【39】
「ただいまぁ~… 」
しんと静まり返った玄関に、さやかの声が吸い込まれる。
おざなりに脱いだパンプスのヒールが三和土のタイルを打ち鳴らし、その音を響かせた。
実家暮らしだったさやかは、彰の結婚を機に一人暮らしを始めた。バリアフリーのリフォームを施された実家は、彰夫婦が二人で住むべきだと主張した。
危うく同居話が持ち出されかけて、さやかは慌てて物件をあさった。
引っ越して一週間。馴染みないアパートの電気を手探りで探す。酔いも相まって、中々見つからない。
ようやく明かりが灯り、短い廊下をふらふらと蛇行しながら歩いた。左手に浴室・トイレ。小さな台所を経て、突き当りが部屋になる。ワンルームは手狭だと思ったが、今日は何故か広く感じた。
「お風呂… 」
ワンピースを辛うじてハンガーにかけ、ストッキングは床に脱ぎ散らかした。セットアップした髪をほどき、手櫛を入れる。あちこちひっつめられた頭が痛い。本当はこのままベッドに突っ伏したかったが、最近怪しくなってきたお肌のハリを危惧して給湯ボタンを押した。気づけば二十五才。四捨五入すれば三十である…四捨五入する意味は分からないが。
追い焚き機能付き、バス・トイレ別。勤務先への近さと、それだけを決め手に選んだ。なので日当たりはすこぶる悪い。
「うぅ、ザル涼め… 」
一人暮らしになると独り言が増えるって本当なんだな、なんて思いながらアクセサリーを外した。
涼のペースに合わせてグラスを空けたら、五杯目を最後に数が分からなくなった。当の本人はけろりとし、颯爽と帰路についていたが。名前だけでなく行動も男前だ。
ミネラルウォーターを一口含んだところで、給湯完了の音楽が鳴った。
※
水音だけが浴室内に響く。
狭い湯船に浸かりながら、さやかは虹色の欠片を撫でた。
手の平サイズの鱗を肌身離さず身に付ける為に、さやかは鞄を持ち歩く習慣ができた。
光を反射して煌めくそれは、水竜の言った通り喜んでるのかもしれない。
「…綺麗、だったなぁ」
ウェディングドレスを身に纏ったあやめも、キラキラと輝いていた。幸せの光をいっぱいに浴びて、眩しいほどに。
ずっと、口に出来なかった言葉を呟いた。
口にしてしまえばもう二度とあの奇跡は起きないのだと…認めるのが怖くて。
「きれい、だったなぁ… 」
彰が新しい家庭を築き、自分の役目は終わってしまった。
もう、守るものは何もない。
「レイ、レイ… 」
さやかから零れた失意が、水面にいくつもの波紋を作り出した。
何度口にしても、あの胸には飛び込めない。
もう、二度と。




