第1章の42 向管成敗
◇3
右へ、左へ、そしてまた右へ。
暗く狭い路地裏を只ひたすらに疾走し、駆け抜ける。
既に幾つもの十字路や分岐路を通過して来たが、未だに袋小路にぶつかることなく進めている。
勿論、迷宮のように複雑に入り組んでいる帝都の裏道を全て把握している訳ではない。
だけどそれでも、どの通路を選んで進めば良いかは何となく分かる。
それは理屈じゃない、天啓めいた直感だ。
日の下へ出ることも出来ず、数え切れない程の日陰の道を駆け抜けてきた末に培われた感覚。
私の身体に嫌と言う程刻み込まれ、骨の髄まで染み付いた経験則が、瞬時に行くべき先を指し示す。
「お兄ちゃん、次の三つめの十字路を左にッ!」
暗闇へ潜る度、一体何度願ったことか。
本当は今すぐにでもこんなモノ、棄て去ってしまいたい、と。
だけどどれだけ洗い雪ごうとも、腐臭のようにこびりついて離れない。暗がりや汚物の中を這い回る溝鼠のような唾棄すべきこの習性。
こんなものは私にとって忌まわしい過去の呪縛でしかなかった。
なのに今、私はその自己嫌悪から解き放たれている。
それと共に、感じる初めての感情。
初めての歓喜の感情が、私の胸の内を満たす。
こんな私でも深夜さんとステラさんの力になれるんだって知ったから。
卑しい動物めいた生き汚さが、二人を助ける手段となっているのだから。
こんな状況にもかかわらず。
というよりも、こんな状況だからこそなのか。
翔ける足が自然と軽くなるのは。
そして顔が綻び、心が躍るのは。
「おい千春、千春ッ!」
「ッと・・・、なに、お兄ちゃん?」
ハッと、我に返る。
「何かあったのか?
何度か呼んでも反応が無かったからよ。」
「ごめんね、ちょっとどの道を進もうかって考えに集中し過ぎてたみたい。」
いけない、いけない。
少し感傷に浸り過ぎてしまっていた。
そんな余裕がある状況でもないのに。
「もう大丈夫だから。」
気持ちを切り替えろ。
余計な雑念は振り払え。
黒い妖怪も雷の竜も、まだ私達を諦めていないんだから。
そうして気持ちを引き締め直した直後、ソレは現れる。
視界の端、後方の暗がりの中にちらつく影。
「まったくもう、本っ当にしつこいなぁ。」
それは身体中から生える何本もの触手を器用に動かして、狭い路地の地面や壁面を滑るように這い進む。
百足や蜘蛛を思わせるその挙動の悉くが、見る者の生理的嫌悪感を逆撫でする。
たとえどれだけ見た回数を重ねようとも、決してこの化物を見馴れることだけは無いと断言できるだろう。
それが、そう遠くない後ろにピッタリと貼り付いている。
これほど不快なことも無い。
そして黒い化物が追いすがる一方、雷竜の方は路地裏にまで侵入しては来ず、只一頭、上空に静態しながら眼下の街並みを俯瞰していた。
私達を完全に見失なったのではないだろうが、完璧に捕捉出来ている訳でもない。
おそらくは黒い方が私達を炙り出し、仕留めるのが雷竜の役目なのかもしれない。
だとすれば下手に路地から出て、建物の屋上に上がろうものなら即座に発見されて、アレが急降下してくる。
だから今はこうして、地上を走り続けるしかない。
それに以外にも、理由はあるんだけど。
(初めはなるべくジグザグに路地を進んで逃げ回る。)
先の、路地裏に突入する前の深夜さんとの会話が頭に甦る。
(まるで振り切ろうと必死で逃げ回ってるみたいにな。)
(逃げるんじゃないの?)
(当然逃げるさ。けどな・・・、それはヤラれっぱなしの儘で良い、って理由にはならねえよなぁ?)
