起
“大人は、だれも、はじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいる大人は、いくらもいない。(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 『星の王子様』 内藤濯訳)”
気が付くと、あたりは白銀だった。
轟々と音を立てて吹く風。積もり積もっていく白雪。それだというのに、自然と寒さは感じない。それどころか、どこかフワフワとした暖かささえ感じる。
「……あれ……」
目を覚ました私はゆっくりと立ち上がり、周囲を見回して首を傾げる。どうして私は、こんなところにいるのだろう。
現状を確認しようとしたものの、視界は荒れ狂う吹雪で不明瞭。思考も妙にフワフワして上手く纏まらない。……昨日はお酒を飲んだ覚えもない。だって今日は、大切なプレゼンがあったはずなのだ。しかも、真冬とはいえ、東京にこれほどの雪が降ることなどあるのだろうか……。
思考がそこまで及んだときだった。突然、先程まで私の視界を覆っていた猛吹雪が跡形もなく霧散した。私は驚き、再びあたりを見回す。すると背後から声をかけられた。
「やあ、いち―ん――ぶり、だね」
突然かけられた挨拶に戸惑いながらも、その声の聞こえてきた方を向くと、一人の若い男が立っていた。男は長身で、そこそこきれいで優し気な顔付きをしている。
そして、なんとも不思議な雰囲気を纏っていて、まるで童話に出てくる王子様の様な恰好をしているが、なかなかどうして似合っているのだ。
あたりに人の姿が全くない場所で、女である私が見知らぬ、しかも変な恰好をした若い男に親しげに話しかけられる。どう考えても安穏と出来る状況ではないだろう。それだというのに、私は何故だか落ち着いていた。……あるいは、彼から感じる懐かしい雰囲気が、私にそうさせたのかもしれなかった。
「あなたは……だれ?」
私の質問に、彼は苦笑する。何故だか心の奥底が安心してしまう、そんな笑顔だった。
「――だよ」
長身の彼はそう答えた。そして、聞き取れずに首を傾げる私に対して、彼は再び破顔する。
そういえば、最初の挨拶もなんと言っているか聞き取れない箇所があった。……あった? ハッキリとは思い出せないが、あった気がする。
「とはいっても、君には聞き取れない。聞き取れてしまっては、いけないんだ」
「どういう、こと?」
困惑する私の声に、彼はゆっくりと首を横に振る。
「僕からは答えることはできない。ただ、君は周りの景色が見えるかい? さっきまで考えていたことがわかるかな? そういうことだ」
彼の言葉を受けて、私は遠くの景色をよく見ようと目を細めてみる。しかし、ハッキリとは見えなかった。まるでピンボケ写真のように全体がぼやけてしまうのだ。
続いて、先程まで考えていたことを思い出そうとしてみる。しかし、まるでつかみ所のない霧のように、掴んだ端から文字通り霧散していってしまう。
別に視力は悪くないし、まだボケるような年齢でもない。明らかに不自然でどう考えてもおかしいのだけれど、しかし、何故だろうか、それが当たり前のような気がするのだ。彼の言う通り、きっと、そういうことなのだろう。
そんな私の様子を黙って見ていた彼は、私がその結論に辿り着いたのがさも当然であるかのようにひとり頷くと、此方に左手の平を差し出してきた。
「さあ、いこう。時間はそれ程多くはない」
彼の言葉に、私は自然と頷いていた。そして迷いなく彼の手を取る。
王子様の恰好をした彼は、すぐに私の手を引きながら歩き始めた。足元の降り積もった雪を踏み抜く様子は見受けられない。おそらくこれも、そういうものなのだろう。
二人で黙々と歩いていくうちに、私はあることに気が付いた。私達は何かを登っているのだ。それが何かはよくわからなかったが、とにかく登っていることは確かだった。
そのことに気づいてから、更にもう少し歩いた頃――その頃、彼の先導するペースはやや早くなっていた――彼は私の手を引きながら口を開いた。
「いいかい。君は今から、失っていた『本当に大切なもの』を取り戻しにいくんだ」
それは唐突な言葉だったが、同時によく聞き慣れた言葉でもある気がした。……朝に弱い娘を起こそうとする母親の言葉のような。
「『大切なもの』を……取り戻す」
「そう。それは君の心の中にあるんだ。……さあ、時間だ。いって――お――で―――」
私の視界は真っ白な光に覆われ、彼の声は、段々と小さくなっていった。