440Hzの雨
季節の色を塗り替えていくようにシトシトと降り続く雨。
バタースコッチブレットと湯気に乗せられたホットミルクの匂い。
そんな穏やかな景色とは対照的に、少しだけ張り詰めた空気感。ただ……定期的に響くAの音はどこか心地良く感じる。
音叉を鳴らしながら、リビングに置かれたピアノを調律している彼女。
私には分からない世界だけど……音叉を使い基準となる音を作り、音と音の歪みを無くしていく……らしい。因みに彼女が使っている音叉は440Hzで、机の上に置かれたものは442Hzらしい。
らしいって言葉しか出てこないくらい、私には違いが分からない。でも……そんな世界にいる彼女が誇らしくて、その姿を見ては、好きという文字を積み重ねている。
分からなくても分かることは、物凄く神経を使わなければならないこと。
特に音に関しては私も注意していて……外の雨音、換気扇の回る音、秒針が刻む音。これ以上音を増やしたくないから、ジッと息を堪えてポンちゃんを抱きしめている。
暫くして……痺れを切らしたポンちゃんは私の腕からすり抜けて彼女の下へ走っていった。
慌てて連れ戻そうと立ち上がると……彼女は一旦作業を止め、愛しそうにポンちゃんの頭を撫でていた。
それから……私に手招きをしてくれたので小走りで向かうと、同じ様に頭を優しく撫で、おでこにキスをしてくれた。
「……隣で見ててもいい?」
「ふふっ、もちろんです」
彼女と唇が重なり合うと、それまで響いていたどの音も聞こえなくなり……唇が離れた瞬間、雨音達が茶化すように鳴り始めた。
調律を再開する彼女。
どこか……懐かしい何かと重なるように、私はその景色を見つめている。
気が付けば窓の外は天気雨。
雲間からは夕焼け色をした光が顔を覗かせ、調律をし終えたピアノから聴こえる音楽に…………懐かしい“何か”は私の中で鮮明に色付き始めた。
小学生の頃……通学路沿いの公園から流れる有線時報チャイム。“夕焼け小焼け”が聴こえるその中で、急ぎ足で帰宅している私。
日も暮れ始め早く帰らなければいけないのに……帰路道中にある新築工事中の大工さんの仕事を、足を止めて眺めていた。
何をしているのかは分からなかったけれど……何か素敵なことをしているのだと、目を輝かせながら眺めていたあの頃。
歳を重ねるにつれ、私の心にあった沢山の色は薄くなり……忘れていった色遣い。
でも──
【名前、なんて言うの?】
【……雨谷……雫です】
──あの日から、汲めども尽きぬ程色付いた私の世界。
その光と色の三原色は……全てが彼女から。
夕焼け小焼けが鳴り終わると……どこか寂しい気持ちになり、彼女に小さく抱きついた。彼女は頬を赤く染めながら音叉を机の上に置き、優しく抱き返してくれた。
窓の外……降り続く雨は、木々達の秋色をより濃くしている。
「ピアノの音、どうでしたか?」
「ふふっ、雫の色がした。変かな……?」
彼女の美しい瞳は滲んだ涙でより美しく輝き……大きく、首を横に振っていた。
二つの音叉を持ち……窓の外を見つめ彼女は微笑んだ。
「このピアノがここに来た時……ピッチは442Hzだったんです。家庭用のピアノが442Hzになったのは最近でして、少し前は440Hzが多く……私の家にあったピアノも440Hzでした。せっかくなら晴さんに私の聴き馴染んだ音を……その……染み込ませたくて、調律し直しました」
彼女は窓を開け、火照った顔を冷ますように顔を手で扇いだ。
風で入ってきた雨に可愛らしい声で驚くと……その雨は彼女を再び赤く染めていた。
「……一つ染めて一入。二つ染めて二入。染物で染液に浸す時に使われる言葉ですが、沢山染めるという意味で八入という言葉があります。そこからとって、この季節木々の色を濃く染めていく雨のことを八入の雨と呼ぶんですが……」
語間、私の頬へキスをしてくれた彼女。
私の顔は……紅く紅く、染まっていく。
「八入の雨のように……あなたを沢山染めたいんです。はしたなくも……あなたは私のものだからと、強く強く思ってしまいます」
私からソファへと倒れ込み……いつもとは反対に、彼女を見上げ両手を伸ばした。
「……もっともっと染めて。ピアノも私も……全部、雫で満たしてよ」
一つ染めて一入、二つ染めて二入。
八入に染められて……雨は降り続く。