再び目前に迫る丁字路と壁。
それを私達は、衝突する寸でのところで直角に進路を無理やり変更させる。
小回りが利く私とシンヤさん達は、ギリギリのところで壁との衝突を避け、丁字路を曲がり切れる。
だが、後ろから追い縋る化け物はそうはいかない。
コイツは獲物である私達が左右どちらに曲がるのか、ギリギリまで読めない。だからといって激突を恐れて減速すれば、それが私達の望むところだってことはアレも理解している。
結果減速できない化け物は曲がり切れず、盛大に壁へと激突するしかないのだ。
石造りの建物が砕け散る破壊音と。
その音に混じって聞こえる押し潰された肉の拉げる音。
そんな背後で生じた轟音を尻目に、私達は更に更に奥へと進んでいく。
(そんで途中からは、俺の指示した方向を進んで欲しい。)
(あー・・・、また悪いこと考えてるね。)
(人聞きが悪いな。貰った借りはキッチリ返す、つーのが俺の信条なんだよ。
とにかくその都度で指示を出すが、どの道を進むかは千春に任せる。)
(そんな適当で良いの?)
(大凡の体裁が整っていれば、それで十分だ。
下手に形に拘ってどん詰まりに入っちまったら、それこそ目も当てられねェ。)
そうして化物との小競り合いを繰り返しながら、
(先ずはある程度、北西に進んでくれ。そこが起点だ。)
シンヤさんの指示の下、縦横無尽に路地を走り進んで行く。
そして・・・、
「とうとう来ちまったか。」
一本の直線道へと辿り着いた。
道幅は狭く、遙か遠くまで道は続く。
その両側には高く聳える建物の連なりの途中に一切の横道は無く、遙か先に小さく見える建物の切れ目だけが唯一の、そしてこの直線道の終点だった。
「絶澗。」
不意に頭に浮かんだ言葉がそのまま声となって出た。
「やたらと難しい言葉を知ってんだな。」
「何それ?」
「両側を高い山や切り立った崖によって挟まれた渓谷で、戦闘や進軍においては避けるべきとされる地形の一つだ。」
「へえー。」
感心したように声を漏らすステラさん。
だけどそれでも、
「ここを進むしかねえわな。今更引き返す道なんざ無えんだからよ。」
今のところは後ろにあの化物の姿は見えない。
だけど楽観出来る程、引き離した訳でも無い。
「一気に駆け抜けんぞ。」
その言葉に私もステラさんも無言で頷き、再び私を先頭に走り出す。
そして道も半ばに差し掛かろうというところで、
「来やがったな。」
やはりあの黒い影が後方に姿を現した。
ソイツは私を見つけるなり、劈く様な叫び声を上げた。
瞬間、事態は急転する。
「チッ、そういうことか。」
上空を見上げた深夜さんは、忌々し気に舌打ちをした。
つられて私も空へと目を向け、すぐに気付く。
その下打ちの意味を。
上空を漂いながら眼下の様子を窺っていた雷竜が、突如この路地を目掛けて一直線に急降下を始めたのだ。
「あの目玉野郎・・・、やってくれやがった。」
雷竜の口内に収まり切らなくなった魔力が、紫電となってその牙の隙間から溢れ出す。
雷竜は、ただ漫然と空を漂っていたのではなかった。
即座に雷の息吹を吐き出せるよう、魔力を蓄えてその時に備えていたのだ。
『ヒャッヒャッヒャッヒャッ!!』
背後から聞こえる化け物の笑い声。
地の底から這い上がってくる様な狂笑を上げながら、再びソレは走り出し、私達へと迫って来る。
それで確信する。この化け物もまた同様に、絶えず機を窺っていたのだと。
その身の毛もよだつ金切り声はその合図。
ここで私達を仕留める絶好の機会だという。
『散々、この俺を虚仮にしてくれたようだが、ここで終わりみてえだなあ、ガキ共。』
最早、引き返す時間も、ましてここを踏破する時間も残されていない。
黒い化け物は真近にまでに迫り、更には雷竜にも私達の動向が完全に補足されてしまっているのだから。
