4.地獄
数分後。魂の抜けたような光のない目をした律が、聖アナスタシア学園の制服に身を包み、セミロングのウィッグまで被った律が部屋の隅で膝を抱えていた。唇だけを痙攣させるように動かしなにやらブツブツと呟いており、その一角からは異様な負のオーラが漂っていた。
律も着替えを甘んじて受け入れたわけではない。最初手足をばたつかせているに留まっていたが、力では敵わないとみた律は能力を使ってでも抵抗をしようと試みた。だが、皐月の協力が得られないことでそれは発動させることすらできなかった。
「元気出して、律くん。とっても似合ってるわよ」
律に向かって、追い打ちのように皐月が微笑みかける。
律は童顔で睫毛の長い二重瞼。身長も一六〇センチメートルに満たない小柄で痩せ型だ。実際それは、似合いすぎるくらいに似合っていた。
濃紺のジャケットに、グレンチェックのスカート。ブラウスの襟元には控えめに主張する落ち着いた色のリボンタイ。どこかのデザイナーがデザインしたらしいブレザーを基調とした制服は、そんな律に誂えたようにぴったりだった。
「すげえな……ほんとに女の子にしか見えねえぜ」
皐月の指示の下、半ば無理やり律を着替えさせた田中が、感嘆したように呟く。
そう、確かに一見して女生徒にしか見えない。声変わりもまだ終えていない律は、言葉を交わしても余程察しが良い相手でなければ正体が露見することもないだろう。
聖アナスタシア学園の制服姿が予想以上にはまったことで大満足の皐月と、策が上手くいきそうなことで一安心の田中、ともに表情を和らげていた二人。
だが皐月は、律の様子がおかしいことに気づいた。さっきまで座り込んでいた律が、俯いたまま、唐突に音もなく立ち上がったのだ。
「律くん……?」
訝しがる皐月の言葉が聞こえているのかいないのか、呪詛の言葉が投げかけられた。
「許せない……どうして僕だけ……」
「律、どうし……」
言いかけた田中は思わず息を呑む。律が突然伏せていた顔を上げたからだ。
そこには――少女の姿をした鬼がいた。
「どうして僕だけこんな目に遭うんだ!? おかしいだろう!? いや、おかしい! 絶対におかしい! こんなことがあっていいのか!? こんなことが許せるか!? 許せないよなあ!? なあ、皐月さん! そうだろ!?」
「り、律くん。お、落ち着いて」
水を向けられた皐月が顔を引き攣らせながら宥めようとするが、鬼と化した律は止まらない。田中はといえば「これが最近のキレる若者か……いやキレる若者って最近は聞かねえな……」などと現実逃避を始めていた。
「落ち着いて? 落ち着いてだって!? これが落ち着いていられるか!? なあ、田中さん、あんた落ち着けるか!? 同じことをされて落ち着いていられるか!? そうだ! そうだよ! あんたも同じことをされてみればいいんだ! あはははははははははは! そうだ! あんたも着ればいいんだ! 嫌だとは言わせないぞ。拒否権は認めないぞ。僕がどれだけ抵抗してもあんたは無理やり僕に……僕にこれを! わかるか? 僕が今どんな気持ちかわかるか!? この気持ちをあんたも味わってみればいい! さあ脱げ! そしてこれを着ろ!」
血走った目で口の端から泡を飛ばし、田中へ詰め寄りながら律は制服を脱いでいく。そのあまりの剣幕に田中はただ後ずさることしかできない。そしてすぐに壁まで追い詰められた田中は、下着姿となり手に制服とウイッグを携えた律を見上げるような形になる。
どん、と渾身の力を込め、律が制服を握った手を田中の真横の壁へ叩きつける。
「んひいッ」
思わず小さな悲鳴を漏らす田中に、律は虚のような目でたった一言だけ呟いた。
「着ろ」
追い詰められた哀れな田中は、ただ頷くことしかできなかった。
このとき皐月は内心、矛先が自分に向かず安堵していた。
「……これが壁ドンってやつね」
場を宥めようとした皐月の発言は、なんの意味も成さなかった。
*
十分ほど後。サイズの合っていないぴちぴちの女子制服に身を包んだ変態が、律の部屋に爆誕していた。
「うわあ……」
形容するのも避けたいといった表情を浮かべた皐月が声を漏らす。
蔑みの視線を向けられた変態・田中は先程の律のように部屋の隅に蹲り、しくしくと涙に暮れていた。
田中の身包みを引き剥がし無理やり制服を被せた律だが、あまりに醜悪な光景に思わず我に返ったように呟いた。
「これはひどい……」
律のつぶやきに、田中は昏い目を向けた。
「お前がやったんじゃねえか……」
「いや、そうだけど……スカートなんか半ば自主的に履いてたじゃないか」
実際は律の狂気を目の当たりにして、もうなにをしても駄目だと諦めの境地に至った結果なのだが、変態を生み出した当の律は硬い声で頬をひくつかせながら言った。
「実はちょっと着てみたかった、とかじゃないよな……あんた、いい歳してなにやってるんだ」
その一言に、田中の中でなにかが音を立てて壊れた。
やけくそになった田中が叫ぶように言った。
「俺か? 女子中学生のTさぁんッ! 略してJCTだッ! よろしくねェーッ! ああそうだァ!? このきゃわいい格好を雫ちゃんに送ってあげなくちゃッ!」
唐突にスマートフォンを取り出した田中は、あろうことか自分の姿を写真に収め始めた。
「……気が狂いそうな光景ね」
「……ああ」
狂乱状態の田中を尻目に、皐月と律はげんなりとした表情で囁き合う。背後で田中は、カシャリ、カシャリとシャッター音が鳴るごとにポーズまで決め始めた。女子中学生の制服を着用し、顔の横でピースをする二十七歳。ウインクをし、舌まで出している光景は、律の瞼に新たなトラウマとなって焼き付いた。
田中を視界に入れないよう律の方へ向き直った皐月は、膝をついて手を合わせた。
「あの怪物をこの部屋から決して出してはいけないわ。律くん、改めてお願いできるかしら……」
皐月の心からの懇願と目の前で繰り広げられる地獄に、律は頷くしかなかった。







