序章3の8 逢瀬
千春はその便箋を丁寧に折り畳み、封筒の中へと戻す。
「ねえ、この手紙を残した人って・・・」
色々と思うところはあった。
「ごめんなさい。僕もこの人について詳しくは分かりません。
ただ・・・、今からおよそ一年と半年程前に・・・、」
少年は妙に歯切れが悪かった。
「昨年の五月頃、彼は突然、僕達の前に現れました。
それ以降は、僕の先生の下で働いています。」
「そう・・・、」
「ですが、千春さん。」
その時、少年の口調は僅かに変化する。
「率直に申し上げます。
彼と関わることは、すぐにでも止めるべきです。」
先とは打って変わって、ハッキリとした否定だった。
少年の言葉には、その人間に対する様々な思いが込められていた。
だがそのどれもが、その者への肯定的な感情でないことは確かだ。
「確かに5日前の夜には、彼は千春さんを助けのかもしれません。ですが僕には、その行為が全くの好意から来たのだとはどうしても思えないんです。
先ほどにも言いましたが、正直彼は得体が知れません。」
「ええ・・・、そうね。」
思い当たる節はいくつかあった。
あの夜の出来事、千春にはその時の記憶の殆どが失われていたが、それでも僅かに覚えていることもある。
「顔の無い貌。」
靄が掛かったように判然としなかった彼の貌。
そしてあの芝居がかった口調だけは、ハッキリと千春の記憶に残っていた。
「この手紙を書いたのは?」
「僕と銀座へ出掛けた後ですから、四日ほど前になります。」
四日前に書かれた手紙の最後に、この男は、”今夜”という文字を使っていた。
「確かに、君の言う通りですね。」
得体が知れない。
一体どこまで先を呼んでいるのか。
一体何を考えて行動しているのか。
「それでも、私を救ったことに変わりは無い、か・・・。」
「・・・そうですね。」
まあ、おそらく・・・、いや間違い無く、根っからの善意で私を助けたのではないのだろう。
この男が、何を、何処まで見通しているのかなんて想像も付かない。
私を選んだのは理由があったのか、それとも気紛れか・・・。
いやそれでも・・・、復讐ができるのであれば、何だって構わない。
使えるモノは何でも利用してやる。
それに、この男は言った。
私はもう人の道を踏み外したと。だから何人にも憚ることは無い、と。
ならば私は化物として、爪を、牙を、化物らしく振るうだけだ。
「千春さん?」
その声に、不意に現実へと引き戻された。
「ごめんなさい、少し考え事をしてました。」
千春は頭に浮かんでいた考えを振り払う。
「そうだったんですか。
少し怖い顔をしていたので、心配になりましたよ。」
そう言うも、彼は特に気にしていない風に笑いかけた。
「ごめんなさい、もう大丈夫です。」
千春はそんな少年の笑顔に安堵する。
己の恐ろしい考えには、気付かれていないようだった。
気付かれるはずも無いのは、分かっている。
だがそれでも、この少年には、己の汚れてしまったところを見せたくはなかった。
※
千春は封筒を机の上に置き、その隣にある紙の袋に目を遣る。
すると、先の手紙に書かれた言葉を思い出した。
そして千春は、少年に問いかける。
「この服、貴方も一緒に選んだの?」
「はい、僕もあの人と一緒に選びました。お気に召して戴ければ幸いですが。」
少年は謙遜した言い方だったが、その目にはまんざらでもないという自信と、ある種の期待が浮かんでいることは明白だったので、
「君も・・・、私の身体の寸法を知ってるの?」
ジットリとした視線を、千春は年頃の少年へ向ける。
彼は面白い程に狼狽していた。
「あ、あのですね・・・、それは、ええっと、その・・・、」
どうやら、知っているらしい。
「先に女性がどうだのと、言っていませんでしたか?」
「あう・・・、あう・・・、」
「何だかんだ言っても、君も立派な男の子なのですね。」
「うぅ・・・。」
小さくなった彼は上目遣いで千春を見ている。その大きな瞳に涙を浮かべ、ぷるぷると震えていた。
可愛いなあ・・・と、もう少し苛めていたい気持ちに駆られるも、理性でソレを抑える。
それにこの捨てられた子犬のような彼を、更にここから追い詰めるのは、流石に千春も良心が痛む気がした。
「着替えたいから、少し席を外してくれるかな。」
「・・・はい。」
肩を落とし、煤けた背を見せてドアの向こうへ消えていった。
千春は、紙袋からそれを取り出し、両手で広げた。
白を基調とし、フリルがふんだんにあしらわれた、いつか絵本で見たような洋風の服だった。
同じく袋から履き物を取り出すと、それは黒い革で作られた、これまた洋風の丈の長い靴だった。
可愛らしいその服に千春は心を躍らせると、姿見鏡の前に立ち、さっそくそれを着た。
「もう入ってきて、良いですよ。」
と告げると、少年が恐る恐る入ってきた。
「どう、かな・・・?」
千春が恥ずかしそうに言うと、少年の今までの曇った顔が、嘘のように晴れ渡り、
「うん!すごく、すごく似合ってるよ。それに・・・、その、とても綺麗で、とても可愛らしいよッ!」
と我が事のように興奮し、喜んでいた。
