花の金曜日
金曜日、お気に入りの訪問着を身に纏う彼女は襷掛けをして家事をしてくれている。
私の要望で髪の毛は一つ結び。
無駄のない動き、姿勢の良さ。毎日見つめているけど、毎日好きになっていく形姿。
そんな彼女をカウンター越しに眺める至福の時、時折私の視線に気がついて照れ笑いすると……その愛らしさに、思わず私も照れ笑い。
「ふふっ、なんだか居酒屋の女将さんみたいだね」
「そ、そうでしょうか? 偶には居酒屋にお出かけしますか? あのお店以外で、新規開拓?なることでも……」
あのお店とは、ここから歩いて三十分程した所にある小ぢんまりした居酒屋。
お気に入りで二人で偶に通っていたけれど、ある日私のことに気がついた客がいたらしく、以後私目当てで繁盛してしまった為、あれ以来行けなくなってしまった。
「ありがと。でも雫の料理が一番美味しくて好きだから── 」
外食をする時、毎日働いてくれる彼女を休ませたくて私から誘うことが九分九厘。
ありがたいのに申し訳なくて……今もそんな複雑な気持ちが顔に出てしまったのだろう。彼女は何か考え始め、和紙を取り出し筆で何かを書き始めた。
「何書いてるのかにゃ?」
「み、見ちゃ駄目ですよ? 少し準備をしますから……」
可愛いなぁ……なんてニヤけながら眺めていると、彼女はリビングとキッチンの間に暖簾を掛け始めた。
貰い物の数えきれないお酒を見える所に並べ、頬を軽く叩き……瞼をとじて、深呼吸し始めた。
それは私が何かになりきる時の癖。
目を開けると、彼女は愛想よく微笑んだ。
「いらっしゃいませ。今日もお一人ですか?」
今日の役は居酒屋を一人で切り盛りする若い女将と……連日居酒屋に通い、その女将に恋する少し疲れたサラ女。
今その時に出来る最大限の愛情を注いでくれる彼女。その愛に応えるには、彼女以上になりきるしかない。
瞼を閉じて深呼吸し、私達だけの世界が広がっていく。
「いつも一人でごめんなさい。誰か連れがいればいいんですが……ふふっ、なかなかでして」
「いえ、来ていただけるだけで嬉しいんです。いつものでよろしいですか?」
……長いこと女優をやってきた私でさえ錯覚してしまう程、只々見惚れてしまう美しき女将。
何時しかその境界線がぼやけていき……私はサラ女になっていた。
「お仕事……大変ですか?」
「まぁ……ふふっ、大丈夫です」
梅酒ロックと、お通しの小鉢に入ったモツ煮。
去り際に残していく彼女の香りが、既に私を酔わせていく。
一口飲むと差し出されるお品書き。
達筆なのに温かみを感じるのは、彼女の人柄が滲み出ているからなのだろう。
「串の盛り合わせと……本日のサラダで」
「はーい。少し待っていて下さいね」
胡桃とベーコンを和えた醤油ダレのサラダ。
片手間にグリルで焼き鳥を手際良く焼いている。
合間合間に、会話が弾む。
気が付けば暖簾を片付ける彼女。それは何故か嬉しそうで、愛らしく微笑んでいた。
「もう閉めちゃうんですか?」
「いえ……せっかくお客さん一人ですから、寛いでもらいたいんです。邪魔が入っても……ふふっ、嫌でしょう?」
梅酒の氷が溶け奏でられる軽やかなグラス音。
氷と共に、深く深く恋に落ちていく。
気が付けば……いつまで経っても言い切れない奥手なサラ女は初に口説こうとしていた。
「女将さん、知ってます? 昔の人は……金曜日の夜を花の金曜日と呼んでいたんです。女将さんは……どんな花が好きですか?」
「……リナリアです。その……ある人に贈りたい花でして…………」
リナリアの花言葉は、“この恋を知ってほしい”。
冷静に考えれば分かる筈なのに……恋は盲目、醜い嫉妬心を曝け出してしまう。
「妬いちゃうな……誰です? その相手は」
「あ、あなたです……」
暖簾を握りしめながら目を丸くさせているその姿に私が耐えきれる筈もなく、荒っぽく壁際に追いやりその華奢な腕を壁へと押し当てた。
「もー……これ以上酔わせないでよ」
「ご、ごめんなさい……ソーダ水で薄めたほうが良かったですか…………?」
純粋過ぎるが故にズレる答え。
唇を無理矢理塞ぎ、柔らかな接点を絡ませる。
漏れる嬌声が、私一人だけを現実へと連れ戻していく。
「誰に酔ってるか……言わなきゃ分からない?」
小さく首を横に振るその天然の小悪魔には、何年経っても勝てないだろう。
「私も……酔わせてください」
完全に溶けた氷で薄まった梅酒。
今の私達には、その位の塩梅が丁度良いのだろう。




