17.新たな力
――時は少し遡る。
皐月は大立ち回りを見せる田中と、その田中に危ういところで救われた律を見ながら静かに思考していた。
これは〝絶対にできる〟という確信が必要だ。そしてゆくゆくは、〝できて当たり前〟という必然性。呼吸をするように、意識せずとも行えるくらいにならなくてはならない。
だから何気ない調子を装った声音は、食卓で調味料を取ってもらうような気軽さで響く。
「律くん」
律に向かって余裕を湛えた笑みを見せる皐月だが、内心は穏やかではなかった。
皐月はこの土壇場で、律に更なる能力を開花させようとしていたのだった。
「いくら深夜とはいえ、これだけ大騒ぎしたら人に見られるかもしれないわ。そろそろあの獣をやっつけましょう?」
「で、できるのか!?」
皐月の言葉に、律は即座に食いついた。
その可能性に律の脳が気づいたのは最近だ。律の世界と現実の世界。それらのズレを顧みて、『更生プログラム』の障害となり得るものがないかを確認していたときのことだった。
この能力を律が得れば、あの女ですら排除できるかもしれない。だがそれは、自己が崩壊しかねない危険も孕んでいる。ゆえに、ひとつの可能性として留めていたのだった。
「負ける要素が無いわ。その理由はふたつ」
踏み切ったきっかけは、律があの女の圧力に晒されたことだ。狂気に囚われながらも精神が壊れる手前で踏み留まり、離脱後とはいえ正気を取り戻した。これは皐月にとって瞠目すべきことだった。
引きこもるようになった直後、或いは今の皐月と出会った当初であっても、律はあの女に出くわしただけで取り返しのつかぬほど心を自壊させてしまっただろう。それは一種の防衛本能だ。苦しみ抜いた果てに命を奪われるくらいなら、狂気に囚われ何も分からぬうちに死んでしまったほうがマシだという反応。それを危惧していたからこそ、皐月は凶気の少女と出くわした際、〝まだ早い〟と焦っていたのだった。
しかし皐月の予想に反し、律の精神は耐えた。皐月の幽霊、首吊り男、悪夢の殺人鬼と経験を経た律は、予想を超える速度で精神を強靭に、自我を強固に成長させていたのだ。
「ひとつは〝あの女〟がいなくなったから。こっちは説明しなくてもいいわよね?」
苦しげな表情を浮かべ頷く律に内心胸が痛む。
今の律ならばできるかもしれない――確信は無いが、可能性はある。平時ならば絶対に勧めない、分の悪すぎるギャンブルだ。だがしかし、この賭けに勝てなければ間違いなく律は死ぬ。仮になんとか人狼から逃げ果せたとしても、押し付けられる死が少々先延ばしになるだけだ。ただでさえ負荷の掛かっている律の脳へ、より大きな負荷を掛けることになる。日常へと戻るという『更生』の目的とも逆行する。それは承知の上だ。しかしあの女に姿を見られてしまった以上、更なる能力を身につけなければ律に未来はない。達人の回避という盾以外に、脅威を刺し穿つ矛が必要なのだ。
「もうひとつは、きみが〝戻って〟きてくれたから。律くんがあの状態から戻ってきた時点で、この戦いはもう勝ちなのよ」
これまでは律の自由意志を尊重し、皐月はあくまでサポートに徹してきた。しかしやむを得ない事態となれば、律という人格を消滅させ、皐月が律に成り代わるしかない。皐月にとっては、個体の生命維持が再優先事項だった。
「どうやって?」
律は真剣な表情で皐月に問うてきた。いまのところ、律は皐月の言葉を素直に受け止めてくれている。
皐月ならば、新しい能力もそつなく使いこなせるだろう。だが一種の自我を獲得した今の皐月は、律を消してまで生き残ることに違和感を覚えていた。端的に言えば――
「簡単よ」
――律が消えるのは嫌だった。
密かな覚悟を決めた皐月は微笑みを消す。冷たい表情で告げたそれは、祈りにも似ていた。
「――〝世界を変える〟のよ」
皐月の言葉を聞き、律は戸惑ったように目を瞬かせる。
正しい反応だ。いきなりそんなことを言われれば誰だってそうなるだろう。皐月は心の内で苦笑する。
だが、すぐに真摯な表情が返ってきたことに今度は皐月のほうが戸惑った。
「……わかった。教えてくれ、皐月さん。僕はどうすればいい」
疑いや失望の色はない。言葉から、声色から、表情から、皐月への信頼が表れていた。
そのことに皐月は胸がいっぱいになる。だが、同時に微かな違和感も覚えた。
嬉しい、というこの感覚は、本当に律の脳のものなのだろうか? 言ってみればこれは、自己との対話で方針を定めただけのことだ。コミュニケーションのために申し訳程度の自我を備えた皐月が、ここまで感情を揺すぶられるものだろうか?
――しかし今はそんなことを突き詰めて考えている暇はない。無事に帰ってから、ゆっくり議論でもするとしよう。そこで皐月は言葉だけでなく、心でも律の勝利を確信していることに気づいた。それがどこか可笑しくて、折角作った真剣な表情を思わず崩してしまった。
皐月は小さく笑いながら言った。
「ぶん殴ってやりなさい」
きみならできるわ、という熱と確信を込めて言った。
「ぶん殴って、ボコボコにして、KOしてやるの。〝人狼が殴り倒されたという認識〟を押し付けてやるのよ!」







