黒のキャンバス
ある美術部の少女と、ある少年の話。
夜空は大きなキャンバスだ。
深い深い青や藍、黒が幾重にも重なっていて、その中に黄色やマゼンタを乗せた白を置くと、光り輝く星を、自分が思うだけそこに作り出すことができる。そうして自分だけの夜に沈んでいるうちに、やがて、塗りつぶしたはずの橙と白の朝が来る。
私にとって朝は退屈で厭なものでしかないけれど、浩太に会えるんだと思うと、学校は嫌いだけれど、行こうって気になれる。
恋は、不思議だ。
私が今生きて居る全ての原動力は、彼の少しだけ大きい掌にある。
突然だが、私の名前は「くろ」という。漢字では、空の露と書く。なぜそんな名前なのかというと、私が生まれたのは星がたくさん輝く夜だったからだ。
普通だったら星とか光とか使うと思うのだろうけど、お母さんは何故か空の色を名前の読みにした。それが始まり。あと、漢字はそのまんま。星が、輝く星が空から落ちてきそうな露だって思ったらしく、だから空の露。
でも空の露って、雨みたいだ。空が流す、雲から生まれ出てくる涙みたい。だから、なんか悲しいとか不吉とか、あと暗いとか、小さい頃はよく思った。実際ひそひそと周りの子達は言っていたしね。
だけどお母さんは、
「夜って、なんだか落ちつくでしょう? 何でも包み込んでくれそうで。それに、星も綺麗だし」
と笑いながら、別荘の窓から見える天の川を指差した。お母さんが柔い微笑みと、空に浮かんで今にもこぼれ落ちそうな星の光がきらきらと夜露みたいに煌めくあの光景は、今でも忘れられない。
病弱だったお母さんは画家で、よく私の前で趣味である油絵を描いてくれた。
犬や猫や、人や海や、空ももちろん、外にあるものすべてを私の目に映してくれた。夕焼けも朝焼けも描いていたけれど、その中でも一番多くて、飛びぬけて綺麗だったのが、夜空の絵だった。
病室でも、退院してから部屋の大きな窓のそばで座って、ただひたすら色彩の散る筆を振るうお母さんは、この世界で一番美しくて、私はそんなお母さんのような絵を描きたかった。お母さんのようになりたかったのかもしれないし、お母さんを描きたかったのかもしれない。よくわからない。
お母さんは、私がまだ小学校低学年の時に若くして亡くなってしまって、お母さんの緩やかな影が消え、私にとっては広すぎる家は、昼間は誰も居なくなった。お手伝いさんは何人かいるけど、私を変な子だと思っているのか必要最低限しか関わりを持とうとはしない。深夜になるとお父さんが帰ってくるけど、いつも疲れているみたいだから、毎日同じようにおやすみなさいだけを告げてまた自分の部屋に戻る。
だから私は、お母さんの大切なものを引き継ぐつもりで、絵を描き始めた。
水彩もペンも、色鉛筆もクレヨンも、ある画材は何でも使ったけれど、やっぱり一番好きなのは油彩だった。
学校には行っていたけれど、授業はほとんど出ていない。だけど教科書はあったから、一通り読んで、あとは捨ててしまった。一度理解したなら、そうそう忘れはしない。それは今も変わらない。
デッサンの本や漫画や小説、新聞にたくさんの画用紙、イラストブックや道具の説明書。芸術に関わるものだけが、私の部屋にあった。私が息をする世界は、全面の白にひたすら色をぶちまけた匣だった。私はそこが一番好きだったし、一生出たくもなかった。
四年生になり、そのツンとした油の匂いを嗅ぎながら育った所為か、なんとなくそうでないと落ち着かなくて――こう、鼻が少しむずむずするようで――小学校でも中学校でも美術部に入って、同じような生活を続けていた。
みんながつまらない授業を受けている合間、私は美術室に籠もってひたすらに絵を描いた。時折屋上の鍵をこっそり持ち出して風に当たりに行ったけれど、それもデッサンの為だから、本当にたまにしか外には出なかった。
クラスの人の顔も名前も、全然知らないし解らない。担任の先生は、時たま思い出したように私の様子を見に来る。学校の授業なんて教科書を音読するだけだから、台本をしっかり読んで理解できればなんてことはない。定期考査は出席しているけれど、どうせ美術の専門学校に進むのだからあまり関係のない話だ。
数字でしか判別できない人間なんて私の関わる必要のない部類の生物だから、結論、私は極力他人と同じ空気は吸いたくないという考えに行きついた。あ、それでも顧問の先生は絵の先生でもあるから、よく顔も合わせるけれど。
兎に角、私は自ら望んで創りだした閉鎖的な環境で生きていて、それはこれからも続くはずだったのだ。
しんしんと降り積もる雪を見ながら、私は今日も筆を手に持っている。といっても、窓は閉め切っているし暖房もフル稼働なのだけれど、その結果空調の完璧な美術室は、もはや自分の家のようにくつろぐことができる。相反して凍えるような寒さの外を思うと、少しだけ身震いしそうになる。
私は早朝、お父さんに学校まで車で送ってもらっている。だから、大して外気には触れていない。正直なところ、こんな天気で外に出て、歩き回りましてや遊ぶなんてする神経は、全く理解できない。登校する間も、腕を一生懸命に振りマラソンをする男性を視界にとらえながらも、私はその肩に積もる雪だけを見ていた。
私たちは、雪にいつまでも追いつくことができない。それはすぐに溶けて消えてしまうからというだけではなくて、あの究極の白さについてもそうだ。
本来白という色は厳密には存在しえなくて、人間が人工的に作り出したもののように思うのだ。兎の毛だって、白熱灯だって、よく見れば少し汚れているものだ。白は穢れやすく壊れやすく、不安定で脆い。そして、いつまでも綺麗なままでそれを保ち続けることは難しい。油彩でも白は、最後の方にかぶせるように置くのがセオリーだ。それは、ほかの色にあまりにも混ぜすぎると想像と違い濁ってしまうからなのだ。過剰に純粋な潔癖は、周囲にひびを入れる。
でも、自然から生み出されたあの白は、ちりやごみでできているとは想像しがたいほどに美しい。儚さを兼ね備え、潰えるために舞い降りる雪は、私にとって絵を一生描き続ける上で追い求める目標の一つでもある。
あれ程にも届きそうで届かないもどかしさを、心の隅でうずうずするような冷たい熱の光を誰かに与えてみたい。
「少し休憩」
ひざかけを隣の机に退けて膝に力を入れる。腰を浮かせたところで少し立ちくらみがしたが、後で貧血剤を飲んでおけば大丈夫だろう。
少しすり足気味に窓辺へ向かい、暖色のカーテンを開ける。
眩しいなぁ、としかめっ面になる。部屋の灯りは基本、暗いほうが落ち着くのでそうしている。目が慣れてしまうと、部屋から出てベージュの廊下を見るだけで頭痛がするくらいだ。だから雪をみると、その眩しさにいつも目を眩ませてしまう。
