序章3の4 泥死合
「どう・・して・・・。」
千春が何とか絞り出せたのは、そんな疑問だった。
「んん?ああ、テメエら、あそこから脱走したんだってな。
お陰で旦那は、蟹見てェにカンッカンに茹で上がっちまってるよ。
たく、客の俺達にまで捕獲を手伝わせやがって・・・、こっちにとっちゃあ、まったくイイ迷惑だぜ。
せっかく遊びに行ったってのによ。」
うんざりした調子で男は言った。
「そんで、テキトーにその辺ぶらぶらしてたら、ここに入っていくガキ二人を見たって聞いてピンと来た訳よ。
この辺りの路地裏のことを知ってて入る奴なんざ、まずいねえ・・・。ここに来る奴は無知のバカか、疚しいことを抱えるアホか、イカレって相場が決まってる。」
「だから、十中八九テメエらだろうってな。
残念だったなあ、ここは俺達が良く使う仕事場なんだよ。この路地のことはよぉーく知ってる。
ここの住人にテメエらがここまで来るようそれとなく誘導するよう仕込んでおいた。
不思議だったろ・・・、ここに入ってから誰にも会わねえ。所々道が塞がれていた。なのに、行き止まりがねえ。
つまりはそういうことだ。」
男は、さも当然であるかのように事の次第を語った。
「そんで大当たり。間抜けな二人がまんまと掛かった、てな訳だ。」
そう言って男は袖の下から取り出した煙草を吸い始めた。
何ということか・・・、決死の覚悟であの窖を抜け出し、ここまで逃げてきたのに。
手前勝手に、追手があの店の者だけだと決めつけていた。
路地裏の方が見つけられにくいと安易に思い込んでしまった。
私の浅はかな考えのせいで、再びあいつ等の手の上に舞い落ちてしまったのか・・・。
私ばかりでなく、茜までもその報いを受けなければならないのか・・・。
何が、姉だ・・・、何が守り抜く、だ・・・。
千春は、頭蓋を殴打されたような、視界が歪曲するような眩暈を覚えた。
あの瞬間、あの通りで、致命的な選択を下してしまった己が身の愚かさを呪った。
血が滲むほど拳を握り占める。
悔しさのあまり、思わず涙が零れた。
「ただまあ・・・、」
紫煙を吐き出しながら、足下に転がるソレを鋭く睨み、
「話の通じねえ、奴もいたけどなッ!」
男の爪先が、足下に横たわる者の腹部に突き刺さり、鈍い音が響く。
「このボケが!誰が、アレに、手ェ、出して、良いっつたよ!」
腹に、胸に、腕に、顔に・・・。
男は何度も何度も無造作に蹴りを入れていく。
次第に湿った音が混じり始めた。
「アレが、使いモンに、ならなく、なってたら、どう、責任、とって、くれんだよ!」
そして、ようやく鈍い音が止む。
その時にはもう、その者の纏う布と髪は赤黒く血に汚れ、全身がボロボロになっていた。腕も不自然な方向へと曲がっていた。
あれだけ二人を苦しめたあの幽鬼は、見るも無残な姿に成り果てた。
男は、ハアハアと乱れた息と着物を整え、千春と茜の方へ向き直った。
「さーて、それじゃテメエらを連れていきゃ、しめえだな。」
男はゆったりとした足取りで迫ってくる。
「来ないで!」
鋭い叫びが放たれた。千春は対峙するように棒切れを構えた。
男はその姿に、訳の分からないモノを訝しむ様な目を向ける。
「何やってんのお前。そんなもんで俺が怖気付くとでも思ってんのか?」
そんなことは千春が一番分かっていた。
こんな棒切れ一本で、どうにかできるような状況でないことを。だがそれでも、
「私達はもう二度とあそこには戻らない!」
なけなしの勇気を奮い立てる。
「テメエの意志なんざ、知らねえよ。テメエらをあの店に連れ戻す。そしてテメエらは一生、俺達専用の玩具に戻る。これは決定事項だ。」
「違う!私達は絶対に父さんと母さんのもとに帰るの。そして、絶対にみんなで幸せになるの!」
決してこの時だけは退けなかった。
背後には茜がいる。今まで散々怖い思いをさせてしまった。
私の愚かさに突き合わせてしまった。
己が業の報いを受けるのは私一人だけでいい。
せめて・・・、だからせめて、茜だけはどうかここから無事に逃げ切ってほしい。
「茜!ここは私が何とかするから、あなたは早く先にここから逃げて!」
「でも、おねえちゃんも・・・、」
「いいから、早く!後で必ず追いつくから。」
茜の言葉を遮る。
茜は猶も何かを言いたそうに千春を見つめたが、千春の必死の剣幕に押され、この場を走り去って行った。
「ぜったい、ぜったいだからね!」
茜の言葉を背に受ける。
男は心底うんざりした様子で告げる。
「幸せになるだぁ?くだらねえ、くだらねえ、くだらねエッ!!