私一人だけなら、まだ何とか脱出が出来たのかもしれない。
だけどそれだと二人は助からない。
『安心しろよ、苦痛を感じる暇なんざ無えさ。何度もアレを味わった俺が言うんだからよ。』
黒い怪物の嘲り嗤う声が路地裏に木霊する中、すぐ真上にまで迫っていた竜の咢が大きく開かれる。
そして次の瞬間には、先と同様に目の眩まんばかりの鮮烈な輝きと共に、再び極大の雷の息吹が投下された。
回避はできない。
逃げ場も無い。
右も左も、前も後ろも、そして当然上にも。
『終わりだ。』
黒い化物は宣告する。
絶体絶命の真っ只中、
「テメェがな。」
ありったけの侮蔑と万感の念の籠った笑みを、深夜さんは浮かべた。
その会心の笑みを見とめる同時に、私は深夜さんの下へ駆け出した。
※
「暗剣殺に叩き込む。」
その下準備の為に、路地裏を動き回っているとも。
二黒、五黄、八白。
あの黒い塊が二黒なら、雷竜が対応するは、黄龍の五黄。
「なら八白を演ずるは千春、お前の役目だ。」
気を整え、場を整え、罠に嵌める。
路地裏を駆け回る中、深夜さんは私にそう言った。
「頃合いを見計らって、直線道に入ってくれ。
あくまでも逃げ回った末に、そこまで追い込まれた、ってな感じでな。」
「挟み撃ちを受けるかもしれないよ。」
「寧ろ、ソレが狙いだ。」
「へぇー・・・、それでどうするの?」
「千春は目玉野郎を押さえ込んでくれ。」
「それで、お兄ちゃんはあの竜を?」
「ああ、存分に利用してやるさ。
挟撃で雷撃をぶっ放そうもんなら、目玉野郎を盾にすれば良い。そうじゃねえなら・・・。」
※
『面白ェよ小僧。この状況でまだそんなハッタリが出てくるんなら、大したモンだ。』
黒い触手が迫り来る。
『やっぱテメェは俺が縊り殺してやるよ。
一瞬で終わっちまうなんざ詰まらねえよなァ。』
その全てが深夜さんを目掛けて。
『ゆっくりと締め上げて、骨を一本ずつ丁寧に砕き潰してやる。
精々愉快な悲鳴を上げてくれや。それでこそ嬲り甲斐があるってもんだ。』
「させないよッ!」
寄せる触手も、飛び散った黒い肉片も、深夜さんの脅威となるものは全て斬り刻む。
『無駄な悪足掻きしてんじゃねェよ。あの度外れた暴威の前に小娘一人で何が出来る。』
無駄かどうかは、お前が決めることじゃない。
深夜さんの企みは分からない。分からないけど、それでも深夜さんは何とかすると言った。
だったら私はその言葉を信じて、彼を守り抜く。
「無駄かどうかはテメェの身で確かめんだな、目玉野郎。」
私がこの化け物の攻撃を食い止めていれば、深夜さんは雷竜だけに集中出来るんだから。
そして深夜さんは、きっとやってくれる。
「威烈嚴猛の凶殺にして造化の徳を侵し、理を損う。」
眼前に迫る雷を前にして、それでも深夜さんは臆すること無く呪文を紡ぐ。
「因りて侵せば、立所に祟咎に至り、災厄に罹り、終には滅亡に及ぶ也。ゆめ逃るる術無しと知れ。」
やがて魔力の流れが変わる。
それは深夜さんの中で精製され、渦巻くだけではなく、
「高所より低所へ、太極より虚空へ、易きへ流るる。
此れ則ち易の要妙なれば、」
その外界をも巻き込んで。
地面の下を伝う地脈の流れが、迷路のような路地を巡る気の流れが、深夜さんの魔力と連動するように廻り出す。
深夜さんを中心として辺り一帯の空間が、纏めて一つの大きな儀式の舞台装置と化したかのように。
「九宮八卦創制の法、暗剣殺の陣。」
そして深夜さんが紡いだ魔術と、雷竜が撃ち放った渾身の雷は再び空中で激突する。
だがその結果は、先の激突とはまるで違った。
打ち落された雷の鉄槌は、全く減衰する気配を見せず、
『なッ!?』
「和気は恵方へ、曲気は凶殺へ。己が在るべき、正しき処へ還れ。」
