序章1の3 黒獣
「道法会元、ですか?」
少年は、聞き返した。
「そう。今君が持っているものと、ここにあるもの、計六冊がそうだよ。」
そういって少年の師は、事務机の上に重ねられている古い本の山を軽く触った。
「なるほど、わかりました先生。」
少年は、今夜ここに己が呼ばれた理由をハッキリと理解した。
同時に、一つの感情も浮かんで来た。
「そういうこと。長いこと、こういったことをしてこなかったからね。
だから久々に試してみようと思ってね。」
彼は嬉しそうな、そして懐かしそうな顔をしていた。
少年もまた、師と同じ気持ちだった。
まるであの頃の、心が逸る日々に戻ったような、まだ彼の妻が生きていた頃の関係が帰って来たかのような・・・、そんな感情だった。
かつて少年が、師と彼の妻の三人で暮らしていた頃、少年は彼の師から様々な手解きを受けていた。
解錠術、変装術、尾行術、射撃術、言語術など、探偵として必要と思われるあらゆる探索術を彼の師から学んでいた。
そのどれもが、少年に驚きと感動を与えた。
師のそうした技術は、手品師の奇術のように大胆かつ奇抜で、そして実践的に精練されていた。
師からその技術を授かり、それを自身の技とすることが、何よりも少年の楽しみだった。
その中で最も、少年を虜にしたのが魔術であった。
手品などでは無い、正真正銘の神秘。
少年の師は、世間一般には非常に優秀な探偵として認識される存在だった。
しかしそれと同時に彼は、知る者ぞ知る、非常に優れた魔術師でもあった。
※
明治維新以降、大日本帝国神祇省の指導の下で国家の為の神職、そして呪術師を養成する学校として、皇典研究所が設立された。
そして少年の師は自身の青春時代、この学び舎に身を置いていた。
そこで彼はもう一人の人物と共に、開校以来の神童と評され、竜虎倶に立つと称されていた。
このまま順当に進めば、国家神職、或いは国家呪術師としての将来は安泰であり、彼の周囲の同窓の学徒や教師達は、そうなるものだろう、と思い、また期待していた。
しかし彼は、周囲の者達の期待に反して、公職に就くことは無く、在野へと下った。
彼がそのような道を選択した際、周りの者達はそれを悲しみ、また考え直すようにと必死で彼を説得したが、終ぞ彼はその意思を曲げることは無かった。
この時の彼に、いかなる思いがあったのかは誰も知らない。
卒業して数年後、彼は帝都でひっそりと探偵業を開業したのだった。
※
少年と彼の師は、夜通しで語り合うとともに魔術の教授、或いは実験などを行っていた。
楽しく、鮮烈で、心が躍るような・・・、そして時にはヒヤリと肝を冷やすような経験ばかりの夜だった。
それも師の妻が亡くなってからは、夜の語らいからも、そのような経験からも彼等は遠ざかってしまった。
その遙か彼方へ遠ざかってしまったものが、今夜こうして再び少年の前に姿を現したことに、胸の内から込み上げ、目の奥が熱くなるものがあった。
「今から準備をするから、小林君、手を貸してくれないか。」
「はいッ!」
少年は、心の底から返事をした。
そして一秒でも惜しむように、その準備へと取り掛かっていった。
※
「今日はどのようなことをするのですか?」
少年は来客用のテーブルや椅子、散らかった書物を部屋の隅へと運び、必要な空間を作っていく。
「召喚術だよ。」
少年の師は、本を片手に床の方へ人差し指を向けて動かす。
本と己の指を見比べながら何かを描くように、その人差し指を宙に滑らせた。
すると、師の指の動きに合わせて、床の上に青白い光を発する線が現れて図形を描いていく。
召喚術、と聞き、少年は昔を思い出す。
色々なことがあった。
ある時は、猫のような可愛らしいモノが出てきたことがあった。それに手を伸ばし、逃げられて、追いかけて、やっと大人しくなったそれを抱いて可愛がった。
最後に霧のように跡形も無く消え去ったときは、少し切なくなった。
ある時は、天井に頭を擦り付けるほどに大きなモノが現れたこともあった。
ソレが暴れると、部屋がめちゃくちゃになった。僕が泣きながら先生の後ろに隠れ、先生は事も無げにソレを退散させた。
後で僕は先生と一緒に、部屋を散らかしたことを奥さんに叱られた。
懐かしい思い出に、少年は苦笑した。
「さて、そろそろ仕上げだ。」
そう言った彼の師の足元には、青白く、淡く明滅する魔法陣が展開していた。
彼は手にしていた本を閉じ、事務机の上に置いた。
隣に置いてあった一本のナイフを取り、魔法陣に近付いた。
握ったナイフを反対の掌に宛てがい、そして一振り。
ナイフを掌の上で鋭く滑らせた。
その手からは血が溢れる。
彼は腕を前へと伸ばし、その掌を下に向けて翻した。
血が滴り、その下にある魔法陣へと落ちる。
魔法陣は師の血を飲み、吸収しているかのように、その輪郭を形成する青白い淡い光から、赤黒く濃い光へと徐々に変化していった。
足下のソレが、完全に変色しきると、
「これで完成だ。」
そう言った彼は、血の滴る手を戻し、机の上に用意していた包帯を巻いて止血した。
二重の真円とその外側に配置された三日月。
その三日月には顔があったが、目だけが無かった。
内側の円の中に、矢のような形をした絵と、それと斜めに交差する1本の直線が描かれ、その直線の片方の先端には、ルーン文字の”シゲル”が記されていた。