まだだなぁ、と目頭を押さえながらカーテンを閉める。
私は一生、仄暗い空の下でも構わないと思っている。月の光を浴びるのは嫌いではないけれど、太陽の光を浴びるのは嫌いだ。
それでも少しだけ、本当に少しだけ、たまーに柔らかな光に憧れる。要は、自分やその周囲に無いものが欲しくなる。他人の持つものが良く見える。
こういうの、何て言ったっけ。ど忘れしちゃったなぁ。
「隣の芝生は、赤い……だっけ」
「青い、だろ」
き、聞いている人がいるなんて思ってもみなかった。それに、まさか口に出ていたなんて。
傍から見れば白いであろう顔を向けドアの方を見ると、見慣れない男子生徒がいた。いや、わからないのはその男子だけではなく、女子も含め皆わからないのだけれど。とにかく普段会話も接触も、話題にももちろん上がらないであろう人が立っていた。
打ち上げられた魚のように口をぱくぱくさせる私をよそに、追い打ちのように、その男子は再び口を開いた。
「赤いってそれ、腐ってんじゃねぇの」
「腐……!?」
「なぁ、境先生知らない?」
恥ずかしさと恐怖その他諸々で混乱する私を気にすることなく、男子は尋ねてきた。
境先生というのは、美術部の顧問の先生のことだ。でもこの男子は、新入部員でも、美術部に入っているといった感じでもないし、一体何の用だろう。
だいぶフラットな話し方をする人だなあ。
「なぁ、聞いてる? えっと、高崎……だっけ」
「そう、だけど、誰」
ぶっきらぼうな返事を気にも留めず、男子はファイルを片手に続ける。
「間宮。って言っても知らねぇよな。俺、C組だし。あ、隣のクラスね。つーか先生……あー、境先生はうちの担任なんだけど、知らない?」
早口というわけではないのだが、そんなにも言葉を一気に並べられると、答えようにも答えられない。
辛うじて一言だけ絞り出す。
「し、しらない」
「あ、そう。まぁいいや。ところで、先生どこ?」
「わかんない。職員室、さっき戻った、気が……する」
たどたどしく私が告げると、男子は少し溜息をついた。
「そっか、ありがと。邪魔して悪かった」
無造作に閉められて、反動でドアが少しだけ開いた。数秒して、居なくなったのを確認してからゆっくりとドアに向かって、閉めた。
少しだけ慣れない香りが漂う。これ、何て言ったっけなぁ。
変わらない毎日。
翌日も私はいつも通り、朝からキャンバスと向かって座っている。
朝は低血圧だから、朝食はほんの少ししか摂らない。摂ってもカロリーメイトを半分齧るくらいだ。だから昼以上に反応速度が遅く、行動も鈍くなる。まぁ急ぐ必要のない世界で生きているから、遅かろうと関係ないのだけれど。
だというのに、加えて昨日の一件の所為で、夜は寝ることができなかった。まだ頭が響くように痛いし、いまいち絵にも入り込めない。
どうしてくれるんだ、と心の中でぼやいていたその時、いきなりドアが開いた。
「高崎ー」
「ひゃあ!?」
ガタっと椅子から転げ落ちるように退き、振り向くとそこにはあの男子が居た。今日は気分でドアの近くを陣取って描いていたから、以前より声もはっきりと大きく聞こえた。
だから昨日より、反応もオーバーになってしまったのだろう。あわててキャンバスに布をひっかける。
ドアを後ろ手に閉めながら、男子の口元がひきつったのがわかった。
「そんなに逃げられると傷つくんだけど」
「あ……ごめんなさい」
「タメでいいよ。同学年だし」
男子が頭を掻く。確か、名前は何て言ったっけ。
「覚えてる? 俺、昨日来たんだけど」
忘れるはずがない。この男子の所為で、私は安眠を得ることができなかったのだから。
名前は、名乗っていたような気がするけれど、どうも思い出せない。
「名前、なんだっけ」
「間宮。間宮浩太」
「間宮、くん」
口の中で教えられた名前を反芻する。口の中はカロリーメイトでぱさぱさしていたけれど、名前と一緒に飲み込んだ。
「呼び捨てで良いよ」
少しだけ、呼吸の速度を私に揃えるように、穏やかな口調で付け足す。
「間宮」
「そ。言えんじゃん。なんだ、もっと会話とかできない奴なのかと思ったら、普通じゃん」
「貶してる?」
「まさか。逆だよ、逆。褒めてんの」
可笑しそうにけらけらと笑う。
私は何か、少し腑に落ちなくて、そっぽを向いてしまう。
軽そうな人だなぁ。世俗的で、品のない人。
「先生なら、今日、欠勤」
ここは私の聖域だ。自分だけの世界に沈むための、隔てられた世界であるつもりなのだ。正直、これ以上自分以外の人間に踏み込んでほしくはないのだ。
すると、間宮は一瞬だけ不思議そうな顔をした。しばらくして、納得したのか表情が明るくなった。
「あー違う違う、今日は絵を見に来たんだ」
「先生のなら、奥の部屋だよ」
「お前の」
「は?」
そんなこと他人に言われたことがなかったから、とても威圧的な返しをしてしまった。先生だって進捗を聞くだけで、作品に対しては何も言わないのだ。
「そんな風に言わなくても」
間宮の肩から、掛けていた学生鞄がずり落ちそうになる。
「昨日ちらっと見えたとき、すっげぇ惹かれたんだ。だから、もう一回見たい」
「嫌」
「即答かよ」
これまで、一度も展覧会や大会に絵を出したことがない。描き方も構成もちゃんと勉強はしているから自信がないわけではないのだけれど、何か目的の為に絵を描くということが嫌いなのだ。
私は自分の為だけに、満足のいく絵をただひたすら描いている。自分が息をしていくために必要なことをしているだけなのだ。人間は誰かの為に呼吸をしたり、止めたりなんてことはしないだろう。それと同じで、私には描くことに対して理由を必要としない。
何を作るにしても、そう作者の意図で真っ先にあるのは『創りたいから』という願望だ。其れは同時に、知識欲でもある。心を無にして本能の赴くまま身体を操って、そうしてできた作品を見て、自分がどんな人間であるのかを知りたがるのだ。
自分のことを知りたくない、と言えば嘘になる。だけど私は今自分の目の前に世界を広げるだけで精いっぱいなのだ。知ってしまって世界に歪が生まれることは避けたいし、それによって観点を束縛するようなこともあってほしくはない。そう言った意味では私は何にでもなれるし、それゆえに形を持たない存在でいたいのだ。
「あなたに見せる為の絵はない」
理由など今までもったことがないのだから、誰かの為の作品など、言うまでもない。
それに、まだこの絵は完成していないのだ。
「えー」
間宮は悲しさを全身で表現しながらうなだれている。それを見て、なんだか少しだけ、悪いことをした様な気になってしまった。
いや、とすぐに頭を切り替えて、これでいいのだ、と思い直す。無駄な感情は不必要だ。邪な思いなどもってのほかだ。
……邪?
