§06 余話:人生はファンタジーの方が良い
今回は私事です。
知人の父君が亡くなられ、昨日(10/6)告別式に参列してきました。
商店街の中にある自宅で行われた仏式の葬儀でした。
冠婚葬祭、特に葬儀は村八分でさえも例外になる大切な儀式です。
人間死ねば皆神仏になるとよく言われますが、本当にその通りな気がしました。
小さな店が並ぶ昭和の佇まいを色濃く残すその商店街はそれなりに活気があるようですが、告別式は朝9時からで、シャッターが落とされたままか開店準備中の店ばかりでした。
さて、殆どの参列者は式場から溢れて、開店前の商店街に立っていました。
互いに顔見知りも居るのですが、主役は故人です。
偶に立ち話が交わされるものの、式の進行を黙として見守る人ばかりでした。
1時間半ほど、商店街に立っていたのですが、感激したことがあります。
まず、葬儀の場を通過する自動車やバイクは皆何か遠慮がちに通り過ぎてゆきます(人が多いので徐行していると言うだけでは無い様に思えました)。
また、拡声器を使っている回収車も葬儀場となっている故人と喪主の自宅近くを通り過ぎるときは音を消していました。お陰で読経の声が妨げられることなく、式は進行しました。
更に驚いたこと(この余話を記さずに居られなかった直接の動機となった出来事)は、儀場の前を通過した一人の男性が正面で足を止め、手を合わせて故人に一礼して通り過ぎたのです。また、あるスクーターはエンジンを止め、儀場の前を押して通り過ぎてゆきました。
関係者と知人だったのでしょうか?私はそうは思いませんし、そうは思いたくありません。
葬儀に対して、その人は自然にその様に振舞ったのだと思いたいのです。
二人とも質素な普段着で決して豊さを連想させるような身なりではありませんでした。
しかし、その瞬間、その立ち居振る舞いからはとても尊い何かを感じ、深い感銘を覚えたのです。
立派な身なりや、上手い装い、歩く姿勢の美しさといったものは確かにあります。ですが、その時の二人からはそのような目に見える何かとは明らかに異なるものがありました。
見ず知らずの故人であっても、そこで手を合わせて一礼する、下乗する。
神仏や高貴な存在の前をそのまま通過することは礼を欠く行為である。
確かに私も礼儀作法の一つとして、知ってはいました。
でも、それを日常生活で実践するということでは天地の開きがあると思うのです。
信心深い行為というのかもしれませんが、今回目の当たりにした行為は決して否定的なものではなく、目にした瞬間私は暖かいものに包まれたような、将に神々しい瞬間であったように思えたのです。
今の日本では、(確かにそういった事例に事欠かないのも事実ではありますが)宗教的なものを胡散臭げに捉えることが少なくありません。マルキシズムが嫌いな私ですが「宗教は阿片だ!」には納得していたりもする有様……
ですが、昨日のあの二人の行為は、遠慮がちに通り過ぎる車は何なのかと考えると、やっぱり今に残る日本の伝統というか信仰というか文化なのだろうと思うのです。そしてその文化の心地良い瞬間を体験したと言うことなのでしょう。
お見送り後、帰宅する私は商店街の店々に興味を覚えたのですが、自分が喪服であることに気づき、不謹慎な行動は故人と遺族の評判を落とすことになると思い至りました。「xxさんの所の参列者は不謹慎だねぇ~」等と町内で悪い評判になったら大変です。二人の尊い行為で受けた感銘を自ら汚す行動です。
私は告別式の体験を反芻しながら商店街を後にしました。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
此処しばらくは私はファンタジー小説を好んで読んでいます。
勇気や信念、思いやり、謙虚さ、慎ましさ、愚直さ、献身……、現実世界ではそういった多くの美徳を評価することを拒むかのような風潮があるように感じられるのです。
ところがファンタジーの中では違います。
誰憚ることなくそれらの美徳が活かされ、世界を動かす原動力として描かれています。私にはそれが心地良いのです(現ではあまり正直に生きては居ない私ですので……)。
現実世界もファンタジーのように正しいものは正しいと、駄目なモノは駄目といけば良いと思うのですが、夢と現は遠いのであります。
昨日、二人の振る舞いを目の当たりにした時、ファンタジーのように美徳とされることをそのままに振舞えたら格好良いのではないかなぁ~と改めて考えさせられたのでした。
理屈はもう止めます。
今回は「仏様となった故人が私に(気づきと言う)ご褒美を下されたのだ」と、そう思うことにします。その方が考えていて楽しいし、なにか少し力が湧いてくるような気がするのです。だから少しだけ、ファンタジーとの距離を縮めて見ようと思うのです。
この際、自分のことを棚に上げて叫んでみます。
「今の世の中、ファンタジー成分が不足している」
と、