【2】
光一つない漆黒の闇。
猛スピードで風をきる感触。ひゅっと臓器を持ち上げられる感覚。
(落ちる…! )
過去ジェットコースターに乗った体験を思い出し、さやかは自分が落ちているのだと思った。
何故も、どうしても分からないままだが。
人間本当に怖い思いをしている時は、悲鳴など上げられないと知った。
ジェットコースターは自分が乗ると認識しているから声が上げられるのだ。
歯を食いしばり、己の肩をぎゅっと掴む。
何一つ見えないのが怖い。
いつ終わるのか分からないのが恐ろしい。
どんどん加速しているような錯覚さえ覚える。
何処までも、下に、下に。深く。
耳鳴りの様な風音におののきながら、数十秒とも数時間とも感じた時。
視界が青で満たされた。
「!!? 」
その刹那、身体に叩きつける様な衝撃が走る。
ごぶ、と口から気泡が漏れると同時に感じる息苦しさ。
パニックになりながら、うっすらと目を開ければ深い青。
纏わりつくような抵抗を振り切るようにがむしゃらにもがいた。
身体が重くて、いう事を効かない。
さやかは自分が溺れていると分かった。分かったが、足のつかないところで泳いだ経験がない。
遠くの方で光が揺らめいて見えても、徐々に遠ざかっている気さえする。
ごぶり、ともう一度大きく空気を吐き出す。
(苦しい…苦しい…! )
頭の中が苦痛で満たされ、すう、と身体の力が抜けた。
まさにその瞬間。
体中に加わる圧迫感と急速な浮遊感。
粘り着く様な抵抗を抜けると、本能が口を開いた。
「…げほっ! ぐっ…は!! 」
大量の水を吐き出しながら、さやかは空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
ぼたぼたと滴り落ちる水を感じながら瞳を開けてみれば、ぼんやりとした視界一面を覆い尽くす緑をとらえた。瞬きを繰り返し、視界をクリアにする。
木々は青々と生い茂り、色とりどりの花が咲き乱れている。視線を少し左にずらせば、キラキラと陽光を反射する水面が見えた。どうやら自分はそこで溺れていたようだ。
「おい」
状況を確認していたさやかに、険のこもった声がかかる。
声の主を探すために辺りを見渡したが、視界に入るのは樹木と水面ばかり。
おかしいな、と首を傾げていると足元から大きなため息が聞こえた。
見下ろすと剣呑な雰囲気を纏った視線とぶつかる。
その視線の持ち主は一言で表すならば『奇妙』だった。
殺人ビームが出せそうな程(出したのを見たことはないが)眉間に皺を寄せた双眸はライトグレーで、これはまだそこまでおかしくはない。
髪は白銀で長く、一体どこのビジュアル系バンドだと言いたい位だがこれもまだそこまで逸脱しておかしい訳ではない。
地を這う様な低い声からして、恐らく男性であると予想する。そこはおかしくないだろう。
段々自分の思考がおかしいんじゃないかと訳が分からなくなってきたところで、いやいやと頭を振る。
では、何がおかしいかというと。
その人物の右手に巻き付いているのは水に、見える。
H2O、まごうことなき液体である。
それが、男の手に巻きつき、伸びている。
「水辺で俺を襲うとは、よほどの自信があるとみえる」
冷酷な声で吐き捨てる男を、さやかはただ呆然と『見下ろして』いた。
溺れていたせいであまり働いていなかった頭がようやく動き出し、何故見下ろしているのかと疑問を抱く。
そして、手足の自由がきかない事に気付いた。
(なに、これ)
どうして今まで分からなかったのだと思うほど、己の状況は常軌を逸していた。
男の手から伸びた水が、自分の手足を拘束している。
おまけに自分はその水の力だけで浮いていた。
何もかも訳が分からず、救いを求めて男に声をかけようとすれば。
「…っ!」
一声も発する事なく水は首元へ巻き付いた。少しずつ、締め上げる力を強めていく。
男の顔は益々険しくなり、さやかはぞくりと背筋を凍らせた。
今までの人生で感じたことのない冷気。その冷気の名を殺気と呼ぶ事など、平和な日本で暮らしていたさやかは知らない。
脳は酸素を失い、再び意識が薄れていく。
どうしても、何故も分からないまま。
男に恨まれる覚えはなかったが、世界がさやかを排除したがっているのだと思った。
やっぱり、許されないと。
空気を求めて首元に両手をあてても、水は掴める事などなく。
ふっと緩んだ感覚と切迫した声を何処か遠くに聞きながら、さやかの意識は黒く塗りつぶされていった。