今、『邪な』って言った? 私。
「何、頭ブンブン振ってんの。熱でもあんの?」
「ひぁ」
急に顔を寄せてきたから思わず後ずさる。その時に不抜けた様な声が出てしまった。それを聞いた間宮が、くくく、と笑った。
「ヘンな声!」
一瞬で顔が紅潮したのがわかった。そのまま熱の勢いで腕を動かし、手近にあった絵具を取って間宮に向かって投げつけた。
「痛って」
「うるさいっ!」
「馬鹿、危ないだろ」
最初の一本目以降を華麗に避けつつも、間宮は半ば喜々とした声を出している。騒ぎながら逃げ廻る間宮に向かって叫ぶ。
「なんで喜んでるの! 変態!」
「違ぇから。つーかやめろ、投げるな!」
赤い絵具を手に取ったところで、先ほどの絵に赤を足そうとしていたことを思い出した。はっとして、投げようと振り上げた腕が止まる。
「……?」
間宮も私につられて動きが止まる。片腕で顔をかばいつつも、こちらのほうを見ているのを感じる。
「飽きた」
「飽きたぁ!?」
私の唐突な発言に、間宮が拍子抜けしたように叫んだ。
力なく顔をかばっていた腕が下り、その下の顔が呆れた表情へと変わっていく。
「飽きたって……なんだあそりゃ」
赤い絵の具を握り締めたまま、私は布をかけたキャンバスの方へ向かう。
思ったらすぐにやらないと、だめなのだ。色が褪せて、錆びて、鮮度を失い腐ってしまう気がするのだ。
「仕方ないじゃない、赤が足りないの思い出しちゃったんだもの」
「足りない? どこに」
「見せないからね?」
「ちぇ」
然りげ無くついていこうと後ろについた間宮を言葉で牽制して、イーゼルの前の自分の陣地に戻る。
頑として見せようという意思を表さない私をちらと見て、挟んで向こう側にいる間宮は少しいじけたような顔でつぶやくように尋ねた。
「……だめ?」
「……だめ!」
何かをグッとこらえてそう強く返すと、渋々間宮は扉を開け出て行った。
翌日も、その翌日も。時間こそ決まっていなかったけれど、間宮は美術室に来た。そのたびに絵を見せてくれと頼み込んできたが、私は一切耳を貸さなかった。
「しつこい」
椅子の背もたれ側を覆うように座る間宮は、明らかに不服な顔で唇を尖らせる。
「なんでだよ!」
「なんでもよ!」
同じように語気を荒げて返す。こんなやりとりはもう何度だって行われている。
飽きやしないのだろうか……。ため息が小さく漏れた。
「なに、何のため息?」
わかりきっているであろうことを、わざと聞いてくるあたり性格が悪い。
「何でもないわよ」
そうぶっきらぼうに応えてしまうのは変わらずだけれど、この間までのただ無感情に筆を振るうだけの日々とは、少しだけ変わったことがある気がする。
一体それが何なのかは、全くわからない。
筆を持ちながらうんうんと頭を抱えていると、こちらを気にしているのか、間宮の影がチラチラと動くのを感じた。だけどなぜだかそれを、私は知らないふりをした。
数日経って、学校はすぐに冬休みに入った。
授業はないというのに、間宮は、早朝と昼頃、陽も傾ききった頃に来た。恐らく部活の前や合間だったのであろう。新学期になってからも朝休みまでの時間美術室に来ては、同じように見せる見せないの問答を繰り返していた。
そのうちに、軽薄そうな見かけによらず(と言ったら失礼だろうか?)絵に興味が出てきたらしい。
それが本当になのかそうでないのかはわからないけれど、夏休みの入口が見えるか見えないかの初夏の頃からは質問が多くなった。
「好きな画家は?」
「特にいない」
「どんなのが好きなの?」
「特にない」
傍から見ればそっけない返事の連続だが、それでも以前より間宮は満足しているようだった。
特に不満を述べるわけでもなく、質問を続けてくる。
「俺さ、ゴッホの『ひまわり』を見たときに滅茶苦茶衝撃受けたんだよね。あれさ、人間の一生を描いているらしいね」
「そうね」
「あの中の枯れた向日葵を見ると、いつかそういう運命が来るんだって目の前に叩きつけられているような気がして。俺なんかに耐えられるのかなぁって、思考回路止まっちゃったんだよね」
「あっそ」
「あ、その色綺麗。種類は?」
間宮は私から見て左斜め前に座って居る。間宮の方向からは私の絵は見えなく、見えるのはぺーパーパレットや筆などの道具だけだ。
「コバルトブルー」
一端席を離れようと、椅子から立ち上がる。もちろん覗かれないように、汚れても良い布をかぶせておく。
「どこ行くの」
「倉庫。あ、見たら許さないから」
振り返ることなくそう伝える。
「嫌われたくないから、そんなことしねぇって」
「バカじゃないの」
振り返ってみると白い歯を見せながら間宮が笑っていたけれど、すぐに視線を外した。
「軽い奴って嫌いなんだけど」
小さく聴こえないように呟く。
「何?」
「な、何でもない」
聴こえてなくて良かった、とどうしてかぼんやり思った。
教室の端からは対角に向かい、塗装の剥げた倉庫の扉を開ける。その中のすぐ手前に並んでいる引き出しの中で、チューブ絵の具を漁る。いくつか目ぼしいものを取り出して、白い袋に入れる。
「なぁ」
すぐ後ろで声が聞こえ、一瞬びっくりした。まさか付いてきているなんて考えてもいなかった。従順な犬のようなイメージが最近付いてきていたから、ちゃんと絵を見ることなく待っていると思っていた。
……驚いたことを悟られるとなんだか癪だ。
「何」
冷静を装い、振り返ることなくそう言うと、冷てぇ、と拗ねた様な声が聞こえた。
関係無い。私には関係無い。
「ってか、何でゴミ袋?」
「捨てるから」
間宮の疑問に、端的に答える。
私は基本、一か月以上前に開けた絵の具は使わないようにしている。なんだか色を浸けた筆先から、今まで重ねてきたものが汚れてしまうような、腐ってしまうようなそんな錯覚に陥るのだ。勿論そんなことはないし、ただなんとなく、そんな気がしてしまうだけなのだが。
最も、どの色も消費が激しいから大抵は使い切ってしまう。そんなに頻繁に捨てることはないのだけれど、持病が悪化してしまったせいで少し前まで入院していていたから、油彩からは離れてデッサンに没頭していた。だから絵の具を使いきれなかったのだ。
