自称・騎士 現る
「お迎えに上がりました、姫」
一人の自称・騎士が私の前で華麗に傅いた。
姫、と呼ばれた私は、その呼び名に不相応にも半開きの口で呆然と突っ立っていた。
一体どうしてこのようになったのか。
今の私にはこの不思議な状況の全貌が見えないでいた。
日本人である私はとにかく、この状況が恥ずかしくてたまらない。
目の前の騎士に跪くのをやめてもらいたいが、言葉も出ない。
とにかく、まずは順を追って思い出す事にする。
◆ ◆ ◆ ◆
私はこの日、人生においてのどん底記録を更新した。
母が亡くなった。
そして慌ただしく葬式をあげた。
集まった親戚は数少なく、その親戚も影で母の噂話で持ちきりだった。
「どこかの愛人になって、子供を身ごもって捨てられたらしいわ。」
「清楚な見た目で、男に媚びて生活費を稼いでいたって。」
「あの子もきっとそうなるのかしら。蛙の子は蛙ってね。」
誰が蛙か。小さく舌打ちをする。
これみよがしに、わざと、聞こえるように話す薄汚い大人たちだ。
噂であって、真実ではない。
棺の中の母の前では凛としていようと決めていた。
私は黙して、あえて胸を張った。
母は美しく、とても目を引く女性だった。
異性からは好奇の目で見られ、同性からは嫉妬の目で見られた。
その為に人付き合いがほぼなかった。それによって、偏見はより深まった。
性格も親切で内気だったので、誰かに突き飛ばされても抵抗しないような人だ。
私はそんな母に苛立つ時も稀に(いや、かなり)あったが、誰かを押し退けてまで前に出ようとしない慎ましい彼女が好きだった。
片親で、私には父親の記憶はないが、何不自由ない様にとあらゆる努力をしてくれていた事を、私は知っている。
二人きりの食卓は温かく、笑顔で溢れていた。
女手一つで働き詰めて、それでも私には笑顔しか見せなかった母を、誇りに思う。
食事の準備に忙しく動いていた時に、それは起こった。
親戚の一人が、そっと私の側に来て囁いた。
「あなたもこれから大変ねぇ。大学に通っているんでしょう?」
「いえ、はい。私はなんとかするので。」
さっき噂話をしていた内の一人だ。
私は当たり障りのない言葉で即座に背中を向け、拒絶を示す。
「あら可愛くない。やっぱり親子ね。
これからは男に脚を開いて生活していく気かしら。
汚らしい。」
無視、だ。阿呆を相手にしても時間の無駄だ。
これは母を見て得た知恵だ。
「それとも、もう既に親子揃ってそんな稼ぎ方をしていたのかしらね。
あの女、まともな教育が出来そうになかったものね。」
無視、だ。
これは挑発だ。乗ったら馬鹿を見る。
「子供は親を選べないんだから、仕方ないわ。
あなたのせいじゃないわ。
私、本当にあなたを気の毒に思っているのよ。」
私の中で何かが切れる音がした。
手にしたオレンジジュースを、振り向きざまに目の前の女に引っ掛けた。
「何するの!」
ヒステリックな声を上げるその口に、手掴みした冷えた唐揚げを突っ込んだ。
「お腹が空いてイライラしてたんですよね?
それで、私に八つ当たりしてたんですよね?」
私は、ニコリと笑いかけた。
「ぐっ、ふ!」
女のくぐもった声がする。
「大人なのに、そんな感情の抑制もできないで子供に当たり散らすなんて…
かわいそうな人。」
哀れんだ表情で見下ろしてから、女の口から手を離す。
口から唐揚げを吐き出して、大きくむせ込んで呼吸を整えているのか目に入り、わざと嫌悪感を隠さない目で睨みつけた。
「あんた!何するのよ!」
「本日は参列いただき、ありがとうございました。」
私は深々とお辞儀をして、財布から一万円札を引き抜いて床に落とす。
「クリーニング代です。どうぞ拾ってお帰りください。」
女は激昂して帰っていった。
その他の参列者もそそくさと帰ってしまった。
私は一人、火葬場で母に最後の別れをしていた。
まるで眠っているように目を閉じていて、褪せない美しさが生きているのではと錯覚させる。
私は可哀相な子供ではない。
この美しく優しい母に育てられた、幸運な子供だ。
今までも、これからも、そう思っている。
そしてついに出棺した母を見送り、骨上げを待つ控え室で、私は泣いた。
母が亡くなってから、初めての涙だった。
「おかしいな、これ。とまらないや。」
気を抜いている場合じゃないのに。
考えなきゃいけない事が沢山あるのに。
私はこの涙の止め方が分からない。
拾骨の時にも涙が溢れて止まず、火葬場のスタッフにとても気を遣わせた。
たった一人で母の骨を拾う若い女は、どこから見ても惨めに映っただろう。
遺骨を胸に、私は帰路に着く。
相変わらず止まらない涙を拭う事も諦めていたが、家に入ると不思議なものでピタリと止んだ。
これからどうすればいいのだろうか。
とにかく、大泣きしたせいで頭が働かない。
今日はもう寝てしまおう、そう思って風呂も入らずベットに倒れこむ。
