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 目を覚ますと重い体を壁にもたれかけている自分が居た。

 ゆっくりと頭を上げて辺りを見廻せば壊れた街並みと傷付いた人ばかりが目に映る。

 喉が焼け付いたかのように熱く声が出ない。

 どうしてこんな事になったのかと、記憶を探ってみても何も思い出せる事はない。

 そして自分が何者であるかすら思い出せないことに気付く。

 その事実に気付いた瞬間、周囲の空気の温度が下がった気がした。

 自分の体が自分の体でないような気さえして、体が虚無感に支配されていく。

 重かった体は既にその重さを失い、新たに浮揚感を手に入れた。

 体を支配する概念である筈の自我の消失。生への執着なんてものが今の自分からは感じられない。

 そうやってまた俺だったか僕だったかは意識を手放した。


【暗転】


 頬に細く柔らかな指でなぞられる感触を感じて意識を覚醒させる。

「あ、イケメン様のお目覚めですね」

 瞼を開くと白い天井と和服姿の綺麗な女性が出迎えてくれた。

 身じろぎをしてベッドから上半身を起こす。

「おはよう」

 誰に向けてか、言葉を紡ぐ。

「はい、おはようございます。あなた様」

 自分の声と女性の声のどちらにも聞き覚えは無く、あなた様と呼んだ彼女の顔に見覚えは無い。

「ここは?」

「あーここはですね、私こと養老玉藻の治療所になります」

 養老玉藻という名前に心当たりは無い。

 それどころか自分の名前すら分からない。

「あの、つかぬ事をお聞きするんですが」

 辺りを見回すと薄汚れた倉庫のような部屋。

 扉と窓が一つずつ。

 無造作にダンボールが積まれている。

「はいはい、なんでもお聞きになってくださいな」

 玉藻は手で耳を作って、首を傾げる。

 そこで俺は玉藻が同じベッドの上に乗っていることに気付く。

「……俺は誰ですか?」

 なんとも奇妙な問いだ。

 こんな問い掛けをする日がくると過去の自分は想像していただろうか。

「むぅ……やはり記憶障害が起きてましたか」

「記憶障害?」

 昨日の事や知り合いのこと、手当たり次第に色々なものを思い出そうとしても何も思い出せない。

 成る程、記憶障害だ。

「サムサラ近くで転がっていたあなた様の電脳をほんの少しばかりお調べさせて頂いた所、ここにおわしますイケメン様のお名前は"榊 綜"、サムサラ出身ということだけ分かりました」