必要のない絵の具と一緒に、近くにあったゴミを袋にポイポイと投げ入れていく。
「へぇ。……って、おま、それ教科書じゃん」
「ん?」
私の今手にしているものは、数学Ⅱの教科書だ。
「ん、じゃねぇよ、何してんだ」
「だって必要ないから、こんなの」
「こんなの、って」
人間じゃねぇ、と間宮が呟く。
物凄く心外だ。生ける芸術という意味なら嬉しいのだけれど、そんなことを考えているわけではなさそうだ。
そう思い間宮を見ると、ふいに、テストの度に優秀者の序列で私の下に『間宮』という名前があったことを思い出した。
「そういや、頭良かったんだっけ」
「勝手に過去形にするなよ」
「だって私に負けたでしょ」
中学三年生で受験期に入っているこの時期、学校の内申点は欠かせない。前回のテストは異常なまでに全体の出来が悪く、二学期の期末で内申点は確定してしまうから、取れるうちに取っておかなければならない。そんなこと私には全く関係なのないことなのだけれど、テスト中もそんな同級生たちの闘志がまさしく火のごとく燃え上っているのが見えた。
間宮もまた然りで、テスト前もここで勉強していた。家だったり教室だったり、ここでなくとも十分に勉強する場所はあるだろうに、几帳面にもわざわざ絵を描く私の前で勉強をしていたのだ。
しかしそんな彼をよそに、私は全教科平均点で間宮を抜かし、学年トップの席を奪い取ったのだ。
「授業出ないで、教科書だけ読んで……どうやったらあんな天才的な点数が取れるんだよ」
「歴史がたまたま当たったからね」
歴史は苦手だ。普段通りでもそれなりの点数は取れるのだが、他の教科より少し低くなり、足を引っ張ってしまうのだ。
あまり疑問を持つことはないのだけれど、歴史とか政治とか、そういった時代背景は芸術に影響するから、気になって調べることがある。そこから芋づる方式で調べたものが、試験範囲にあたったのだ。
だから、本当にたまたまなのだ。
「それにしても、似合わない」
「何が?」
私の発言に、間宮は不思議そうに首をかしげる。
「軽そうなのに、中身ガリ勉」
「その、見た目で判断するの、やめろよな。つーかガリ勉って言うな」
明らかに不服そうに唇を尖らせる。少しは気にしているようだ。
「勉強するのにも、それなりの理由はあんだよ」
「理由、ね。興味ないけど」
「興味持ってくれた方がうれしいんだけど」
間宮の言葉を完全に無視し、絵の具の山に向き直る。
最後の絵の具をゴミ袋に放り投げて袋の口をくくった。利き手に持ち替えて、力を込めようとしたところで、後ろからゴミ袋を取り上げられた。力の行き場が無くなり、手が空を切る。
「持つよ」
振り返ると真後ろに間宮が居て、一瞬驚いた。さっきよりも、距離が詰められていた。
油断した……。
「あ、りがと」
そう言い平静を装いながら見上げると、間宮の身長が意外と高かったことに気付いた。
頭を垂れて力もうとする間宮の目が、前髪で少し隠れる。髪から漂う香りが、少しだけ甘美なものように感じた。
少しだけ身を引きながら見ていると、間宮が口を開いた。
「その代わり、付き合って」
「は!?」
思いがけないことに、反射条件で叫んでしまった。
「何言ってるの」
「えー」
後ずさりする私を見て、間宮は苦い笑みを零した。
「だって、俺、高崎のこと好きだし」
「意味わかんないから」
「何で?」
言葉と同時に、間宮が袋を無造作に置く。ドサッと大きな音が響き、その音ににびくっとした私は袋にくぎ付けだった。
その隙に間宮が私越しに棚の柱を掴み、その勢いでばらばらと絵の具が棚から数本落ちた。長い両腕に挟まれて逃げられなくなる。
間宮が顔を近づけて来て、さらに距離が近くなった。鼓動が煩いほど加速していくのがわかる。
「意味わかんなくないでしょ? 俺は高崎が好きなの」
長めの前髪のせいで視界が暗くなる。髪はところどころ跳ねていたりするのに、どうしてこんなに綺麗な黒なのだろう。
背中を棚につけ、唾をのんだ。蒸した空気と汗の匂いで息が苦しくなる。
「恐、い」
「そう? 普通だけど」
「恐いの、離れて!」
「嫌だって言ったら?」
目線を合わせようと間宮が屈む。しばらく違う場所を見ていたけれど、細い鎖骨が目に入り喉元に変なもやもやが沸き上がってきた。
横を向いて、何でもないように答える。
「嫌いになる」
「へぇ」
面白い、と言った風に不敵に笑った気がした。
きっ、と間宮を睨みつけて言い放つ。
「嫌いになるからね」
「逆に、今までは嫌いじゃなかったの? てっきりものすっごーく嫌われていると思ってた」
「揚げ足を取らないでよ」
「なんだよ、聞いただけなのに」
今は何も怖くなさそうな間宮を戸惑わせたくて言った言葉が、全部吸い込まれていくようだ。全く、意味がないようにすら感じてしまう。
「本当に嫌い」
「そういうの、俺は嫌いじゃないよ。むしろ好き。もっと好きになりそう」
「からかってるでしょ」
「まさか。高崎のこともっと知りたいもん」
からっと笑いながら、ようやく間宮が離れた。
「あっち行って」
へいへい、と倉庫から出ていく間宮を見送ってから、落ちた絵の具を拾い上げた。
その時、ふと間宮の触れていた棚が目に入った。まだ熱を持っているような気がして、ほんの少しの間だけ、見つめたまま動けなかった。
その間も後ろを警戒していたけれど、その日、間宮はもう話しかけてこなかった。
それからしばらく、間宮はここに来なかった。
私は変わらず絵に没頭していたけれど、暑いだけで何にもない日が過ぎて、やがて蒸れた空気と油彩絵の具の混じり合った香りがするようになった。
夏の匂いがすぐそばまで来た頃、気づいたらすぐに終業式が終わっていた。この学校に行くのもあと半年なんだなぁと、ぼんやり思った。
昼には炎天下に晒され、夜には涼しい風に吹かれる空が、私は一番嫌いだ。