そのまま、泥のように眠った。
ここまでが、人生最悪の一日だ。
「どうして私にお父さんはいないの?」
幼い頃、こんな疑問を母に問いかけた事がある。
普通のご家庭には父親というものがあるらしい。
「そうね、杏にはママしかいないわね。」
べつだん動揺もせずに母は穏やかな調子でそう答えた。
「二人きりで、寂しい?」
「さみしくなんかないよ!」
問いかけてきた母の方が何故だか寂しそうに見えて、私は即答した。
「じゃあ二人きりでもっと楽しくしよう!ね?」
「うん!」
快活に笑顔を見せる母に、私の顔もまた綻んだ。
母は家を買い、私を大学にまで行かせてくれた。
いくら働き詰めだったとはいえ、そんなお金がどこにあったのだろう。
そして母は働き詰めた挙句、過労で自損事故を起こし、死んでしまった。
駆けつけた病院で横たわる母を見て、私は絶望した。
世界が暗転した。
母が過労なのは、私のせいだった。
「……っ!!」
勢いよくベットから起き上がる。
ひどく汗をかいていて、何か悪い夢でも見た気がする。
窓の外は仄暗く、まだ早朝らしかった。
昨日は帰宅してすぐに寝てしまったのでスーツが皺だらけだ。
とりあえず風呂に入ろう、と立ち上がる。
自室のある二階から、静かに階段を降りる。
物音を立てたら悪いかな、と風呂を躊躇って、我に帰る。
家には私一人しかいないのに。
私はわざと大きく音を立てて風呂場の扉を閉めた。
シャワーを浴びて、軽く食事をして、テレビをつけてニュースを見る。
世間は全くの日常であったなんでもないこの日、私は初めて孤独を抱えて朝を迎えた。
「えっと、まず、どうしよう。
大学やめて、家も売って、就職して、それから…」
それから?
私はこんなにも力がなく、惨めだった。
母が遺したもののほとんどを手放さねばならない。
「くそー泣くもんかぁぁぁ!」
余りの情けなさに涙をこらえて上を向いたその時、
ーーピンポーンーー
家のインターホンが鳴った。
こんな朝の早い時間に何事なのか。
インターホンの画面を見ると、若い男が一人写っていた。
しかもなんだか日本人でもなさそうで、余計に怪しい。
ここは居留守を使うべきではないか、そう思い息を飲んで画面を見詰める。
ーーピンポーンーー
二度目のインターホンが鳴って、画面の男は表情一つ変えずにそこに突っ立っている。
そして突然、玄関のカメラを見た。画面越しに目があって、心臓が跳ねる。
「いらっしゃいますよね?
どうか開けてください。」
流暢な日本語で、男がそう言った。
怪しかろうが、悪い予感がしようが、開けるべきだろう。
首から下げた母のネックレスを握りしめ、その時は何故だかそう思った。
そして玄関へ向かい、扉を開けたーーー
「お迎えに上がりました、姫」
そして今に至る。
◆ ◆ ◆ ◆
私はシモン・サリバン侯爵に仕える者。
騎士のルカ・ヴェルバルドと申します。
この度は主人より仰せつかり、貴女をお迎えに上がりました。
淀みなく、うますぎる日本語でこのように話すイケメン外国人が目の前で私に話しかけている。
疑問はいくつもあった。
一通り聞いたけど、どちら様ですか。
お迎えと聞いたけど、目的なんですか。
言葉と顔が一致しないのですが、お国はどちらですか。
姫とは誰の事ですか。私ですか。
なぜ跪くのですか。
昨日は母の葬式で、今天涯孤独の身なんですが知ってますか。
どこに連れて行こうとしてるのですか。
何者ですか。
いくつもあった。
「なんで?」
そしてやっと出た一言に集約された。
「ですから、」
また同じ事を言おうとしているのが分かって、すぐに言葉を遮る。
「とりあえず、上がってください…」
お母さん、私に何が起きているのでしょうか。
「粗茶ですが…」
「お気遣いなく。」
自称騎士は真面目な顔で姿勢正しく椅子に座る。
清廉な雰囲気がある色素の薄い瞳で、真っ直ぐに私を見ていた。
自称騎士曰く、こうだ。
侯爵である私の父親がイギリスにいて、母の死を知って、私を引き取りたがっている。
そして後継にしたがっている。
簡単に言ってしまえばこうゆう事で、どうもファンタジー臭が否めない。
新手の詐欺かもしれない。
母にイギリス人の夫がいるなんて微塵も聞いた事がない。
父親なんて、今更必要がない。
困っているのは確かだけど、だからこそ付け入るようなこんな話に怒りが湧いてきた。
「わかりました。
わかりましたが、結構です。お引き取りください。」
考えるのも馬鹿らしくなり、こう答えた。
目の前の自称騎士は表情を変えない。
「かしこまりました。」
立ち上がり、玄関へ向かう後ろ姿を拍子抜けした気持ちで眺めた。
もっと食い下がると思っていたのだ。
「では、また明日お伺いします。」
そう言って、玄関から出て行った。
「来るのかよ…」
閉じた玄関に向かって、ため息をついた。