淫売の雌ガキで俺達の玩具の分際でよォ、幸せになるだァ?
寝言なら布団の上で吐けや。テメエらのシアワセとやらは、何時でも転がってんだろ。
あの部屋の布団の上によォ。猿みてェにキーキー嬌声上げてんのがテメエ等のシアワセってやつだ。」
「黙れええええッ!」
怒りが頭を支配する。
耳が腐る。この男の言葉は、もはや一言だって聞きたくなかった。
無我夢中で握り締めた棒切れを振り下ろす。
しかし男はアッサリとその一撃を躱し、互いの身体が交わさった刹那に千春の手首を掴んだ。
「大振り過ぎだぜエ、お嬢ちゃん。もっと鋭くスマートでなきゃ・・・。こんなふうに、よ!」
男に腕を引き上げられたその時、無防備に晒された千春の胴へ、男の足が突き刺さった。
吹っ飛ばされた千春は地面を転がり、周囲に散乱するゴミをまとめて吹き散らかす。
棒切れが千春の手から零れ落ち、カラン、カランと子気味良い音が響いた。
「ゴホ、ガハ・・・、」
千春は咽返りそうになりながらも何とか息を吐き出す。
腹部から全身へと鈍痛が伝播する。吐き出される息は血の味がした。
朦朧とする意識の中、武器を取り戻そうと落下音のした方へ這い擦り、手を伸ばす。
痛みが身体の機能を奪う。立ち上がることすら出来ず、その動きも緩慢になる。
必死に伸ばした手が、それを掴んだ瞬間、
「おおっと、何処へ行こうというのかね?」
千春の腕に、男の足が振り下ろされた。激痛により再び千春の手中を離れる。
更に男はその足に体重をかけ、千春の細い腕を躙った。
「ギィッ!ク・・・ウゥ・・・。」
足が動くたびに、腕に焼けるような痛みが刺さる。
「はい、惜しかったねえ。もうちょっとのところだったのになあ。」
男は、足で千春を仰向けに転がす。
どこまでも汚らわしい下卑たニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「ムグッ!」
千春の口を押さえつけ、男はその上に馬乗りになる。
「最近はよォ・・・、何っか物足りねえ、って感じてたんだよ。
それが何なのかが分かんなかったんだが・・・、今やっとそれが分かったよ。
なあ、お嬢ちゃん。それは何だと思う?」
不愉快な二ヤけ面で、そう問うてきた。
「それはなあ、その反抗的な目だよ。
無駄に従順なテメエらを犯すのも悪くわなかったんだが、やァっぱ、こっちの方がソソられんだよ。
反抗的なヤツをヤる方が犯し甲斐があるってもんよ。
店の旦那にゃア、捕まえるだけにしろっつわれたけど、どうせ後でヤるんだ。
今ここで犯っちまっても、早いか遅いかの違いしかねえよなあ。」
聞きたくもない悍ましい言葉が、千春の耳に滑り込んでくる。
そして、
「ああそうだ、この後であのチビガキの方もキッチリと犯してやるから安心しろよ。
ちゃアんとテメエの目の前の特等席で見せてやるからよ。」
怒りが脳を燃やす。視界が赤く染まるような感覚に囚われた。
千春は息を荒げて、より一層激しく暴れた。
「いいねえ、その目だよ。
アア、懐かしいなあ・・・。」
しかし千春の死に物狂いの抵抗も虚しく、男は何ら痛痒をみせることは無い。
その縛めから逃れることは叶わなかった。
千春の決死も、大人と子供の体格差、身体能力の差を覆すには、土台余りにも非力過ぎた。
男は無造作に千春の衣服を剥ぎ取っていく。
次々と身体を覆い、守るものが破り捨てられ、その肢体が瞬く間に露わになっていく。
これまでも数え切れないほどに自身の裸体を見られ、多くの男達の慰みモノにされてきたが、その屈辱感と羞恥心は、決して薄まることも、消えることも無かった。
自身の無力さに止め処無く涙が流れた。
「悔しいか?悔しいだろ!咽び泣いて絶望しろや、オラァ!
