その日初めて僕は愛に気付いた。
泡沫の幸せは終わりを迎えた。
否。これは終わりではない。こうして胸に宿る満足感に、吐息が漏れた。
同時に、口の中には鉄の味が広がる。
まるで喧騒の如き称賛。その中心に居る者は今にも泣き出してしまいそうだ。
いつかは訪れる結末。
けれど、贅沢を言うのならもう少しだけ……もう少しだけ、後に訪れて欲しかった。
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いつの日か、雪の中に行き倒れていた少年を助けた。
その日は特上の酒が手に入り、気分が良かった。きっと、そうでなければ見向きもしなかったであろうそれに、私は手を伸ばした。
まだ幼さの残る少年は、この寒さの中をこの薄着のみで出歩いていたようだ。冷えきった少年の体は、酔い火照った熱を冷ますのに丁度よく、また心地よかった。
翌日、目が覚めると隣に聞こえる呼吸音に警戒したものだ。
自分から寝床に酔って連れ込んだのを思い出したのは、すぐだったが。
薄暗い洞穴に、灯る火が揺らめく。
これで凍え死ぬ事はなかろう。
折角の気まぐれだ、簡単に死んでしまっては味気無い。
洞穴に未だ目覚めぬ少年を残し、この足は山を駆けた。
翌日。
食事を終え洞穴に戻ってみたが、少年は未だに目覚める様子は無い。
生きてはいるようだが、意識は無い。
飽きたな。
少年を背負い、里の近くへと捨てた。
この気まぐれが、この先の自分を大きく変える事になるとは夢にも思わなかった。
当然だろう。私は魔のモノ。少年は何の変哲もない人間だったのだから。取るに足らない存在程度にしか思わなかった。
それから季節が過ぎ、雪は溶け、新緑が芽吹く頃にその少年は再び洞穴へと戻ってきた。
私の顔を見るなり、あろう事か安堵の表情を見せたのだ。
先日の礼が言いたいとのたまう。
あれはただの気まぐれだ。
そう言い捨て、少年を追い返した。
また、季節が一つ変わった。
追い返した少年がまた洞穴へ来ていた。
籠いっぱいの食料を差し出し、助けられた礼だと言う。
再び追い返そうとしたが、それだけを置くと少年はすぐにこの場を立ち去った。
その日、初めて人間の食物を口にした。
また、次の季節にも少年はこの洞穴に訪れた。
前回と同様に食料を持って。
少年は純粋な目をして問うた。
どうして人里離れた場所で暮らすのか、と。
いずれ分かる時が来る。
答えを返さぬまま、少年はこの場を立ち去った。
それから、幾度と無く過ぎる年月に、季節が変わるたびに少年は私の元へと訪れた。
いつしか、滞在する時間は増え、言葉を交わし、同じ釜の飯を、食い、それが新たな季節の始まりの証となっていた。
少年は語る。人の世を。
私は語らない。魔のモノを。
けれど、自然に、少年は私の日常の中へと溶け込んでいった。
ある時、待てども待てども少年は来なかった。
季節はとうに過ぎたのに、その姿を見ることは無かった。
つまらない。
純粋に、そう思った。
次の季節、少年は再び姿を現した。
どうやら少しこの地を離れていたようだ。
少年は嬉しそうに語る。見習いではあるが、憧れであった騎士になれたと。
それからはまた、同じような日常が過ぎていった。
季節が変われば彼が来る。
そういった、日常だった。
平穏とは突如として崩れ去るものだ。
ある時、少年は言った。
この辺りに凶悪な魔物が居る、と。
私は何も答えなかった。
食事をするにも、山の近くでは気も乗らず、少し離れた所へとやってきた。
だと言うのに何故。何故、少年がここに居るのだ。
視線が重なり、時間が止まったかのように思えた。
人の姿ではない私を、少年の前に晒してしまった。
醜悪なその容貌を、魔のモノとして人間を襲う姿を、人間を喰らう姿を晒してしまった。
逃げるように、洞穴へと戻った。
それから少年は姿を現さない。
当然だ、私は人間を襲う化け物なのだから。
しかし、どうした事だろうか。
どうして、こんなにも胸を焦がしてしまうのだろう。
少年が姿を現した。
否。群がる人間の中に、少年の姿を見付けた。
討伐隊、というやつだろう。
その中に、少年は居た。
そうだ。それでいい。お前は人間なのだから。
もはや逃げ場はない。逃げる気もない。
だが、無抵抗で殺されるわけにもいかない。
そうだな。
この身を有象無象に辱められたくはない。
群がる人間は次第に骸となり地に伏せる。
数を減らす人間の中から一人が飛び出し、迎え撃とうとした。
動けなかった。
胸に深々と突き刺さる剣が、私の敗北を決定付ける。
人間の勝ちだ。
動きを止めた私に、幾重もの刃が突き刺さった。
ああ。どうして、君は……そんなに泣きそうな顔をしているんだ。
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名前も知らない怪物はもう動かない。
語らない。
もう、何も語らない。
怪物の骸は、ただ、ずっと、最後まで僕を見据えていた。
優しくて、儚げで。
とても愛おしい目で僕を見据えていた。
称賛なんていらない。
僕は英雄なんかじゃない。
大切な人すら守れなかった、ちっぽけで弱い存在だ。
あろう事か、命の恩人をこの手にかけたのだ。
こんなものが、正義であってたまるか。
事切れた怪物を抱きとめた感触だけが今もずっと、僕の手の中に残り続けている。