 電脳、人間元来の脳に電脳使用者とネットとを直接的に繋ぐ機能を付与した脳。

 サムサラ、先端科学技術に秀でた科学者と富裕層などが汚染された大地や貧民を切り捨て建造したアーコロジー。

 電脳、サムサラ、拾った単語から頭が勝手に情報を引き出す。

「さかき、そう……か」

 自分の名前を未だ電脳の中に残っているであろう人間元来のスペースに刻み付ける。

 するとそれが鍵だったかのように自分の過去の映像がポツリポツリと脳裏を巡り出した。

 しかしその映像から懐かしみは感じられず、ノイズの掛かった動画を観ている気分にさえなる。

「ええ、それがあなた様の名前です」

 名前も記憶も自分の物である筈なのに、自分の物であるという実感が湧かない。

 自分の記憶に対する不信感は顔に出さず、脳裏を巡る映像に意識を向ける。

 ネット上の仮想空間と思われる場所で何者かと戦う自分の姿、ドレッシーな赤い服を着た金髪の少女の姿。

「っつ」

 記憶が逆行したことの反動からか頭痛が頭を襲いだす。

「あらら、頭痛ですか?」

 玉藻は小さな注射シリンダーを袖から取り出す。

「大丈夫だから」

 そう言って手で制す。

「残念、私が調合した被験者ゼロの新薬だったんですけど……」

 心底残念そうな顔で玉藻は恐ろしい事を呟く。

 とにかく今の自分にあるのは僅かな記憶と体と電脳。

 この先、玉藻の庇護を与れるとは限られない。

 たとえ記憶や体を自分の物であると思えなくともここは信用するしかないだろう。

 それ以外に拠り所はないのだから。

 そんなことを考えていると、いつの間にか頭痛は引いていった。

ーーーコンーーー

 部屋の扉から控えめなノックの音が鳴る。

「紫乃ちゃん? 入ってくださいな」

 玉藻はノックを鳴らした者に入室を勧める。

「先生、患者さんがお見えになってます」

 開かれた扉から一人の少女が姿を現した。

 肩に掛かる程度に伸ばされた髪は黒く、顔付きはやけに若い。

 俺の方が年上か。ベッド脇にあった鏡を見てそんな事を思う。

「怪我? 病気?」

 玉藻は紫乃にそう尋ねながら腰掛けていたベッドから立つ。

 先ほどまでのふざけた様子とは異なり玉藻の顔は実に真面目なものだ。

「腕から出血しているようでした。街でいきなり切りつけられたとか……」

 紫乃は扉の近くに立ったまま答える。

 物騒なものだ。

「分かりました。すぐ行きますね。紫乃ちゃん、綜様のお世話をお願いします」

 そう言い残して玉藻は部屋に俺と紫乃を残して居なくなってしまった。

 物音のしない部屋に男女が一人ずつ。

 気まずいなんて事はない、きっと。

 紫乃は部屋から玉藻が出て行くのを見送った後、こちらへ向き直る。

「おはようございます。お目覚めの気分はいかがですか?」

「おはよう。まるで生まれ変わったような気分だよ」

 言葉に詰まるなんてこともなく適当な事を呟く。

 言語や知識の欠落は無く、ただ記憶だけが手を伸ばせば届きそうで届かない場所にあるような感覚。

「それはまた……」

 俺の言葉が自嘲めいて聞こえたのか、紫乃は慎重に言葉を選んでいるようだ。

「お互いに自己紹介しとこうか」

 自己紹介は必要な事だ。

「そうですね。私は霧咲紫乃です。ここで玉藻先生の手伝いをしたり子供達の世話をしたりしています」

「俺は榊綜……らしい」

 自分の事も世の中がどういう状況なのかすら分からない身だ。

 この際、紫乃から引き出せるだけの情報を得よう。 

「記憶障害を起こしているということですが、何も覚えてないんですか?」

「記憶喪失というよりは記憶にうまくアクセスできないといった感じだな。何かきっかけさえあれば思い出せるといった具合で……」

 現に電脳やサムサラについては頭の中にあった。

 自分の名前をきっかけにして記憶らしきものが流入してくる感覚もあった。

 その内に記憶を取り戻すことができるだろうという確信。

「そうですか……私には詳しいことは分からないんですけど……早く思い出せると良いですね!」

 自分の無力さを悔いるような表情を一瞬見せた後、紫乃はひどく眩しい笑顔を俺に向けた。

「そうだな」

 記憶を取り戻す事が必要なことなのかどうか正直俺には分からない。

 過去のしがらみから解放されて、別の人間として生きていく事も不可能ではない。

 当然、戸籍や過去の人間関係といった諸問題とは向き合わなければならないだろうが。

 今の自分は世間に対して無知すぎる。

 これからの指針を立てるべきは今じゃない。

「もし分からないこととかがあったら私か玉藻先生に聞いてください。まあ電脳を使ってネットで調べれば大抵の事は分かると思いますが……」

「電脳の使い方なんて……」

 そんなもの分かりっこない。

「あぁ、そうでしたね。私は電脳を積んでいないのでちゃんと説明は……できないんですけど……っと」

 紫乃は端末機を取り出すと何かを操作し、画面を俺に、見せた。

「これは?」

 端末に映し出されているのは注釈付きのインターフェイスのようなものだ。

「電脳のマニュアルです」

 紫乃は素早くマニュアルに目を通していく。

「……」

 俺はただ黙ってその様子を眺める。

 整った顔立ちに華奢な体。

 幼さをところどころから感じさせつつも、どこか落ち着いた雰囲気。

「よし。それじゃあ説明させて頂きますね」

 可愛いなあなどと考えている内に紫乃はマニュアルに目を通し終えたらしく端末から目を離す。

「よろしくお願いします」


【暗転】

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