幸せの味
「お邪魔するよー!」
「彩さん、いらっしゃい。今ちょうど紅茶を淹れていたので御一緒しませんか?」
「するする! ねぇ聞いてよ。大学でさ── 」
今日は妹の彩が我が家に遊びに来ている。相変わらず距離感が近すぎるけど、私の好きな人を慕ってくれているのは嬉しいし、感謝してる。
「ねぇ、お茶終わったら課題見て欲しいんだけど」
「ふふっ、勿論です。あちらの机でやりましょうか。準備しておきますね」
課題……私には縁が無かった事。
なんとなく蚊帳の外にいるのが嫌なので、彩に課題とやらを見せてもらう。
「これが面倒でさぁ。毎日追われて夢見るようになったよ」
「ふふっ、そうなの? へぇ、これが課題…………」
……何が書いてあるのか全然理解出来ない。彼女がよくカフェのメニューが呪文のようだと言っているけど、その気持ちがよく分かる。
「では始めましょうか。どんな課題ですか?」
「これなんだけどさ、ここの── 」
レベルが高いとは思っていたけど、想像を遥かに超えていた。
納得しながら彼女の話を聞いている彩は……どれ程の努力をして、ここまで来たのだろうか。
彼女と同じ景色を見る為に……
その間、私は何をしていたのだろう。
恋人という立場に胡座をかいていただけ。
せめて少しでも追いつきたくて、その日に本屋へ行ってきた。
彼女が寝静まった後、リビングでこっそりと勉強をするつもりだった。
なのに……全然、分からなかった。
高校生の知識は疎か、中学生の問題ですら私には難しかった。
思えば、この世界に入ってからは学校なんてろくに行きはしなかった。でも、そんなことは理由にならない。
私の中では大人になってきたつもりだったけど、全然中身が伴っていなくて……
これでは彼女の隣を歩けない。
常に努力をし続けてキラキラと輝いている彼女と同じ景色を見ることなんて、出来やしない。
情けなくて悔しくて、一人大泣きをした。
明け方彼女が目を覚ましリビングへやってきて……心配して駆けつけてくれたその優しさに、また涙する。
「日向さん……どうしましたか……? どこか痛みますか? 苦しいですか? それとも、私が何か気に障ることを……」
情けなくも弱気になってしまい、全てを話した。
その間、彼女の瞳はブレることなく私を見つめ続けてくれた。
それから……私を優しく抱きしめてくれた後、静かに準備をし始めた。
ワードローブの前で真剣な顔をしながら服を選び、着替えを介添してくれる。
ドレッサーの前で施してくれるメイクは、今までしてくれたどのメイクアップアーティストよりも可愛くなれている気がした。
ヘアセット、梳る柔らかい手が心地良くて涙が徐々に引いていく。
ここまでされて、漸く気が付いた。
これは……私がいつも、彼女にしてきたこと。
お揃いのシャツを来た彼女は私の頭を優しく撫でて、背中を後押しするように手を引いてくれた。
私の右手を握る彼女。
それは、いつもと似ているようで少しだけ違う景色。
早朝、人が疎らな駅まで来ると、そのまま電車に乗り込んだ。
空いている車内、私を角の席に座らせて、隣に荷物を置く。
そして私を守るかのように、彼女は私の前に立って、優しく頭をポンポンと撫でている。
不安気な顔で見上げると、微笑みながら口を開く彼女。
「髪の毛、お化粧、お洋服……あなたが私を可愛くしてくれるから、私は少しずつ前に進むことが出来ました。いつだってあなたが隣にいてくれるから、どんなときでも私を守ってくれるあなたがいるから、私はこんなにも素敵な世界を知ることが出来ました」
言葉尻、私に手を差し伸べる彼女。開く自動ドアから注がれる光が、美しく彼女を照らす。
頬を伝う涙の理由は、先程とは違っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
潮風にのせられた、彼女の甘い香り。
コーヒーの湯気を見つめる美しい瞳は、どこまでも澄み切った彼女の色をしている。
「……いつも思うんです。こんなにキラキラと輝いている人の隣にいるのが、私なんかで良いのかなって」
「そんなことないよ! 雫は── 」
彼女は私の唇に指を当て、その指を自分の唇へ優しく触れさせた。
恥じらいながらも妖艶に微笑むその淑やかな姿に、只々心を奪われる。
「何十回もその言葉を聞いて……なんでだろう、でもあなたが言うのなら……そう自分に言い聞かせていましたが……私なりに、その理由が分かりました」
穏やかに繰り返される波の音が、彼女の世界へと、深く誘っていく。
「あなたは十二歳から十年間、芸能界という場所で誰よりも頑張ってきました。だからこそ孤独を感じ……だからこそ、あの日あの時あの場所で、私と出会うことが出来ました。あれから一年と九ヶ月、私と見た景色はどんな色をしていましたか? 今こうして私と見ている景色は……どんな匂いがしますか? 私は……私が見てきた景色は、いつだってあなた色に染まって……いつだってあなたの匂いがしていました」
ゆっくりと息を吸うと、幸せが私の身体の中を満たしていく。
その幸せが逃げないようキスをして口を塞ぐ彼女。
私達は互いの世界で頑張ってきた。
そんな簡単なことさえ見えなくなってしまう程に、私は彼女を愛している。
「あなたがいいんです。あなただから好き。あなただから……あなたが恋人だから、私は幸せなんです」
「…………ありがと、雫。好き、大好き。私もね、雫の恋人で幸せなの。幸せすぎちゃって……ふふっ、おかしくなっちゃった。ごめんね」
二人涙して伝うその真ん中で、私達は交じり合い、滴る幸せは混ざり合う。
それは甘くて少し塩っぱい、幸せの味がした。
◇ ◇ ◇ ◇
「ねぇ、せっかくだから観光していこっか。水族館に行ってそれから神社でお参りして……雫、大丈夫? 足が震えちゃってるけど……」
「……差添、お願い出来ますか? ここに来るまでに気力を使い果たしてしまいまして」
「お姫様抱っこしてあげるね……ヨイショっ」
「ひ、日向さん!? そこまでしなくても── 」
走り出す足取りは軽やかで、浦風が私達の背中を後押ししてくれる。
二人一緒なら、二人一緒だから。どこまでも、どこまでも。