(かわいい、か・・・。)
それは、あの妓楼屋で男共に散々言われた言葉だった。
最早、その言葉に、何かを感じ入るようなことは無いと思っていた。
だがこの少年の言葉は、純粋無垢で、全く悪意の無く、心の底から発されたものだった。
「ありがとう。そう言ってもらえると私も嬉しい。」
自然と言葉が出て来た。
自分でも驚くほどに、心が躍っていた。
懐かしく、久しく忘れていた感情が、胸の内から沸き上がっていた。
※
その後、部屋を出て、下の階へ降りた二人は、玄関に立っていた。
「もう行かれるのですね。」
「ええ、私には行かなければならない所があるから。」
「そうですか・・・、ではお気を付けて。」
「そんなに残念そうな顔をしないで。」
「べ、べつに・・・、そんな顔はしてませんッ!」
少年は慌てて言った。
相変わらず揶揄い甲斐があって、可愛いらしい。
「それに、これが今生の分かれとなる訳ではありませんから。」
手紙の勧めに従って千春は暫くの間、このアパートを拠点とするつもりだった。
あの男の好意を受けるのは癪に障る気もしたが、千春には他に行く当てが無い為、そうせざるを得なかった。
それでも、
「でも、本当に良いの?私なんかが、ここで暮らしても・・・。」
どこか、後ろめたいような気がした。
この少年は嫌に思ったりしないだろうか、と不安に思うところもあった。
しかし、
「遠慮なんてしないでください。それに僕も千春さんであれば、喜んで歓迎します。」
少年は、真っ直ぐと千春を見詰めて、力強く言った。
その大きく可愛らしい瞳からは、一切の嘘偽りは感じず、本心から千春を受け入れている気持ちが伝わっってくる。
故に千春も、最早どうこう言う必要は無かった。
ならば後は、ただ一言を伝えるだけだった。
「それでは、行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃいませ。」
互いに別れを告げる。
千春が出立しようとした、その瞬間、
「それと、」
千春は突如、途中で身体を翻し、そのまま顔を近づけた。
そして・・・。
少年は己の頬に、千春の唇が触れたのを感じた。
柔らかくて温かい感触だった。
「今日は本当にありがとう。そして、これからもよろしくね。」
再び身を返し、扉を潜り抜けて行った。
桃色に染まる少年の視界の中で、一瞬だけ彼女の横顔を捉えた。
それは、小悪魔的な悪戯っぽい笑みを湛えていた。
何処までも魅力的で、蠱惑的で・・・、そして何処か、悲しげだった。
少年はその場に立ち尽くし、いつまでも呆けていた。
※
千春はこのアパートを出ると、指示に従って、病院の横を抜けて大きな通りを北へ向かって歩いた。
地図に示された順路で、交差点を越えた先の途中の小道から菊坂町に入ると、そこに小さな寺が見えた。 寺の中に入って住職に事情を話すと、彼は案内をしてくれた。
墓地の端の小さな合葬墓、そこに茜の名が刻まれていた。
千春は目を閉じ、手を合わせる。
「遅くなってしまってごめんなさい。
いろいろあって、あなたを弔うことが出来なくなってしまったの・・・、なんて、言い訳だよね・・・。」
自嘲気味に笑った。
「私は、茜を苦しめて殺したあいつ等に・・・、この町に復讐するよ。」
静かに、誓いを立てた。
「きっと茜は、そんなことは望まないのでしょうね。」
優しく茜に語り掛ける。
「復讐なんて結局は、生きている人間の自己満足でしかないんだから。」
「そんな下らないことの為に、あなたの死を笠に着て、我儘を通そうとする私の醜さも愚かさも、十分に分かっているつもり。」
(本当はそんなことはせずに、静かに生きていくのが一番良いのでしょうね。)
思い浮かぶのは、あの少年の笑顔。
そして今の千春には、既にそれに手が届きかけている、ということも分かっていた。
しかし、それでも、
「それでも私はあいつ等が、この町が、全てが憎いの・・・。」
目の前にある幸せ《それ》を、
「私の家族を奪い、茜の命を奪い、私を苦しめ続けてきたこの世界が、この運命が、絶対に許せないの。
そうしなければ、私自身の気持ちが、心の中に渦巻くモノが、収まらないから・・・。だから、」
払い退ける。
「・・・ッ、」
目頭が熱くなっていく。
千春は、蒼く澄み渡る空を仰ぎ見た。
「はあ・・・、本当にどうしようもない。」
何が姉なのか。
結局最後まで・・・、いや、こうして茜を失った後も猶、駄目なままだった。
「許してもらえるなんて思わないけど、それでも先に謝っておくわ。」
頼りない姉で、ごめんなさい。
私のつまらない自我に、あなたを巻き込んでしまって、ごめんなさい。
そして、それでも、
「姉らしいことなんて何一つできなかった、こんな駄目な私を、今まで慕ってくれてありがとう。」
もし、私の我儘を聞いてくれるのなら、
「全部、何もかも終わって・・・、そしたらまたいつの日か一緒に・・・。」
その言葉が何だったのかは、分からない。
千春は踵を返し、茜の前から立ち去った。
供えられた花が、そよ風に靡く。
そして再び少女は、あの闇の世界へと足を踏み入れていくのだった。