所詮テメエらなんざ、そんなもんなんだよ。一生どん底にいんのがお似合いだ。這い蹲って、舐めって、しゃぶって、善がってンのが、テメエら雌ガキのシアワセだろうがよォ!
ヒャーッハハハハハハハッ!」
男の哄笑が路地に木霊する。
(違うッ!そんなもの、私達の幸せなんかじゃない!)
男の戯言を頭の中から叩き出す。千春は歯を食いしばり、手を動かし周囲のゴミを弄る。
少しでも武器になるモノを求めて。
そして・・・、
「イッてえッ!このクソガキがッ!」
首を振り、生じた僅かな隙間に上顎を滑り込ませ、千春は思い切り男の手に咬み付いた。
男が思わず千春から手を離し、仰け反った。
その生じた一瞬のスキに、ゴミの中から掴み取ったモノを千春は男の側頭部に叩き込んだ。
男の身体が横に揺らぐ同時に、パリンッという乾いた音が走り、割れたガラスの欠片が降り注いだ。
「ギャアアアアアアアアアアアーッ!!」
「クッ!」
男が絶叫し、頭を押さえて転げ回った。
千春は降り注いだガラス片を何とか防いだ直後に上体を起こし、逆に男の上に馬乗りとなる。
その手に握る割れて鋭利に尖ったガラス瓶を、男の顔へ突き立てようと振り下ろした。
気付いた男は咄嗟にソレを左手で庇った。
「ぐううううッ!」
ガラス瓶は男の左手に突き刺さり、そこから大量の血が溢れた。
しかし致命傷には至らなかった。
即座に男はもう片方の手で、千春を力の限りに殴り飛ばし、引き離して立ち上がった。
「この、この、このクソカスがああああああッ!
よくも、よくもやってくれやがったな。ヒトが下手に出りゃア、調子に乗りやがって!」
男は息も荒く、足下に転がる千春を何度も何度も踏み付けた。
「この、クソが、クソが、クソが、クソが、クソがあああああああああああああッ!」
容赦無く踏み付けていくその男の顔には、先ほどまでの余裕は一切消え去り、憤怒の一色に染め上げられていた。
「あァ、もういいや。旦那だか何だか知らねェが、もう関係ねエ。
ここでこのクソを殺さなきゃ俺の気が済まねェ。」
しばらく千春を踏み続けていた後に、男は懐から短刀を取り出すと、それを鞘から抜き放った。
千春は既に満身創痍だった。
身体中には無数の青痣が浮かび上がり、その全身を覆う激しい痛みが、千春の意識を朦朧とさせる。
視界は歪み、総ての動きが、ひどく緩慢なものに見える。
男が短刀の刃を剥き出しにしたところを見ても、反応できない。
避けることはおろか腕を動かすことさえ、千春には困難だった。
ゆったりとした動作で千春の前にしゃがみ込み、短刀を持つ腕をゆっくりと振り上げる。
「さっさとくたばっちまえや・・・、腐れ淫売のメス餓鬼。」
そう告げると、男は何の躊躇も無く、振り上げた腕を落下させた。
刃物が突き刺さる音が路地裏に響き渡った。
刃が肉の中に深々と埋もれていく感触を、握る得物を通して男も感じていた。