この時期の、お母さんが好きだった夜の空は、家からはよく見えないのだ。無駄に生い茂った木々に隠されて悲しんだ空が、涙を流し、其の露に濡れた葉を描く私。その姿を想像するだけで、なんだかとても惨めに感じられてしまう。
だからだろうか。今まで通りに、気持ちが赴くままに鉛筆を走らせ、消しゴムをかけ、筆を選ぶ。そこまでしてから、輪郭をぼんやりと見せてきたそれが今までと全く違うことに気づいた。
少し前に色を散らし始めたその絵は、どことなくぼんやりとした曖昧さに包まれている。
どうしてかいつもの調子が出なくて、無駄に淡い色を多用してしまう。温かで優しげで、たくさんの原色を重ねて重ねて、それでも包み込んでくれる甘さがどうしようもなく欲しい。きゅっと締め付けられて、香辛料のようにぴりぴりする時も、全てがどうしようもなく愛しく思えてしまう。
これが、淋しいということなのだろうか。
時折廊下から聴こえてくる生徒たちの話題は夏祭りや七夕といった風物詩で、耳にするたびにそんな時期なのか、と朧げに思う。
「よっ」
「わっ」
いきなりドアが開いたかと思って振り返ると、そこには間宮が何でもないように立っていた。
急いで筆を置き、布に手をかける。しかし前のように絵を覗き込もうとする仕草は見せず、久しぶり、と元気がないのか抑えた声で言った。
時間が空いて現れた間宮は、少しだけ肌が黒くなっていた。日焼けしたのだろうか。
「しばらく見なかったね」
「まあ、ちょっと」
少しだけ、歯切れ悪く答える間宮。以前のように堂々としている雰囲気ではなく、不自然に目線を合わせようとしない。
「なに、変なの」
嬉しそうな表情をしてしまうのがなんか悔しくて、できる限り素っ気ない様子で声をかける。
「あ」
声をかけてから、バツの悪そうな理由に気づいた。私が気づいたことを察したのか、同じように視線をさまよわせる。
なんとなく気まずい空気の後、間宮が口を開いた。
「この前は、ごめん」
「……私、こそ」
私に非があったのか間宮に非があったのかは、正直なところよくわからない。だけれども、自然と口から言葉が出た。
「ごめんなさい」
恐る恐る目を合わせようと顔を上げると、間宮は少し柔い笑顔で言った。
「これでおあいこ」
「……うん」
「来なくて、心配した?」
意地悪そうに表情が変わる。認めたくはないし少し気に入らないが、彼が来て少し安堵したのは事実だ。
「少しだけ」
「それ、マジ?」
もうこれは、認めざるを得ないだろう。
間宮は喜怒哀楽が解りやすい。嬉しそうな時は顔全体で表現するし、悲しいときはしおれた花のようにうなだれる。
「マジ」
私のその一つの言葉で嬉しそうに小さく笑う間宮が面白くて、私まで笑ってしまった。
胸の奥で、きゅうっと締め付けられるような高鳴りがした気がした。
翌日。私は変わらず、キャンバスに向かっている。
「星」
特別意識なのか、それは七夕だからなのかわからないけれど、ぽろっと単語が漏れた。
「あ?」
「星が見たい。本物の」
間宮に対して、私は基本的に感情を表に出さない。それによって誤解を生むことも少なくない。
幼い頃から、自ら望んでいたとはいえ、閉塞感の否めない世界で息をしてきた。それ故に、外に気持ちを示す必要がないと感じてしまっているのだろう。それとなく大きくなった今ならそんな風に推測することもできるが、癖ということもあり、今でも治らない。治す気がないというのも一因ではあるのだが、治らないことは事実だ。
最近になってから自分でも素直になれないことにも少々不便に感じてきたから、そろそろ改善を試みたいところではあるが、いかんせん素直に接したい相手が相手だ。
改善を試みたいところではある……のだけれど。
「プラネタリウムとか、映像じゃ駄目なの?」
「人工物じゃあ、なんか違う」
「家の窓からとか見えるんじゃないの?」
「あんなところからは見えない」
キャンバスから目を離すことなくそう返した。私は恐らく、相変わらずの無表情なのだろう。
「それってさ、外に出て星を見たい、てこと?」
「平たく言うと、そう言うこと」
我ながら素直じゃない奴だ。少しだけ、自分に苛立ってしまう。自棄糞気味に、筆に強く絵の具を塗りつける。
正直に連れっていってほしいと言えばいいのに、何故こんな性格に育ってしまったのだろう。
「今年はお父さん忙しいから、連れて行ってくれる人がいない」
本当に小さな声で、ボソッと呟く。こんな風じゃあ、かまってちゃんもいいところだ。
それを聞いて間宮は、わかってかそうでないのか、いつもの軽い口調で提案した。
「付き合ってくれたら連れてってあげるよ?」
いつも通りと言えばいつも通り、反射条件のように冷めた目線を送る。すると、失敗したと言わんばかりの表情で間宮が固まった。少しだけ、罪悪感のようなものが沸き上がってくる。
私はしばらく筆を止め、逡巡するようなフリをして、小さく言った。
「うん」
「え」
間宮が素っ頓狂な声をあげた。
「なに、嫌?」
畳み掛けるように、上目遣いで問いかける。
「いや、あ、嫌ってわけじゃあないんだけどさ」
珍しく狼狽する間宮が、なんだか面白い。
「そうじゃなかったら、なんなの」
「ほら、前に断られたし」
しどろもどろして落ち着きなく空をさまよう手。それを見て私は耐えられず、笑ってしまった。
くすくすと笑いながら視線を投げると、間宮はぽかんとしていた。
「もう気づいているかと思ってた」
「え、何が」
「……言わせないでよ」
そこまで自分で言って、はっとした。
自分がはっきり言わない癖に、相手に言わせようとするのは、小賢しいのではないだろうか、と。大事なところで逃げてしまうのは、臆病なことを全身で示しているようなものなのではないだろうか。
間宮を、上から見下ろしたような態度をとっていたのではないのだろうか。今更ながらそんな考えが浮かんできた。穴があったら入りたい、枕があるなら壁に投げたい、ぬいぐるみがあるなら全力で殴りたい、そんな思いでいっぱいいっぱいだった。