圧倒的な暴威をそのままに、指向だけを変えた。
否、変えさせられたのだ。
雨樋の上方から入って来た雨水が管を伝い、そのまま自然に下方の排出口から流れ出ていくように。
深夜さんが作り上げた舞台装置に取り込まれた雷は、一切の無理な軌道を描くことなく深夜さんが用意した経路を辿り、出口から放射される。
そしてその進路を変更させられた雷撃の向かう先は・・・。
「避けろ千春ッ!」
深夜さんの叫び声と同時に、側面の壁を垂直に駆け上がり、建物の屋上へと登る。
その直後、私が立っていた空間は巨大な雷の奔流によって一部の隙間も無く路地を埋め尽くされる。
「確かにこの馬鹿げた威力の雷撃を完璧に無力化させんのは、俺にはまだ無理だ。」
そしてこれに反応できなかった化物は、
「だったら、その方向だけを変えちまえば良いだけのことだろうが。」
押し寄せる光の濁流に、為す術も無く飲み込まれた。
「只俺が魔術を打ち消すことだけしか能がないとでも思ったか、目玉野郎。
魔術に干渉するってものは、こういうことだ。」
全身の隅から隅まで余すとこ無く焼き尽くされ、断末魔の悲鳴すらもまともに上げられぬままに、瞬く間に炭と成り果てていく。
そしてその炭化していく端から雷の生み出す衝撃波が、化け物の身体を削り砕き灰塵へと還す。
焼死など生温い、それは完全なる抹消だった。
燃え滓一つ残さぬ。
この言葉が比喩ではなく、正にそのものとして眼前に顕現していた。
やがて雷が過ぎ去ると、ほんの数秒前まで確かにそこにいた存在は最早跡形も無く消失してしまった。
ただ風に吹かれ、サラサラとかつて妖怪だったものの灰が舞い散るだけだ。
『”俺の瞳蟲共を斃すとはな。見事だよ小僧。”』
そこに突如、声が聞こえた。
それはこの場にいる誰のものでもない。
風に巻き上げら飛び散る灰の方から聞こえてきた。
まるで幾つもの奇跡が重なって、風に吹かれた灰が互いに擦れ合い生じた微かな音が、それがあたかも言語として聞こえてくるかのように。
『”小娘だけかと思っていたら、中々どうして貴様もやるではないか。”』
だがそれは偶然と奇跡の産物などではない。
何者かが意思を以って、私達に語り掛けている。
そしてそれは、この化け物の主人であろう人間だった。
『”いずれこの借りは必ず返させてもらうとして、今は素直にその健闘を讃えよう。
今は存分に己が勝利の余韻に浸るが良い。
俺も貴様等のような逸材を発見し、満足しているのだから。”』
そして今度こそ、全てが消え去る。
灰も。
声も。
最後の最後に不穏な言葉だけを残して。
◇5
「ゲームオーバー、か。」
あの瞬間、鏡一面を目が眩む程の光が覆って数秒の後、突如プツリと電源が落ちた様に鏡面が暗転した。
おそらくはそれが、先生の使い魔が絶命した合図。
「ハハッ、見事にしてやられたよ。
油断してつもりは無かったのだがな。」
怒ってはいない。
寧ろ北先生は、こうなったことを喜んですらいる。
「とは言え、このまま結末を見届けぬのでは尻切れも良いところだ。」
そして再び雲外鏡にあちら側の映像が浮かび上がる。
「別にまだ待機させていたのですね。」
「不測に備えるのは当然のことだろう?」
「それで、また彼らと一戦を交えるのですか?」
そこにどれ程の後詰が控えているかは不明だが、数によっては戦闘の継続は可能だろう。
「いいや。」
しかし先生は続行を否定する。
「小僧供の命懸けの奮迅の末の勝利だ。そこに水を差すような無粋な真似はせんよ。」
それに・・・、と先生は前置きを入れ、
「この乱痴気騒ぎも、もう間も無く終わりを迎える。」
そしてはっきりと、そう告げた。
鏡には今も猶続く、少年達と竜の戦いが映し出されている。
だが北先生の眼には、既に別の何かが視えているようだった。




