§20 それは他人に振り翳すモノではない
善意で、親切で、相手の為を思って……
相手が嫌がる、相手を傷つける行為を、そのように云って正当化する人がいます。
個人的には剥き出しの悪意の方が未だしも心地良いと思います。美辞麗句と云うオブラートで正当化された(殊に無自覚の)悪意をその比較の対象とするのであれば……
「それが相手の為になるから……」確かに教育や医療の場においてはそのようなことも日常でしょう。ですがそれを正当足らしめるのは、庇護者(保護者や師)による被庇護者に対する行為に限られるはずです(※)。それさえも躾と称する虐待が社会問題となっていることはご存知の通りです。
基本的に対等な人間関係を前提としているネット社会では両者の合意抜きで庇護と被庇護の関係は成立し得ません。ですから、「小さな親切大きなお世話」と云う可能性を、自らの言動により他者を傷付けることへの恐れを忘れてはイケナイと思うのです。
善意、親切、誠意、理想、理念、信条・・・・・正義、これらの言葉が心地良く響くのは他人に振り翳したときではないはずです。
自ら対する戒めとしたときにそれが輝きとなるのだと思います。ですが、もしも他人に振り翳したときそれは単なる上辺だけの美辞麗句となり、自己満足の傲慢で浅薄な言葉の刃に、他人を傷付けると同時に自らを貶める呪いに堕ちてしまうと思うのです。
親切、指摘、助言…… と云った言葉で体面を繕った誹謗、糾弾、非難なのではないか?相手の立場に立ってもう一度考えて欲しいと思うことが多々あります。
自らを引き立てることが叶わない粗末な装いと、他人を傷付け自らを貶めてしまう豪華な装い。後者は選びたくありません。
人夫々に大切な思いをお持ちのことと思います。それは他人に振り翳すことなく、是非自らに対する戒めの言葉としてお使い頂きたいと思うのです。
作者に対する読者の思いはそのように在って欲しいと自戒を込めてそう思います。
私は楽しみにしているお話の続きを読みたいのです。
※ 本当は庇護者であっても振り翳しているのではなく、庇護者としての己が務め(責務からの戒め)に支配されていると解釈した方が一貫性があると思うのですが、ここでは便宜上、「庇護者にのみに許される」との表現を採りました。
お寄せ頂いた感想本当にありがとうございます。
もう少し先に綴りたいことがございます。頂戴した感想の返信はその後になると思います。本当に申し訳ありません。