だとしたら、なんて失礼だったのだろう。そう思うと同時に、どうしてしつこくそんな私に声をかけ続けたのだろうとも思った。こんな奴、私だったら放っておくし、関わりたいと感じてしまうだろう。友達のいない私を不憫に思ったのだろうか、遊ぼうとおもちゃにしていたのだろうか。
いや、そんなに慇懃無礼な人間じゃない。中身は真面目で、値は気配りやマナーのある人なのだ、たぶん。ということは、やはり、わかっていて受け止めてくれていたのだろうか。それも含めて、諦めていたのかは定かではないが。
何にしても、怒涛の勢いで様々な思いと思考が混ざり合い、混乱しそうだった。
我侭に眉に込めた力が緩む。自分の落ち度を認めたくない子供のように、でもそれがなんだかわからなくて、顔を少し横にしてしまう。
「どうした?」
突然何も言わなくなった私を、間宮が訝しげに見る。それに気づいておきながら、何も私は言えなかった。
本当に利己的だ。そんな自分が、激しく嫌いだ。
唇を、ぎりっと噛む。少しくらいは好かれているのではと浮かれて、高をくくった自分が憎らしい。そして、恥ずかしい。
「俺は、とっくに嫌われていると思ってた」
間宮が、少し負けたように口を開いた。
「嫌々一緒にいるのを許可しているのかと思ってた」
「嫌いだったら、さっさと追い出すよ」
素直に思いが出てこない私をわかっていて、出された助け舟に思えた。だというのに、ちゃんと向き合おうと絞り出した返答がこんなものとは、しょうもないという言葉に尽きる。
「それは思いつかなかったな」
間宮はくしゃっと笑って、反省しているように言う。
「考えもしなかったのはあるけど、それをいいことに甘んじていたとは思う」
「そんな」
「好きだよ」
今まで以上に不意を突いて飛んできたその台詞に、まさか本当に聞くような日が訪れることを考えもしなかったその四文字に、私は筆を落としてしまった。
からん、と乾いた音が、やけに広い教室で響いた。
「へ」
聞こえてはいた。聞こえてはいたのだけれど、いまいち現実味がない。というか、状況を飲み込めない。おかしな話だが、これは現実で、このながれでそんなことになるんじゃないかって考えてはいた。だがこうも実際に言われてしまうと、頭が真っ白になってしまう。
「何言って」
「高崎」
「ちょっと、待って」
「俺は、」
「待ってってば!」
追いつけなくて、思わず叫んでしまった。
代替してやらかしたことの重大さに気づくのは、その直後である。そして尾を引いて影響を受けじわじわと侵食していくのも、つまり崩壊していくのも、直後である。
間宮の顔を見てから、自分のしたことに気づいた。
「ごめん」
伏せがちなその瞼の奥の黒目が、微かに濁って、潤んだ気がした。
その瞬間、間宮は私のすぐ横を通り、教室を出ていった。
脳内ではあれほどまでに呼び慣れた名前が、いざというときに出てこなかった。呼び止めることすらできなかった
「最っ低……」
それはほかの誰でもなく、この世界で一番嫌いな私に宛てた感想だった。
今朝は、ベッドの中で目覚めるのを渋ったが、いつも通りの時間に起きることができた。だが食はやはり進まず、カロリーメイトに口をつけることは愚か、水一口すら口にしていない。そのままの状態で、学校の美術室の扉を開けた。まだ一日のはじめだというのに、どっと疲れのような重さが襲ってきて、昨日立てたままのキャンバスの前に座る。
グラウンドで朝練をする運動部の掛け声が聴こえてくる。草をさらおうとする緩い風を裂くように、走り込みをする男子の声が響く。
少なくとも一週間、間宮は姿を現していない。
初めは、自分自身何故かショックを受け、何も身に入らなかった。しかし自分の思いに整理がつき、同じような反省を脳内で繰り返し、あるとき徐々に褪せつつある自分の心に気づいた。
間宮のいない時間はあまりにも長く、空間はあまりにも広かった。
謝らなければ。
「なにより……」
謝りたい。
対人関係なんて、どうでもいいと思っていた。死にながら生きているうちに、好きなように、好きなだけ絵が描ければ、ほかのことは気にしないでいられた。だというのに、どうも間宮の一件だけは、どうでもいいとは思えなかった。
謝るのなら、誠意が伝わらなければならない。その一番の手段としては、直接面と向かって謝罪することだと思う。しかし、それは直感的にできないと感じた。
怖い。
それも、とてつもなく。
大きな青黒い海が、果てしなく広がっている。ちらちらと光る赤い宝石や、青い光のような筋、緑の何かのかけらが水面に沿って動く。黄色の魚に白い岩や貝、紫の海藻が足元のずっと下で揺らめく。そんな中で小さな板にしがみついて、感情の波に煽られて、必死にずり落ちて飲み込まれないように耐えている。それが果たしていいことなのか悪いことなのかわからないけれど、今までにない想いが渦巻いた嵐となって私に襲いかかろうとしている。
これは、一体何なのだろう。
「~~っ!」
自分の悪いところは、きっとこういうところなのだろう。やけに理屈っぽく考え込んでしまって、結局臆病になって何もできない。曖昧な態度をとったその結果、相手を傷つける。そして、あんな顔をさせてしまう。
身勝手な思いだが、あんな顔は、見たくない。
でも、そうしてしまったのは私だ。だとするならば、それを解決しようと歩み寄るのは、私でなければならない。
私が変わらなければならない。弱い私から。でも、どうしよう。具体的な方法が思い浮かばないことには、何をしようもない。
一体何を……、
「あああーーー!!」
そこまで考えて、やめた。
こうやって考えていることが、だめなのだ。
考えるよりも行動だ。先のことなんて予測したってわからない。
そう思ったらすぐに行動しないと、次いつ思い立つかなんてわからない。勢いよく椅子から立ち上がり、教室の扉に手を伸ばした。
その時、掴もうとした取っ手が消えた。勢いよく開けようとしていただけに前のめりになる。
「へっ」
しかし行き場を失い空を切った手は、扉の向こうから現れた手によって掴まれた。バランスを崩し、その手の主に体当たりをする。
「ご、めんなさ……」
「うお」
頭上から聴き慣れた声がした。