内円の内側の、この図形の周りには梵字が。
外円と内円の間には、等間隔に並べられた3つのギリシア十字と、アルファベットの筆記体が。
そして外円の外側の円周を沿うように、目の無い三日月の反対側に、漢字がそれぞれ記されていた。
統一感がまるでない。てんでバラバラ。
まず少年が感じたのは、そんな印象だった。
少年はその工程に、違和感を感じた。
召喚の儀式はかつて何度も行われきたが、少年が覚えている限り自身の血を差し出すといった作業は一度もなかった筈だった。
それが今回は行われた。
少年は、一抹の不安を覚えた。
しかしそんな少年の不安を置き去りに、彼は再び本を手に取る。
ある頁を開くと、彼は本を掲げる。
そして呪文の詠唱が始まった。
「天地大造に化し,总て一窍の中に在り。人、能く此の窍を知らば,万法总てに能く通ず。」
低く透き通った荘厳な調べが部屋の中に響き渡る。
荘厳な詠唱は、彼を己の深層の中へ、中へ・・・、虚無の境地へと落としていく。
彼が深く、深く沈んでいくことによって、その紡がれていく言葉も、よりその純度と神聖さを高めていく。
「一窍に灵を通ずれば、万里を往くも可なり。天に升りて地に入りて、神を驱りて鬼を役す。」
彼が唱えるは、道教において至るべき極地の一つの道。
それは宇宙の根源に到達し、掌握することで、根源より生まれた森羅万象の総てを理解し、支配しようという試みである。
「胎息を收めて窍を用ふるは、道法の中真の要妙なり。」
すなわち金丹道を極め、性命双修を成し遂げ、煉丹成仙を果たし、崑崙の頂へと至らんとする想いの祈りであった。
しかし、
「夫れ混沌の法、」
その瞬間、ぐるりと反転したのを、少年は感じた。
何かが決定体に変容したことが理解できた。
そして己が師の足元の魔法陣が、俄かに変化し始める。
「祈祷を以て重事を为し、其の妙、明と乾坤の体用に於いて、阴阳の盛衰を察するに在りて、然りて后に天地の机をして、相默契するを有ら使む。」
師から紡がれ、荘厳に響き渡る詠唱は、その純粋さを今猶いっそう深めていく。
しかし深まる純度をその儘に、その神聖さがガラリと変転していた。
堕とされた聖性は、ひどく冒涜的な調べとなって、痴れた音色を奏でる。
その魔法陣の赤黒く濃い光は、明滅を繰り返して蠢いていた。まるで明滅にあわせて、光線の中を血が流れているかのようだった。
「混元老君、吾に混沌の法を授け、我、混沌の大法を行きて、日月星辰の尽くを统ぶ。」
涜聖の呪詛が流れていくに従って、ソレの鼓動と脈動が強く、早くなっていく。
少年には、そこに巨大な心臓めいた肉塊が鎮座しているかのような錯覚に陥った。
それほどまでに、真に迫るほどに生体の営みを模倣するこの魔法陣が、不気味で涜神的な存在だった。
そして、その上に黒いモノが現れた。
「万圣、吾の差使を听き、千真より坛门を守り遵ひ、我、诸の雷霆震万を召し敕む。」
周囲の闇より猶暗く、宵闇を凝縮して濃縮したかのような漆黒のソレは、魔法陣の上に浮かんで揺蕩っていた。
詠い上げられる呪詛に合わせてソレの希薄な存在感は、実体感を増幅させていく。
墨の塗りたくられた半紙を、更にその上から重ね塗りをしていくように、ソレは猶その漆黒を濃く、深くしていく。
やがてソレから何本かの触手が生えて来た。
その内の二本が、2本の足を思わせるように床の上へと落ちた。
「遣咒、召咒、青城誓咒。吾、元阳金阙の灵なりて、太上混沌を使役する者なりて、而うして混沌一炁の化生なり。」
呪詛の詠唱が終わった。
肉塊めいた鼓動する魔法陣は、既に跡形も無く霧散していた。
しかし、ソレは、確かな実体をもって、そこに存在していた。
それ程ソレ、は大きい訳ではなかった。
少年よりも幾分か低く、ソレは子供を思わせるような様態だった。
しかしそんなことは少年にとって、何の気休めにもならぬ些事だった。
確かに、腕があった。
足もあり二足で立っていた。
だがその身体から何本もの触手が伸び、蠢いていた。
更には、人型を取っていたソレは一瞬強く震えると、身体を折り、その両腕を付け、新たに尾のような触手を出現させて四足獣を思わせる様態を取った。
かと思えば、ソレは腹部を伸ばして床に乗せると、首を両腕、尾と両足を捩り結合させて蛇のような姿に変化した。
常に揺蕩いソレは変形を繰り返していた。
しかしいずれの姿に変容しようとも、その頭部と思しきところには、目も、口も、鼻も、耳も無い。
七窮の一切を持たなかった。
少年は、ソレの冒涜的で悍ましい姿に絶句していた。
つい先程までの胸が躍り、心が逸る気持ちなど、一切合切全てがソレの出現によって消し飛ばされていた。
「やあ、初めまして、渾沌。それとも悪魔とでも呼べば良いかな?」
微動だに出来ず少年を特に気に懸けること無く、彼の師は気軽な調子でそう言った。
茫然自失する少年とは真逆に彼は、儀式の前後で、その様子を変化させるような素振りをまるで見せなかった。
細波一つ無い無風の海岸のように彼の胸中は、終始何処までも穏やかで平静な心を保っていた。
「僕の名前は、明智小五郎だ。
以後、お見知りおきを。」
自ら悪魔と呼んだソレに、彼は心から親し気に名乗った。




