【36】
さやかは夜の帳が下りた空を見上げていた。
…二つの月が、中庭に佇む身体に柔らかな月光を降り注ぐ。
異世界に来て一ヶ月余り。
長いようで短かった夢が、今、終わりを告げようとしている。
淡くて甘い夢だった。
終焉は酷く切ないものになってしまったけど、永遠に溺れたいと願うほどに。
幸せな、夢だった。
「さやか」
振り向けば、痛ましげな瞳のトルコがいた。
さやかはふっと微笑んで、その場に腰を下ろす。隣を示せば、ゆるゆると座り込んだ。
「本当は、今日アキラに会った事…黙ってようかと思ったんだ」
「…うん」
「だけど、必死にさやかを探してたから…元の世界に帰るのが一番いいんだって」
「うん」
トルコが、ぼやりと滲んだ。
さやかが瞬き一つせずに見つめれば、長い時間を要して、柔らかい笑顔を向けてくれた。
「アキラは、さやかのかけがえの無い大切な人なんだね」
「うん。誰よりも一番心配して、少しでも多くの幸せを感じられるよう願って。自分より大事な…存在」
「そっか…さやか、これ」
さやかよりずっとずっと大きくなってしまった手が、ふわりとさやかの手を包む。上向きにされて、そこにポトリ、と虹色に輝く欠片が落とされた。
「俺の、鱗。成竜の鱗はその人に『永久の幸福』を与えてくれるんだって。自分で言うのもなんだけどね」
「ふふ」
「さやかに、持っていて欲しいんだ」
「…いいの? 」
「これ位しか出来ないから。時々水で洗ってくれると…鱗も、喜ぶ」
「わかった。嬉しいな、ありがとう」
月明かりに照らされて七色に変化するそれを、さやかはぎゅっと握り締めた。異世界への旅が確かに夢ではないという証。
(時々、思い出すことができるのね)
口元が、自然とほころぶ。
形あるものはきちんと存在を示してくれるから。
鮮やかに楽しい日々を思い起こしてくれる。
夜風が凪いで、さやかの髪を散らす。
乱れた髪を梳いたトルコの手が、さやかの首筋に触れた。
ザンゲに残された歯型の鬱血を撫でる。
仄かな温かみを感じれば、チリチリとした痛みが消えた。
「…本当は、レイもさやかを帰したくないと思ってるよ」
どう返事をすればいいか分からなくて、さやかは黙って次の言葉を待った。
「だけど、自分のせいでさやかを危ない目に合わせたと思っているから…そんな自分を許せないんだ」
「違う…むしろ、私のせいで二人は危険に晒されたんだもの。どんなに謝っても許される事じゃない」
叫ぶように吐き出せば、トルコの両手が頬を包んだ。
「ううん。俺は、さやかに何度お礼をしても感謝しきれない位だ。一族の汚点だった俺が、レイと契約できた。成竜になれた。大切な人を…守れた。そばに居るだけが幸せだと思っていた俺に、守りたいと願わせてくれたのは、守れる喜びを教えてくれたのは、さやかだよ」
コツリ、と額が合わさり。
「ありがとう」
ゆっくりと離れ、代わりに柔らかな温もりが額に落ちた。
「さよなら、俺の女神」
立ち上がり差し出されたトルコの手を、その一時を惜しむように、ゆっくりと、時間をかけて掴んだ。