思わず息が止まる。あの時と同じで、真っ白な霧が頭の中で広がる。
「びっ……くりした」
声の主はわかっている。あれだけ謝りたいと、会いたいと思っていたのだ。でも、いざ会ってしまうと、どうすればいいかわからなくなってしまう。
だけど、それも今で終わりにしなくてはならない。
それが私に真正面から向き合ってくれた、彼に対する私なりの誠意だ。
「ま、間宮、あの」
「ごめん」
その言葉とともに強く抱きしめられた。
「勝手に突っ走って、高崎のこと考えてなかった」
「そんなこと」
「よく見てるつもりだった。全部知った気になってた」
自分に言い聞かせるように、腕に力を込めながら耳元で言う。
「でも忘れてくれなんて言いたくない。お前のこと、もっと知りたい」
「待っ」
「待つから」
同じ言葉を言おうとしてはっとした私を救うように、優しく腕を解いた。
「気持ちが暴走しっぱなしにならないように、気をつける」
ずるい。
私が言おうとしたことを、全部かっさらっていってしまう。私の言葉にできない思いすらも、全部形にしてしまう。
「高崎は、どう?」
「ごめんなさい」
それだけようやく伝えて、間宮の胸にごっつと額を押し付けた。
「ど、どうした」
「適わない、どうしてこんなにも」
柄にもなく大泣きしてしまいそうだった。
言葉の真意が飲み込めないのか、間宮は狼狽えていたけれど、そんなことおかまいなしに私は彼の胸を借りた。泣くのを押し殺した声で、ずるい、ずるいと訴え続けた。
いつまでたっても離れない私に諦めたのか、ようやくと言っていいのか、間宮はゆっくりと私の背中に手を回してさっきよりも優しく抱きしめた。
「俺に全部、守らせて」
答えなんて、ずっと前から決まっていた。
「はい」
私の中の全ては、ここにあるのかもしれないと、そう思った。
電車であんなにも長い時間乗っていたのは初めてだった。今までは車での移動がほとんどだったから、人がいないとは言え座りっぱなしで揺れて、少しだけ気分が悪い。
「大丈夫か? 降りたっていいんだぞ」
「いや、もうすぐでしょ? 窓開けて……」
浩太がすぐ後ろの窓を半分開ける。すると勢いよく風が入ってきて、私たちだけの車両の空気を一新した。
すうっと大きく空気を吸い込む。
「どう?」
穏やかな顔つきの浩太が、風になびく私の髪に触れる。すこしだけ、どき、とする。
「だいぶ楽になった。あ、ありがと」
「ん」
満足そうな微笑みは何にも代えられないものなのだと、今ではよくわかる。
目的地には早めに着いてしまい、周囲はまだ薄暗い程度だ。まだ夜までには時間がある。少し歩こうか、と浩太が提案してきたので、提灯の灯る明るい街道に入った。
「わ」
暖色の光の道を少し歩いた先に、大きな笹があった。私たちの身など、ほんのちっぽけなものに思えてしまうほどに大きかった。
首が痛くなるほどに見上げる。
「すごいね」
「そうだな。 ……空露、あれなんだろう」
笹の近くに人だかりができている。近づいてみると、テーブルで短冊を書いているようだった。子供から老人まで、たくさんの人が思い思いに願い事を書いている。
しばらくはぼんやりとその風景を眺めていたけれど、様子を伺うように浩太を見ると、それに気付いた浩太が私の手を引いた。
「書くか」
「うん」
照れをうまく隠せないように言う浩太を横目でちらちら見ながら、薄桃色の折り紙を選ぶ。近くにあったボールペンを手繰り寄せ、少し考えてから、短冊にペンを走らせた。
「何て書いたんだ?」
浩太が甘えるように覗き込んできた。良くわからないところで照れたりする癖して、距離が近くなった途端にこうだ。
未だに浩太の行動はよくわからないし、予測がしづらい。でもたまにそうしてくれることが嬉しかったりするけれど、そんなことを言うと調子に乗るだろう。だから、絶対に言わない。きっとそんなことを考えていることも、小唄はわかっていそうだけれど。
私は少し跳ねた心臓を押さえ込んで、書きかけの短冊を見せた。浩太は少し笑って、自分の短冊を見せた。
「一緒」
白い歯を覗かせにへらと笑う浩太の顔は、今までに見た人間の表情の中で一番綺麗だった。無邪気に喜ぶ浩太を見て無性に悲しくなり、机に置いてあったボールペンを再び取った。
「ちょっと追加」
「まだ書くの?」
「ちょっとだけ」
浩太は実は涙脆いのだ。そんなことを思いながら、彼に見えないように、願い事の続きを書いた。
お互い短冊を納得のいくところに吊るし、今か今かと待ちくたびれた頃、満天の星が私たちを真っ暗で優しい世界に誘った。
「こっち」
浩太の掌の感覚だけを信じて、人気のない小高い丘を登る。途中でつまづきそうになったけれど、くすくすと笑い合いながら頂上にたどり着いた。
木製のベンチに荷物を置き、風がさわさわと揺らす草を踏んで、空が視界いっぱいに見えるところまで出る。
「わあ……!」
そこには文字通り、光が空を埋め尽くしていた。青白いものや赤っぽいもの、小さいものから大きいもの。天の川に、見知った星座、あまりにマイナーなものまで見えすぎていた。
天然の、プラネタリウム。
「ここ、穴場」
「へえ、こんなところ知っていたんだね」
「昔家族で来たからな」
得意げに話す浩太。いきなり、七夕の日にこの場所に行こうだなんて言うから何かと思ったが、以前天然の星が見たいといったのを覚えていたのか……。
「ありがとう」
「お、おう」
素直に、そんな言葉が出た。少し照れているのか、顔を背ける浩太が可愛い。そんな様子を見て、自然と笑みがこぼれた。
それを不服そうに見ていた浩太も、やがてはおかしくなって笑ってしまった。いつも、この繰り返しだ。どちらかが笑えば、どちらかも笑うのだ。
「綺麗だな」
「そうだね、これがいつも見れたらいいのに」
「都会の空気は汚いからな」
「東京じゃあ、天の川見えないもんね」
仄かに高揚した顔で、浩太が強く手を握る。
「見たいか?」
「え?」
「天の川」
確かめるように、見たいか、と浩太が尋ねる。
その顔があまりにも真剣で、答えるのに一瞬戸惑った。それが浩太にとって、すべてを支えるものになってしまうんじゃないかって思ってしまった。
