【番外】ネット小説の読者へ ~黄金律と論理学(下)~
黄金律と論理学
さて、(上)の黄金律と(中)の命題から一つの結論を導くことが出来ます。
私が則っている(あるいはそう努めている)ところの
「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。」
私の表現では「自ら厭うことを他者に為さない」
を(必ず成立する)対偶命題で書き直してみます。
「他者に為すことであれば自らが厭うことではない」
これが、私が申し上げたいことなのです。もう少し言葉を整えてハッキリと書き直します。
「他人にその様な仕打ちをするからには自らも同じ仕打ちを受ける覚悟がある(はずだ)」
と云うことです。少し乱暴なのではと思われるかもしれません、ですが先ず誰も否むことの無い「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」と論理的には同義の言葉なのです。
例えば通り魔は当然自らが通り魔の被害にあうことを望んでいる(と看做す)のです。重要なことは望んでいるのは私(多分普通の人々)では無く通り魔であると云うことです。通常私達に出来る対応はその望みを無視する(避ける)ことですが、仮に通り魔の望みを叶え(反撃し)たとしても、それは相手の価値観を尊重(相手が為した、あるいはこれから為すであろう行為の何たるかを推認)した結果に過ぎず、少なくとも「論理的には応じた方が非難されることではない」と云うことです。
解りやすい例では正当防衛や犯罪者に対する刑罰がそれに当ると思っています。彼等の行為を尊重(行為の推認あるいは結果の真偽を確認)し、望みに近いもの(当然に予見出来る結果)を与えているわけです。勿論刑罰を科す側は犯罪者と同じ価値観を有している訳ではありませんし、共有する必要も無いのです。
仕掛けられた不条理に対して対応の選択肢(相手を「尊重」し応じるか回避するか)は専ら受け手の裁量ですが、選択内容に拘わらずその結果生じる一義的(→注釈)な責任は仕掛けた側のみが負わねばならない。これが「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」が説くもう一つの理なのです。少なくとも私はそう考えています。
だからこそ私は「自ら厭うことを他者に為さない」を守ろうと努めることが大切だと思うのです。
注釈
全ての責任が仕掛けた側にあるとまでは言い切れません。ですが最低限として仕掛けた側が被った不利益の責任については免れ得ると考えなければなりません(さもなくば「当り屋」にお墨付きを与えることになってしまいます)。
「お前の母ちゃんデベソ」と罵った相手を殴れば「殴られるのは当たり前だ(殴られた方が悪い)」となります(仕掛けた側が被った不利益に対しては免責される)。ですが「アイツは親を馬鹿にすると暴力で反撃する奴だ※」との(第三者により)評価までをも免れ得るものではありません。一義的には仕掛けた方に責任があっても、副次的、派生的に生じる結果の一部については「自らその対処を選択した」として受け入れざるを得ない場合があるのです。
※ 少なくとも私個人は「親を馬鹿にされては我慢できない」と云う人が好きですし、その人の側に在りたいと思っています。私は「言葉の暴力」と「物理的な暴力」を区別することに(道義的な)価値を見出せない人間です。