【5】
「その指輪はどこで拾った? 」
思った以上に喉が乾いていたさやかは、二杯目のおかわりをスイリュウについでもらっていた。茶器から連想した通り紅茶に似たその飲み物は、乾いた身体に染みわたる。
飲み終えれば、ふうと小さな息が漏れた。
ようやく人心地ついたさやかに、男は質問を切り出した。
「えっと、道端に落ちていたんですけど… 」
数々の非常事態にすっかり存在を忘れていた左薬指の指輪。
ひょっとしなくても、この指輪が原因なのだろうか。
さやかはその綺麗な細工をそっと指で撫でた。
「国はどこだ」
「日本です」
「ニホン? 」
男の顔に再び立派な渓谷が刻まれて、さやかは条件反射で身体を硬くする。
そんなさやかを見やり、慌てて口を挟んだのはスイリュウである。
「あっ!えっとさ…レイ、怒らない? 」
「怒られるような事をしたと自覚はある訳だな? 」
レイ、と呼ばれた男は、すっと目を細める。
質問に質問で返され、スイリュウは身を縮こまらせた。あーうーと言葉にならない声を出し、己のしっぽを手でくるくると回してから、よしと呟いた。
「実はさ、トンコウ先で指輪落としちゃって…そこは月が一つだったのを覚えてる」
トンコウ、がどういう意味か分からないが、それを聞いたレイは目を見開く。どうやら驚かせるには十分の事実だったらしい。普通月は一つだと思うのだが。
「お前まさか異世界で落としたんじゃないだろうな」
「エヘヘ、そのまさか」
テヘペロな勢いで舌を出したスイリュウはちっとも可愛くないと思う。だって牙がっつり見えてるし。
レイといえば、そっとティーカップを置くと、音もなく立ち上がり。
空手家も真っ青な踵落としをスイリュウの頭にお見舞いした。
「ぎゃっ」
そして何事も無かったかのようにソファへ腰掛けた。
…もう眉間の皺はデフォルトなのではないかとさやかは思う。
床をもんどり打ちながら転がるスイリュウ。レイはスイリュウを冷めた目で一瞥し、深い溜息を吐いた。この短時間で、随分と幸せは逃げているようだ。
髪をかきあげるレイの手にも、キラリと光る銀色の輪があるのを見て取った。
「この指輪は、装着している二人を繋ぐ。マリョクの低い者が相手の名前を呼ぶと、高い者の元へと転移出来る代物だ。目の届く範囲ならば行使されない」
マリョクというと、やっぱりゲームの世界みたいな魔法の力という事だろうか。一瞬で移動した出来事といい、水が操られていたことといい、非現実的な現象をこの目にしてしまったから、それは限りなく正解に近いのだろうけど。
「つまり、私がこの指輪をしてレイ、さんの名前を呼んだから飛んできたと…? 」
そういう事だ、と相槌を打つレイに、疑問はイマイチ解決しない。
(知らない人間の名前を呼んだ覚えはないのだけど…あ! )
「もしかして、レイ・チョウルイって名前なんですか!? 」
「いや、レイ・ボウだ」
「ソ、ソウデスカ」
ぎゃー穴があったら入りたい!と思う程の失態である。何がレイ・チョウルイだ。どこの中華な国の人だ。思い返せば、一度目は霊長類なんて言葉一回も口にしていないじゃないか。
脳内で一人ジタバタしながら、そういえば自分はまだ名乗っていなかった事に気付いた。
「申し遅れました。私佐々木さやかといいます」
「ササキ・サヤカト? 」
「えーっと、サヤカ・ササキです」
「サヤカ、だな」
名前は外国人と同じで、ファーストネームが先なんだった。慌てて訂正すると、レイは訛りのない発音でさやかの名を呼んだ。
「あの、いくつか質問してもいいでしょうか? 」
「なんだ」
「さっきスイリュウ、君?…が言っていた『トンコウ』って何ですか? 」
「それはねー、次元の狭間に潜って移動することだよ」
いつの間にか回復していたスイリュウが、頭をさすりながらさやかの隣へ腰を下ろす。近くに寄られるとまだ怖いのだが、とは言えない。
「さっき異世界、って話してたような気がするんですけど」
できれば、冗談だと否定して欲しい。今ならドッキリの看板を持って突入される某番組にはめられていたとしても、最上の笑顔で笑い飛ばせる自信がある。
だが、レイの口から出た言葉はさやかの希望通りのものではなかった。
「俺は、ニホンという国を知らない…そして、月は二つあるのがこの世界の理だ」