【18】
お昼前に帰ってきたトルコは、さやかの前でびしりと敬礼した。
「えー、本日はきらびやかなご婦人が『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』って扇子ばさばさしてました! 」
「…私みたいな服装の人は」
「いなかった! 」
「だよね! 随分世界に羽ばたいたね! 」
どんだけワールドワイドになるんだ。時代も国も合ってない。
さやかの手厳しい突っ込みに、水竜はしょんぼりと肩を落とした。
「せめて俺が空を飛べたらいいんだけどな」
「歴史上が大惨事になるから飛ばなくて大丈夫よ」
「…飯は」
レイが亭主関白親父化したので、さやかは昼食作りにとりかかった。
まだ天然酵母が出来上がっていないので、本日は無発酵パンを作る。
材料は、小麦粉、砂糖、塩、水と至ってシンプルなもの。
これらの材料を混ぜて叩き捏ねたものを小分けにして丸め、1時間前に寝かせておいた。
その一つ一つを薄く伸ばして溶かしバターを塗り、くるくると丸めたものを渦巻状にする。
平たく潰してフライパンで焼けば、南インドケーララ州でも食べられる『パロタ』の完成だ。
ふわふわの食感がたまらない。
昨日カレーは食べたので、甘辛く焼いた豚肉と葉野菜を添えた。
スープは豆入りのミネストローネで、野菜もたっぷりだ。
これならレイも納得してくれるに違いない。
さやかは手早く盛り付け、食卓に並べた。
※
夜も更け、昼間の曇天が嘘のように空には星が瞬いていた。
「この本の続きが気になっている。今日も先に寝ていてくれ」
「…」
「どうした? 」
昨日と同じ台詞を吐いたレイに、さやかはとある疑心に駆り立てられていた。
「…もしかして、またそのまま寝るんじゃ」
「昨日のはたまたまだ」
「じゃあ、私もソファで寝ます」
「…意味がわからない」
身体を起こして背もたれによりかかったレイとは反対に、さやかはソファへと寝転がった。
「身体が痛くなるぞ」
「それは実体験から!? やっぱり意図的に寝てたんだ! 」
「あのな」
「どう考えても私の方がピッタリだからっ」
ジャストフィットですよ!と言わんばかりにぴっちりソファにはまれば、レイの幸せは空気に溶けて消えた。
「どうした」
「どうしたとは? 頭は至って正常ですよ」
「そうじゃない。どうしてそんなに沈んでいるのかと聞いたんだ」
しらばっくれるさやかに、レイはストレートな疑問をぶつけた。
「…別に、何でもないです」
「沈んでない、とは言わないんだな」
「じゃあ、天気が悪かったからです」
我ながらじゃあってなんだよと思いながらも、咄嗟に出てきたのはトルコにも使った白々しい言い訳だった。
さやかはくるりと寝返りをうち、ソファの背もたれを見つめた。
もう一度大きなため息が静かな室内に響き、ソファの軋む音と、遠ざかる足音。
(呆れて出て行っちゃうのか)
そう思えば、身勝手ながらツキリと胸が痛んだ。
(だけど、これでいい)
親しくなれば、別れはきっと辛いものになってしまう。
レイもトルコも優しくて、温かくて、ほんの僅かな時を共有しただけでこんなにも幸せを感じているのだから。
もっと沢山時を共有して、笑って、一緒になんて過ごしたら。
帰りたくないと願ってしまう。
それは、何よりも愚かしい事だ。
願うなんて、さやかには許されない。
もうすでに傾き始めている気持ち。
…今ならまだ間に合う。まだ引き返せる。
まだ、取り返しのつかない程愚かでは、ないだろうか。
取り返しのつかない程、罪深くはないだろうか。
鼻の奥がツンとなり、喉がぎゅっと締められる感覚に、慌てて鼻を啜れば。
ふわり、と感じる浮遊感。
「ひゃ…! 」
この数日慣れ親しんだ感覚だが、いつもと違ってさやかを包み込む温もりがあった。
恐る恐る目を開ければ、さやかを見下ろすレイの顔が窺えた。
「あ、あの」
軽い揺れにレイに抱きかかえられているんだ、と分かる頃にはベッドに沈んでいた。
レイと、一緒に。
「…昨日うなされていた」
「それはご迷惑おかけしました」
「そうじゃない」
「じゃあ…」
どうしたらいいのか…さやかは言葉を詰まらせた。
「お前の、願いは何だ」
「願い? 」
唐突に何だろう。
身の置き場所に困って、さやかはきゅっとレイの服を掴んだ。レイ本人と、シーツで…さやかは心地よい香りに溺れそうだった。溺れ…堕ちていきそう。
「沢山迷惑をかけた。俺にできることなら…叶えてやる」
「私も同じくらい迷惑かけてるから」
「それで、願いはなんだ」
いりませんという言葉はさやかの口中に溶けて消える。
レイは、意外と強引なのだと知った。
その強引さに、たった一つの我が儘な想いを許された気がして。
「一日も早く、元の世界に帰りたいです」
さやかは、自分の気持ちに嘘をついた。
自分の気持ちを偽り、たった一つの想いを込めた。
何よりも帰りたいと願うから。
だから。
この異世界を儚い夢として溺れてもいいだろうか。
レイと、トルコと笑い、この甘い甘い夢を堪能してもいいだろうか。
私は必ず帰るから。この夢を間違いなく終わらせるから。
幸せで、泡のように消える夢を味わいたい。
ほんの、一時でいいから。
(それだけは、許して…彰)
そうか、とレイの指がさやかの髪を包む。
さやかは、全てに溺れて堕ちていった。




