳に当て商談するビジネスマン。
白昼、当たり前に存在する従事の刻限。
流れ行きながらも輝く人々を、世間を目の当たりにし……足が止まる。
あなた名義のあの家で住まう私は、なんと呼ばれる存在なのだろう。
働きもせず……あなたのお金で飯を食べ、夏も冬も室内で快適に過ごし……剰え、家事を放置してこんな所にまで来て…………私は何をしているのだろうか。
見えない糸と称し、勝手にあなたへと続いていると思い込んでいたものは目の前で見えなくなり……降り出した山茶花梅雨が、アスファルトを冷たく染めていく。
カラーコーンが置かれたビルの前で雨宿りをし……雨粒と涙が頬を伝っていく。
白く揺れる吐息。悴む指先は、無意識にあなたの名前を押していた。
『もしもし? どうしたの?』
「あ、あの……その……私…………私…………」
『……待ってて』
そう言って通話は切られ……ツーツーという電子音と共に、雨音が現実へと連れ戻す。
GPS機能の付いたタブレット端末は家に置きっぱなし。私のスマホにその機能が付いているのかは分からないから、電話を掛け直さなければいけない筈なのに……
“待ってて”
悴む手を握り合わせて、あなたを待っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
雨脚は弱まることなく、気が付けば鼻息さえも白く揺らめいている。
二時間が経ち……目の前の雨音が、少し変化した。
「ハァハァ…………雫……ごめんね。本当に……ごめんね………」
肩で何度も大きく息をし、傘も持たず全身をずぶ濡れにさせながら……あなたは来てくれた。
お気に入りの靴は汚れ……新品の赤いニット帽は乱雑にポケットへと丸められている。
「冷えちゃったでしょ? ふふっ、どこか近くで温まろっか」
声を出して泣き、あなたへ抱きついた。
破裂しそうな程響くあなたの心音に涙は止まらず……気が付けば、ビジネスホテルの浴室であなたと湯船に浸かっていた。
「ふー、温かいね」
「あの……晴さん、私……」
恋人として、あなたに守られる人として、してはいけないことをしてしまった。謝ろうと開いた口は……あなたの柔らかな唇で塞がれた。
「ダメ。思ってること言って?」
「…………あなたが視界から居なくなるのが嫌なんです。駄目だとは分かっているんですが……自制出来ない程……大好きなんです……ごめんなさ──」
言葉を遮るように、強く優しく抱きしめられる。
「謝っちゃダメ。悪いことになっちゃうでしょ? 凄く嬉しいんだから……ふふっ、自制なんてしなくていいんだよ。もっと委ねて……求めてよ」
その微笑みに……はしたなくも、強くあなたを求めてしまう。
のぼせてしまいベッドに連れて行かれ……出会った頃の、あなたのマンションでの出来事を思い出し、この日初めて笑うことが出来た。
「そういえば、どうやってあの場所まで来られたんですか? 私のスマホはGPS機能が付いているのでしょうか?」
「あ、そっか。ふふっ、それ使えばよかったんだ」
思わず目が丸くなる。
それから……淡い期待に、胸が高鳴る。
「現場飛び出して走ってきたんだけど……見えない何かに引かれるっていうか……なんて言えばいいかな……」
悩むあなたと目が合って……私の表情で全てを理解したあなたは、部屋干しされた赤いニット帽を手に取って解き始めた。
「ふふっ、こういうこと」
あなたの小指と私の小指を結ぶ……赤い糸。
伝う涙は、雨後紅線。