2.頭の中の幽霊
「や、律くん。遅れてごめんね」
「皐月……さん?」
驚愕、狂喜、不安、疑問、そして恐怖。律の中で様々な感情が渦巻き、ようやくそれだけ絞り出した。
生きていたの、とは聞けなかった。眼前で微笑む皐月は傷や出血どころか服の乱れすらない。あれだけの事故でそれはありえない。何より、振り向けばまだそこに酷く損壊した彼女があったのだ。つまり、目の前の皐月は彼女とは別の誰かだ。混乱した頭でもそれに思い至った律は、訝しむように言った。
「あなたは誰、なんですか」
よく似た他人? しかし赤の他人が記憶の中の皐月とここまで声色や仕草まで似るものだろうか。まさか双子? いや、皐月は雑談の中で一人っ子だと言っていた。仮に双子だとしても、こんなにも似ているものなのか? 双子だとしたら、そもそも彼女はなぜそんな嘘を……?
再び乱れていく律の思考を遮るように、皐月……によく似た女性は言った。
「残念ながらどれも不正解よ。母親でも親戚でもないし、整形手術を受けた他人でもない。ドッペルゲンガー……は当たらずも遠からずといったところね」
泡沫のように脳裏へ浮かんだ選択肢を次々と言い当てられた上にことごとく否定されて、律は愕然とする。
「私は律くんの精神が造り出した存在よ」
「……は?」
「わからない? 要は幻影、妄想の類ね。あの事件とそれに伴う長期間の引きこもり生活でただでさえ弱っていたきみの精神は、私の死によって崩壊寸前だったの。そこで咄嗟に一種の防衛機能が働いて、私という存在を造り上げたのよ。頭の中の友達ならぬ頭の中の幽霊ってとこ。……がっかりした?」
言葉の意味は分かるが、何を言われているのかわからない。早口で捲し立てられた内容は、律の中でほとんど意味を成さなかった。
「な、なにを」
そんな律の態度に、皐月の幽霊を名乗る存在は不満げに頬を膨らませる。
「ねえ、本当はわかっているはずよ、私はきみなんだから。そうねえ」
悪戯を思いついた少女のようににやりと笑った彼女は、律の耳にそっと口を寄せた。
「律くんが引きこもりになった原因は……」
耳元で囁かれた内容に、律の目が限界まで見開かれる。皐月の顔をした女が、得体の知れぬ不気味な存在に変わった。
けたたましいサイレンを響かせながらようやく到着した救急車が、彼女だったものを載せて走り去っていった。
去っていく救急車のサイレンが小さくなっていき、やがて聞こえなくなった頃、律はようやく口を開いた。
「な……んで?」
「言ったでしょう? 私はきみなんだって。きみが知っていることは、私も全部知っているわ。いい加減信じてくれたかしら? 小学生の頃に好きだった女の子とか、今のお家に引っ越す前に友達と作った秘密基地の場所まで言ったほうがいい?」
楽しげに口を開き、自分の秘密を暴き立てる女の声に、じわりと染み出した汗が律の背中を伝う。あの出来事はもちろん、あとに語られた内容も自分しか知らないはずだ。それを皐月の顔をした女は、まるで見てきたように語る。
かといって女の言う荒唐無稽な内容――眼の前の女が自分の妄想であることなど、信じられなかった。幽霊を名乗る女は確かに質量を持って存在しているように見える。ちゃんと影もあるし、先程もくすぐったいような吐息を耳元に感じたのだ、信じられないし、信じたくなかった。
しかし信じるしかない、そんな気持ちも確かにあった。女は律が黙っている間にも、律自身でも忘れていたような、自分しか知らないはずの内容を次々開示していくのだ。それに、事故現場にはあれだけの人が集まっていたのだ、事故に遭った女性と同じ顔をした女がすぐ傍にいたら、もっと騒ぎになっていてもおかしくはない。
律は長い黙考の後、じっと眼の前の女を見つめ、そして呟くように言った。
「……でいい」
言いながら、乱れていた心が不思議と落ち着いていることに律は気付いた。
「それで、いい。皐月さんが目に映って、僕と話して、そこにいるなら……それでいい」
ひとつひとつ確かめるように紡がれた律の言葉を聞いた女――皐月は、満足気に微笑んだ。