「見れたら、嬉しい」
じゃあ、と私の顔を見ることなく、浩太は空に向いて大きく息を吸った。
「地球のどこからも、星が見えるようにする」
「え」
「今見ている景色を、毎日見られるようにする」
異論は認めない、といったように胸を張る。
「どうしたの、いきなり」
いきなりの決意表明に、抱かずにはいられない疑問をぶつける。
そんなこと、実際問題として実現できるのだろうか。そう考え始めようとしたとき、全く考えの及ばない答えを投げてきた。
「お前、最近思うように描けてないだろ」
「え?」
図星だった。
「何で、何も言わないんだよ」
「別に……それとこれは関係な」
言いかけたら、浩太が強く手を引いた。いきなりだったから私の体は少し反れて、時間差で浩太の腕の中に収まった。
あったかい。人肌って、触れるとこんなにも安心するのだと、実際に触れてみるとよくわかる。
「いつもだったらもっと原色を使うのに、最近は淡い色とか白が多い」
分かってたのか。そんなにも私のことを見ていてくれていたのか。自意識過剰にも自惚れにも取れるようだが、そう感じてしまった。
溢れ出る何かを言葉にすることができなくて、言葉の不便さを心の底から憎んだ。
「少しくらい言えよばーか。ていうか、いい加減信用しろよな」
声がだんだん小さくなって、やがて凭れるように寄りかかる。しょげたような自信のない浩太を見たのは久しぶりだった。
なんだか可笑しくて、少し笑いながら浩太の肩に顎をのせた。
「バカは浩太だよ、私に負けたんだし」
「うるっせ」
そのネタはもう時効だ、とぼやく浩太。言いながら、はあー、っとため息みたいに大きく息を吐き出して、次の瞬間には泣きはじめた。
眠るように目を閉じる。本当に真っ暗な世界でただひとつ確かなのは、頬を撫でく風の感覚でも奥でチカチカ光る光でもなく、浩太の温もりだけだった。
「約束する。星を、お前がどこにいても見えるようにする。」
「待ってる。……ありがと」
浩太は答えず、しゃっくりをしながら頷いた。腕の力が強くなって少し痛かったけれど、震えている大きな背中が子供みたいに小さく感じられた。
浩太の何もかもが愛おしい。
「ごめんね」
私は小さく、浩太にそう告げた。
その日は雨が降っていた。
雨は優しさであり、涙もまた優しさの具現だ。ふと未だ止まない雨を見て思ったのが、そんなことだった。人に言わせると俺は涙脆いらしいが、こんなにどしゃ降りだったら泣いているかなんて気付かれないだろう。
雨や涙が優しさだとするならば、それを救う傘や大切な人の指は盃や器といったところだろうか。傘も指も合間から滴はこぼれ落ちるけれど、それはきっと淘汰されるべきものなのだ。避けることに、拭うことに意味があるのだ。守ってくれる物があること、受け止めてくれる人がいること自体に意義があり、それは同時に存在意義になるのだ。
問題は、そんなことを考えたところで雨は止まないということだ。雨のそういう無慈悲なところは嫌いじゃないし、冷たくされるのにも慣れている。最初は散々流されたし、そんなところも好きなのだけど、彼女のことだから俺に冷たくあたった後に考え込んでしまったりしそうだ。そんなことを聞くことは、もうできないのだが。
傘を忘れてしまったからここから駅までは走らなくてはならない。幸い、部分的に屋根のあるポイントは知っている。改札までずっと雨に晒される、なんてことはなさそうだ。
仕事が思いのほか遅くなってしまった。引っ張りだこで忙しいのは嬉しいことなのだが、彼女と会う時間が削れるのは本末転倒だ。急ぎ足で最寄り駅に向かい、彼女の待つ地元へと戻る。
彼女と付き合い始めたのは中学三年生の七夕ごろだから、もうすぐ俺たちは9年目を迎えることになる。その出会いも馴れ初めも普通ではないし、十五年もかけないと会いにはいけない織姫と彦星のようにロマンティックな日々というわけではなかった。だが俺たちは俺たちの平穏を大切に、今までを共に歩んできた。
今では以前のように毎日会うことはできない。距離と忙しさは残酷にも、いとも簡単に彼女を忘れそうになる。勿論、忘れたことなど一瞬もない。しかし会えない寂しさはどうしても拭いきれない。
そんなことを考えていたら、あっという間に地元に着いた。
彼女が傍に居なくなってから、毎年必ずこの頃ここに戻ってくる。彼女の前で昔の話をして、彼女の話もまた聞き、そして彼女の絵を見るのだ。俺と思しき男が笑ったその描きかけの絵は、これからもずっと完成しないままだけれど。
5年前の今日、彼女は持病を悪化させ、あっけなくこの世を去ってしまった。結ばれた恋人を無慈悲に裂くドラマチックな展開でなく、考えているよりもあっさりと、簡単に俺の腕の中から飛び出していってしまった。
死後も、俺には彼女と約束した夢があったことで、一生懸命勉強を続けられた。その結果大学には望み通りの進路を勝ち取り、常に成績は上位で努力を続けた。卒業と同時に念願だった研究者への道も決まり、今ではちゃんと社会人になることができた。
忙殺されることもしばしばだけれど、彼女のことだけを思い、自分のことを顧みず学び、働いた。だけどこの場所に帰ってくる度に、彼女がすでにこの世に居ないことを嫌でも思い知らされる。それでもまた明日には彼女を直ぐ隣に感じ続け、同じような生活に溶け込んでいく。
きっと俺は、着実に壊れている。彼女との夢を完遂するまで死ぬことはできない。逆を言えば、完遂すれば、抜け殻になってしまいそうだ。だが今では、そんなことを考える余裕もない。
『ずっと一緒にいられますように』
俺は短冊にそう書いた。
『ずっと一緒にいられませんように』
だが空露の短冊は、俺にはわからないように、雨に濡れていた。
メリーバッドエンドのつもりで書きました。
空露は短冊でなぜあんなことを書いたのか、異常とも思えるほどに捕らえられた浩太の思いの真相、二人は本当に幸せだったのか、などそれぞれ想像してもらえると面白いのかなと思います。